首飾りとの出会い②
「いた。おいノエル」
今日はよく声を掛けられる日だ。
図書館で調べ物をしていたノエルは、ふいに背後から呼ばれてそう思った。振り返らずとも分かる。リチャード・ラッセル。数少ない、落ちこぼれノエルに声を掛ける人々、通称ノエリストの二人目。腹の底に響くような声音が今日も渋い。
「どうしたんですか、ラッセルさん」
「どうしたんだいではない」彼は周りを見回して、「談話室へ行こう」
正直なところ、ノエルはこの男が苦手だった。まず威圧するような身体つきが苦手だった。次に真っ直ぐな言葉や考え方が苦手だった。北の貴族らしい血統と、それが全面に押し出された金髪と碧眼も苦手だった。アデールいわく、それらはすべて嫉妬に起因するらしい。余計なお世話だ。
「えっと、その」
まごついていると、ラッセルは帝国軍人とも見間違う体躯で詰め寄ってきた。
「ここでは他の生徒の邪魔になるだろう」
「は、はい。すみません」
こうなるともうどうしようもない。唯々諾々と従うしかない。
「それで要件だが」
談話室に入るなり、ラッセルは本題に入った。まるで時間が惜しいとばかりに、椅子に座ろうともしない。こういうところもノエルは苦手だった。
「あれですよね、研究会の論文」
魔具に関する歴史的考察。春先から続いたテーマも佳境で、論文を査読し合う段階まで来ていた――否、本来であれば先週には終わっている予定だった。
「話が早いな。出来上がっているか?」
真っ直ぐな目でラッセルが見つめてくる。
ノエルは目を逸らして、
「ええと、あとちょっとです。はい」
「……三日前もそういっておったな」
「いやもう、近日中に、絶対」
「ノエル。ノエル・フォーチュン。お前のせいで会の進行が滞っているという自覚はあるのか?」
「……すみません」
ラッセルがため息を吐く。言うまでもないが、遅れているのはノエルだけである。モールディング研究会の主、ジョセフ・モールディングの専門は理論魔術。だからというわけでもあるまいが、会のメンバーはみな生真面目でマメな人物ばかりで、こういう問題を起こすのは決まってノエルだった。
「すみません。本当にあとちょっとなんです」
嘘ではなかった。全体の進捗でいえば半分よりは進んでいる。多いか少ないかでいえば、少ない。つまりちょっとだ。
「モールディング卿はああいう性格だから何も言わんがな……」
同級生からのお説教に平身低頭する。彼が自分より一つ上の二十歳である、というのが唯一の救いだった。これで彼まで九歳だったら涙も枯れる。
「……というわけだ。次回までには完成させておけよ。全く、帝国第一の学び舎で学ぶ若者の姿かこれが。情けない」
「はい。すみません」
他に言葉がなかった。そのことに呆れたのか、ラッセルは最後にもう一度ため息を吐いた。「邪魔したな」
どうしようもないのはあんた。アデールの言う通りだろう。
ラッセルのため息はもっともなものだ。秀才の中の秀才、そう呼ばれる彼からすれば、落ちこぼれどころか、周囲の足まで引っ張る人間は理解し難い存在だろう。あまつさえ、そいつが同じ研究会に所属しているとなれば。
自分もこのように生きることができれば、もっと楽だったろうに。
彼であれば、自分と同じ立ち位置からでも、立派に大成してみせるだろうに。
「なんだ、まだ用でもあるのか」
「へ?」
談話室の扉に手を掛けた状態で、ラッセルは立ち止まっていた。どうやら我知らず彼を見つめてしまっていたらしい。それが彼の生真面目さを刺激してしまったようだ。
「あーいや」
ない、とは言い辛い。
あなたのように生きることができたら楽なのに、とはもっと言い辛い。
「猶予なら私ではなくモールディング卿に申し出るべきだと思うが」
「いや、そうじゃなくて」脳裏に浮かんだのはアデールとの会話だった。溺れるものは藁をも掴む。「ラッセルさんは教育課程を終えたらどうするか決まってますか?」
ラッセルは何を藪から棒にと目を白黒させた。が、彼は訊かれたら答えずにはいられない男だった。
「私か? 実のところ決まっていないのだ」
「ほ、本当ですか!?」
思わぬ吉報に声がうわずった。
「何を喜んでいるんだ」
「い、いえ。ラッセルさんでも悩むことがあるんだなあと」
慌てて取り繕うノエルに、彼は首を横に振って、
「そうではない。悩んでいるわけではないのだ。私は以前から軍属志望でな」
「軍属?」
「ああ。祖父からかくあるべしと教えられてな。以前もそうだったのだ。本当であれば士官学校に入るはずだったのに、親父殿が猛反対してしまって」
それはそうだろうと思う。ラッセルの父は帝国議会の議員として、王都でも名の知れた人物だ。そしてラッセルは嫡男。ここしばらく目立った戦争は起きていないとはいえ、進んで戦地に出るような真似を止めるのは、親心からしても、家長としても、当然のことだろう。
「センチネル議員やオーランド議員はともに海軍出身だ。バーナード議員などは現役の陸軍将校であらせられる。そういった道もあるというのに」
「じゃあラッセルさん自身は、修了後に士官学校に」
そう珍しいことではない。遠回りをして、金だけではなく銀の箔を付けて、将校になろうというだけの話だからして。この男の場合は、ちょっと事情が違うようだけれど。
「うむ。俺は今度こそ親父殿を説得して士官するのだ」
「あー、士官の話を蹴られたからここに入ったんですね……」
天才の中の天才があれなら秀才の中の秀才はこれである。
「そういうことになるな。しかし、ここの暮らしで得た学びは少なくなかった」
「はーそりゃもう」
聞かなきゃよかったなと思う。徹頭徹尾、共感できる要素がない。なんだか自分がちっぽけであることを再認識させられるばかり。
「そういうノエルはどうなのだ?」
夏は秋になる。それでもやはり、ノエルは支度ができていなかった。
「決めるなら早い方がいいぞ。一部の生徒は、すでに研究課程へ進む準備を始めていると聞く。私が言うのも難だが、実際どうなるかは別として、自らの身の振り方すら決められないのは、誇り高き学院生として好ましい姿だとは思わんからな」
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