大罪人と波乱の日々⑦
『ノエルよ。あとは任せるがいい』
「お願いします」
要らぬプライドは持ち合わせていないのが、劣等生の数少ない長所である。ざぼんと意識を沈ませて、身体と命運をサイモンに任せる。上部を見上げ、あとは水面越しに祈るのみ。
「ちと回り道し過ぎたか」
彼はぐるりと首を回して準備運動をすると、天を仰いだ。ほとんど真上しか見えないというのに、目に映る空は、もうすっかり鮮やかな茜色をしていた。
雲が寝床へ帰るように流れていく。
全く消し切れていない足音に視線を下ろす。ちょうど、曲がり角から大小二つの影が飛び出してくるところだった。影は薄くなかったが、表情を窺い知れぬほどではなかった。小さい方はしまったという驚き、大きい方は言わんこっちゃないという呆れ。彼が――つまりはノエルの身体が片手を上げると、やがて観念したようにとぼとぼとこちらに寄ってきた。
「だから様子がおかしいと言ったろうに」
「おかしいのなんて元からだったじゃない。それに、わたしは王都には明るくないのよ」
見た目通り、反りが合わないらしい。ぶつぶつと文句が洩れ聞こえてきた。
ノエルの前までくると、小さい方――言わずもがな、マリー゠アデール・スュランがやけくそな笑みを作った。「奇遇ね」
「奇遇だな」
少女の表情が固まった。ラッセルも目を白黒させている。
『ちょ、ちょっとサイモンさん!』
それは全くノエルらしくない物腰だった。
『僕はもっとへりくだったり媚びへつらったりする感じなんですけど!』
「自分で言うな。こうなればどうせ隠してはおけん。腹を決めろ」
面食らったのは二人である。虚空と会話を始めた同級生に、驚きと心配が入り混じった声音で、
「ちょ、ちょっと。あんたどうしちゃったの。なんか悪いものでも食った?」
「ノエルよ。本当にどうしてしまったのだ。お前らしく……」
しかし、ラッセルの方には思い当たる節があったらしい。言葉は尻すぼみに小さくなって、やがて彼は顎に手を当てて考え込み始めた。彼だけが満足そうに、
「お前とははじめましてではないな」
ラッセルが驚いたように顔を上げる。その様子を見て、アデールがなによなによと飛び跳ねる。自分の頭の上で知らない話が進行するのが我慢ならないのか、眉間には皺が寄っている。
「まさか、ノエルではないのか……?」
信じられぬとラッセル。
「存外、頭が柔らかいのだな」
『あわわわわ、どうしよう』
どうしようもなかった。今更彼を下げて弁明をしたところで時すでに遅しである。そもそも、今のノエルに彼を退けられるほどの意思はない。いつもう一組の追手が到着しないともわからないのだから。
『あ』
「きたな」
彼が二人のあいだを割って入るようにして前に出る。何も知らぬアデールが青筋を立てたが、露ほども気にする様子はない。ただ片手で制するだけ。
「でかいの」
「お、俺のことか?」
「ほかに誰がいる。スュランのガキを頼むぞ。私も魔術師のはしくれだ。七家のお嬢様に何かあっては廃業せねばならん。そうだ。あとこれも頼む。ノエルの夕飯になる予定のものだ」
「ガ、ガキ!? ちょっとノエル、そこにならいなさい」
「アデール嬢、しばらく」
暴れ馬と化したアデールを抱えてラッセルが下がる。こういう時、役に立つのは魔術の才よりも戦士としての才らしい。彼女をなだめる目は、すでに臨戦態勢で、来た道の方をじっと見据えている。ノエルは素直に感心し、次いでそれに気付く自分に驚いた。
――さっきも追手の気配を感じたし。
驚きと疑問は決して小さくはなかったけれど、アデールやラッセルには声が届かないし、これから戦闘に入る、否、すでに戦闘に入っている彼に声をかけることは躊躇われた。邪魔になっては悪いというのもあるが、斬られて滅びるのはノエルの身体だ。
「おい、三下共、出てきていいぞ。こちらの用は済んだ」
挑発が路地裏に反響して、角の向こうへと消えていく。一、二、三。これほどまでに長く秒を感じたことはなかった――追手の存在を確信しているノエルは、どうせ自分が反応するわけでもないくせに、固唾をのんで初動を待った。
「なに、どうしたの」
「どうもノエルを追っていたのは私たちだけではなかったようだな」
「つけ狙われてるってこと? ノエルが?」
「おそらくは」
「じゃああの馬鹿、丸腰で敵を挑発してるってこと?」
影が姿を見せるのと、何かが飛来するのはほぼ同時だった。
『短剣……!』
ノエルが知覚した時にはもう、それは甲高い音を上げて、後方へはじけ飛んだ後だ。追手が外したわけではなく、彼が防いだのだということは、誰に言われずとも分かった。
「魔術師を捕まえて丸腰呼ばわりとは。スュランの血が泣きますぞ」
恐ろしいほどの反応速度であり、恐ろしいほどに高度な魔術だった。敵の投擲に反応して、的確な場所に、一瞬で魔術を行使する。人間としても、魔術師としても、並外れた芸当と言わざるを得ない。
背後からも、そして前方からも驚きが伝わってきた。
二人組だった。フードを被り、口元に布を巻いて顔を隠しているが、まず男だろう。あの夜の連中かどうかは、ノエルには判別が付かなかった。
「目的を聞こう?」
両腕を広げ、彼が問う。男たちが反応することはなかった。ただ、じりじりと間を窺うように、にじり寄ったり離れたりを繰り返している。暗器は一つではなかったようで、二本目の短剣を抜かりなく構えている。
「やはり単なるごろつきではないな。まあ私も昔はよくやったものだ。時代が変わっても需要は尽きないといったところか」
背後から、
「な、なんの話?」
「分からぬ。が、今は大人しくしておるのが吉だろう」
頼むからそうしていてくれとノエルは願う。今の攻防一つ取っても、サイモンは疑う余地もなく戦い慣れしている。彼に任せるのが一番間違いないはずだ。
「むう。半殺しにして腹を割らせたいところだが」
『路地裏って言っても五番街だから……』
狭い路地裏、背後は行き止まり。追手が放つ圧迫感は呼吸も苦しくなるほどだったけれど、一方で、街の喧騒がはっきりと耳に届くのも事実だった。
誰かに見つかったとき、言い訳できないのはこちらも同じである。
「まあそうなるか。ではさくっと無効化してずらかるとするか」
突然に視界が旋転した。飛び出した彼が、反射的に投げられた短剣を避けるために、壁を足場にしたのだ。見事な三角飛びを披露した彼は、そのままくるりと一回転して地に降り立つと、衝撃を殺すのと次の跳躍の準備を同時に行った。
獰猛なまでの力が下半身に収束していく。
「切り裂け」
両手を懐に入れ、まるで短剣でも投げるかの動作で振り払う。次いで、見えない短剣の後を追うかのごとく、彼は地を舐める高度で敵の一人に迫った。
電光石火。おおよそ魔術師とは思えない身のこなしだった。
が、相手も機敏に反応した。着地する空間を奪い取るために、先んじて前へ踏み出てきたのだ。半瞬よりも短い時間で迎撃の準備を整えた――そのようにノエルの目には映った。
その追手の、頬が裂けた。
いや、頬が裂けたという表現は大袈裟であろう。裂けたのはフードがせいぜいで、頬には浅い切り傷が刻まれたに過ぎない。しかし、それで十二分。打ち付けに先制攻撃をもらった敵の構えは、すでに緩んで締まりがない。
その隙を見逃すようであれば、男は歴史に名を遺す前に死んでいたに違いない。
踊るように懐に入り、手首と腕を掴んで背に担ぐ。相手の体重と、位置関係を利用することで、彼はノエルの痩躯を物ともせず、鍛えられた男の身体を軽々と投げ飛ばしてみせた。
下は石畳。ひとたまりもなかった。
「まずは一人……!」
すぐさま二人目が飛びかかってくる。直情的な動き。冷静さを欠きつつあるのは素人目にも明らかで、案の定彼は半歩引いて上体をそらすだけで一閃を捌いた。そこから切り上げと突きを一度ずつ避けると、直後の一呼吸の間に、ぱちんと左手の指を打ち鳴らした。
彼我のあいだで、強烈なスパークが弾けた。
至近距離で彼の一挙手一投足を追っていた敵対者には、ひとたまりもなかった。飛び退るように引いた先で、頭をふりふり。
間髪入れず彼が駆け出す。相手は半ば反射で身を乗り出して、短剣を振りかぶった。
彼の愉悦を、ノエルは確かに感じた。
数メートルもない距離は、最小歩数にして五歩分もない。互いに詰めれば、はじめに出した足をもう一度出すころには、交錯してしまう間合いである。
彼はそれを四歩で抜けた。
まずは地面すれすれに、次は胸元ほどの高さに、そして最後は驚愕に目を見開く男の頭上に――空中に制止する土くれの足場を生成して。
四歩目で男の背後に降り立った彼は、相手が振り返るよりも早く、首筋に手刀を見舞った。鈍い音がした。糸が切れたように男が崩れ落ち、伏臥と共に砂埃が舞う。
相手が起き上がってこないのを確認したのち、彼はゆっくりと手刀を解いた。
「ふう。やはり殺さずにというのは中々に骨が折れるな」
両手を払い、一枚布を払い、貫頭衣の裾を払う。それからうーんと伸びをして見せる。あたかも一仕事終えた風を装っているが、一連のやり取りが彼にとって児戯に等しかったことを疑う余地はなかった。だからこそ、ノエルはもちろん、ラッセルやアデールですら声を発することができなかったわけで。
三人の無言をどう受け取ったのか、独擅場の主役を気取るような気障な仕草で、彼は肩をすくめ薄く笑った。石畳に突っ伏した男二人から完全に視線を切り上げ、くるりと全身を半回転させて後ろを振り向く。行き止まりの壁の前で、ぽかんとして寄り添う二人は、まるで天才秀才とは思えない表情を晒していた。
奇術師めいた笑みを浮かべ、前髪をちょいと人差し指で払って見せる。
「礼には及ばん。代わりに、詰まる話は明日以降で頼むぞ」
言いたいことはそれで済んだらしい。堂々とした足取りで二人の前まで行くと、それ以上は言葉を継がずに、野菜と林檎の入った布袋をひったくるようにして受け取って、
「さて、帰るとするかノエルよ」
翻る。
四方八方を煉瓦造りの建物に囲われたそこはすでに薄暗い。行く手には夜の眷属の爪牙とも思える影が幾本も伸び、いまだ冷めやらぬ表通りの喧騒に小さく震えている。隣家から漂ってくる夕食の匂い。どこかでカラスが一鳴きし、それが呼び水となって急き立てるような大合唱が始まる。
『おい、ノエルよ。何のためにさっさと済ませたと思っているんだ』
気付けば、ノエルは現実の中にいた。
言われるがままに歩き出す。あの日を再現したような路地裏の果てを、白昼夢を見ている気分で後にする。
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