乳母を見舞う
到着と同時、俺は馬車から飛び降りた。なに、そんな高さがあるわけでもないので問題ない。
「おいっ、僕だ! 源だ!」
扉を開こうにも、錠が掛けられていて開くことができない。バンッ、バンッ!と激しい音を立てて扉を叩く。自分でも酷く取り乱しているのが分かったが、なぜここまで取り乱しているのかが分からなかった。
「源様ですか! すぐに扉をお開けします」
「その声は惟光か!」
酷く動揺している俺とは打って変わって、酷く冷静な声色の男が扉越しに声をかけてくる。
「久しいですね、源様」
扉が開かれ、細い目をした優男が声をかけてきた。アニメキャラなんかだと裏切るタイプのやつだ。
「あぁ……最後に会ったのはいつだったか」
「成人の儀には参加できませんでしたから……まったく覚えておりません」
はっはっ、と口を抑えて上品に笑う。惟光は乳母の息子で、俺がこの世界で唯一、兄のように慕い尊敬している人物だ。
「――本来であれば、もう少し語らいたいところではありますが……そうは言っておられませんね。こちらへ」
細い目でも、その奥には真剣さが宿るのが声色だけでわかる。走り出しそうになる足を抑えて、できる限りの早足で乳母の元へと向かう。
「源様をお連れしました」
案内された部屋には、惟光の兄や乳母の娘に、その婿など多くの人物が集まっていた。全員の注目が一瞬、乳母から俺へと集まるが、乳母のことも気遣い静かに礼をするだけにとどめた。
「あぁ、なんと……こんなにも多く来て下すっているだけでもありがテェのに……源様まで来てくださるタァ……」
乳母は起き上がり、感謝の意をつらつらと述べる。
「今死んじまっても惜しかぁネェですが、どうも死ねなんだは、ただただ貴方様にこれまで通りに参ることができないことが気がかりで……されども、こうして御姿を拝見いたしましたンで今はもういつ死んでもエェ、さっぱりした気分でそれを待てそうでさァ……」
はは、とその言葉とは裏腹に気弱に泣いているのが誰の目から見てもわかった。死は、いくつになっても恐ろしいんだろう。一度死んだことがある俺だからこそ、わかる。あれほどまで恐怖に満ちたものはない。
自分が死んだ後、今まで関わってきた人たちがどう思うのか、もっと何か、誰かに何かをできたんじゃないか、もっとやりたいことがあった、未練にも似た何かが、俺の中を一瞬にして過ぎたのを思い出す。
「近頃ずっと、よろしくない容態でおられるとは聞いておりましたが、こうしてここまで弱られた御姿になってしまっているのが、酷く残念に思えます……死ぬことの寂しさ、恐ろしさは酷く……ひどくわかります」
「アァ……そんな立派なことを言うようになりなさってェ……乳母は安心じゃ……」
「できることなら、長生きをして、僕が帝になるところまで見届けてください」
俺の発言を聞いて、場の空気が凍りつくのを感じた。当たり前といえば当たり前だ、惟光含め世間は次の帝は俺の兄に当たる
だが……それを覆す必要が、俺にはある。葵との約束が、俺の野望が。望みを果たし夢を叶えるための必要条件、それは言い続けること。
「ハハ……貴方様ならなれヤしょう」
乳母も同じく、一瞬目を見開いたがすぐにそう一言言い残し、寝息を立て始めた。ひどくゆったりとした、落ち着いた寝息だった。
「――まだ幼かった頃、“
幼少も幼少、赤ん坊の頃の記憶だったからすっかり消えかかっていた。それが彼女と再び顔を合わせたことで思い出すことができた。俺が必死に「彼女に会わなければ」と思ったのは、朝から晩まで必死に世話を焼いてくれたことを本能的に覚えていたのだろう。
「両親に、感謝をしないとな」
ふと、もう会うことのできない前世の両親の顔が浮かんだ。
「惟光様」
「なんだね、今は少し取り込み中……む」
惟光の従者が小さく耳打ちをして、何かを渡す。惟光は周囲に気を使いながらこちらに話しかけた。
「源様、申し訳ありませんが少し……隣の家から、手紙が」
「手紙?」
「えぇ、なんでも源様の知り合いだ、と」
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