4-10 異変
次の日の夜。ゆずは自室から出て、ため息を吐いた。
はっさくに殴られた昨日の今日。皆と顔を合わせる気になれない。カフェでどう過ごせばいいのかわからない。といって、ずっと部屋にいるわけにもいかない。
迷いは晴れないまま、重い足取りでカフェへ続く扉を開ける。
「こ、こんばんは……」
店内には、四人が集まっていた。らいむはいつも通りカウンターの奥で手を動かし、はっさくはソファ席で目をつむりながら足を組んでいる。すだちはカウンター席に座っていて、みかんはキッズスペースで玩具の銃をいじっている。
ゆずは後ろ手で扉を閉めた。定位置となっている席へ向かい、腰掛ける。
まずはらいむに、昨日のことを謝ろうと口を開くが、先に声を掛けられた。
「こんばんは、れもん。今日は寝坊ですか?」
店内の空気が、凍りついた。
隣で座っているすだちが身体を大きく震わせる。玩具の銃をいじっていたみかんの手も止まる。はっさくはカウンターの奥へ目を向けたまま固まっている。
「……えっ?」
やっとのことで、ゆずは喉の奥から疑問符を零した。
視界に映るらいむだけは、普段通りの微笑みを浮かべたまま、話を続ける。
「どうしました? はい、れもんの好きな紅茶とフルーツタルトです」
細い指がカウンターの奥から伸びてきて、カップと皿を置いていく。
真っ白なカップの中には、何の液体も入っていない。皿の上も、空っぽだ。
ゆずは背筋で虫がうごめくような得体の知れない恐怖を覚え、立ち上がった。
「らいむさん、なにを言っているの!?」
「らいむ、さん? 急に改まってどうしました? いつもれもんは、らいむと呼んでいるじゃないですか」
らいむは穏やかな微笑みを浮かべているだけ。
ゆずは隣にいるすだちへ目を向けた。すだちは身を細くしながら、ゆずと目が合うと途端にうつむいてしまう。後ろへ振り返ってみかんを見ると、こちらを見ずに玩具の銃をいじりだす。はっさくへ視線を向けると、何事もなかったように目を閉じる。
「なんで……。なんで……、みんな……」
その時、ドアベルの音が鳴った。
「こんばんはー」
明るい声を出して、オカメインコ姿の青葉が入ってくる。
ゆずは視界の隅で、鈍く光るものを捉え、とっさに青葉へ駆け寄った。
「青葉さん!」
青葉の体を捕まえ、胸に抱き寄せる。
一本のナイフが頬を横切り、扉に突き刺さった。
「すみません。見慣れない物が入ってきたので。れもん、それは虫ですか?」
ナイフを投げたらいむが、平然と微笑を浮かべている。
心臓の鼓動が、警鐘を鳴らすように激しくなる。震える手で店の扉をこじ開け、青葉を外へ押し出した。
「ゆ、ゆず? なにがあったの? さっきのらいむちゃんは……?」
「青葉さん、今は帰って! お願いだから今は帰って!」
戸惑う青葉にそれだけ言って、扉を閉める。その場で膝から崩れ落ちそうになるが、また背後から優しい声が掛けられた。
「れもん? さっきからどうしました?」
身体中を虫が這うような感覚に、吐き気さえ覚えた。
振り返ると、こちらを気遣うように、弓なりに細められた瞳がある。昨日も見た。一昨日も見た。いつもと変わらない微笑が、そこにはある。
「違う……」
乾いた口内から、絞り出すように、言葉を吐き出す。
「れもん?」
また。自分に向かって、その名前を告げられる。
「違う! ぼくはれもんじゃない! ぼくはゆずだ!」
精一杯、声を上げた。自分の存在を証明するように。自分を認めさせるように。
「れもん、紅茶が冷めてしまいますよ?」
返ってきたのは、優しすぎるほど残酷な声。
ゆずはもう、言葉が出なかった。身体が寒い。息もできない。
その場から逃げ出し、スタッフオンリーと書かれた扉の先へ飛び込んだ。
扉の閉まる音が、店内に大きく響いた。
「どうしたんでしょう、れもん。あんなに急いで、なにかあったんですかね」
らいむが不思議そうに首を傾げて呟く。
その向かいでは、すだちが席に座ったまま、うつむいていた。
「すだち」
不意にはっさくの声が聞こえ、すだちは肩を跳ね上げ、顔を上げる。
「気分が悪いなら、部屋に戻れ」
それだけ言って、はっさくは目を閉じた。
すだちはなにも言えずに、また視線を落とす。小刻みに震える身体からは、声を出す元気も出ない。
目の前には、空のグラスと、なにものっていない白い皿が置かれていた。
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