迷い

「源様、隣の家から手紙とのことで」

「あ、あぁ……」


 隣の家といっても乳母の隣の家の住民だ、俺とは一切面識がないはずだが。

 恐る恐る、これ見つから手渡された手紙を開く。


『助けて』


 たった一言。ただそれだけが添えてあるのみであった。けれど、その筆跡からは必死さと切実さが伺える。


「――隣の家には、誰が?」

「自分の記憶ですと……大した身分ではない、というくらいしか」

「そうか」


 じわりと滲んだ汗は、まだ残る夏の暑さからなのか、それとも焦燥からか。どちらにせよ、何故か嫌な汗が流れた。

「早く助けなくては、行かなくては」と頭は体を動かそうと必死になる。けれどもそれが、どうしても体が許してくれない。「今じゃない」体がそう言っているのが聞こえた。


『今は、そのときではない。は決まっている。これ以上乱すことは許さない』


 それが誰の声なのかはわからない。少なくとも、俺はこの声の主を知らない。


「ふざっ――」

「?」

「……ッ!」


 うまく話せない。惟光が不可解そうに俺を見つめている。

 筋書き。確か、緒音も同じことを言っていた。


『君は迷っているね。なら、筋書きのままに動け。これはの物語だ』

「……」


 何を言えばいいのかわからない。たしかに俺は迷っている。このまま、本当に葵との約束を、俺の野望を果たしていいのか。乳母に言った言葉がフラッシュバックする。


 すまない。大口をたたいていながら俺は、俺の行いを疑問に思っている。このまま突き進んだ先、緒音が行った通り葵が死んでしまうことが、これから先出会う人々が死んでしまうのが……酷く怖い。

 自分が死ぬのはいい。一度経験しているから。けど、誰かが俺のせいで傷つくのを見るのは嫌だ。


 そんな自分勝手な思いが、今の状況を作り出しているのか。


「……惟光」

「はい、なんでございましょう」


 気づけば、体の主導権は完全に奪われていた。


「隣の家にいる女について調べろ。徹底的にだ。どれだけ時間がかかろうと構わない。そうだ、この手紙に対して返事を返さなければ」


『申し訳ない。なんのことでしょう』


 惟光に紙と筆を用意させて、俺の物とは判断がつかないほどの字でそう書いた。

 その紙を惟光に渡して、


「これを返事として渡してくれ。ああ、もちろん僕の身分は隠して」

「は……わかりました」


 失礼します、と惟光が部屋から出ていったところで体の主導権が俺のものに戻ったのがわかった。

 戻る瞬間、『しばらく考えるといい。自分がどういった存在なのかを』という言葉が聞こえた。何を意味しているのかはわからない上に、俺の体を乗っ取った奴の言葉を聞き入れるのは気に食わないが……確かに一度、考えるべきかもしれない。


「皆のもの、乳母とも話せたことだ。僕は帰ることにするよ。すぐに車の用意を」

「源様、さきほどの言葉は」

「聞こえなかったか? 俺は帰ると言ったんだ」

「も、申し訳ありません」


 がたがたと、前世では感じることのなかった不快感を覚える車に運ばれて、ただただ外を眺めるだけだった。

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