首飾りとの出会い③

 学院生は基本的に、併設されている宿舎に寝泊まりする。

 いわゆる寮と呼ばれるもので、すべての学院生に個室が与えられている。それは落ちこぼれのノエルとて例外ではなく、彼はこの個室のことを最後の良心と呼んでいた。試練ばかり与える学院の、唯一の施し。もしも個室でなければ、誰かとの相部屋であれば、とっくの昔に学院をやめていたかもしれない。

 ――いや、そんな踏ん切りが僕に付くわけがない。

 昼の復習をしていると、どうしてもアデールやラッセルとの会話が思い出された。弾けんばかりの毒と、正論と、訓戒と。やがて意識が散漫になっていることに気付いたノエルは、本を閉じて筆をおいた。

「全く二人の言う通りだよ」

 アデールは研究課程、ラッセルは士官。二人ほど確固たる未来を描いているものはそう多くないかもしれないが、学院生は大なり小なりそれなりの身分、ある程度の指針はできているに決まっていた。

「事業、事業か」

 寝台に寝そべり、考えを一人巡りさせた末、結局昼と同じところに行き着いた。モールディング研究会でも、そういった話はちらほら出ていたし、やはり時代の流れに合っているのではないかと思う。

「いやだからそれには金が必要なんだって」

 学院の卒業生ともなれば多少の貸付はかなうだろうが、にしても先立つものが手元にないのに事業を起こそうというのは中々に無謀ではなかろうか。

「金……金……どこかにうまい話転がってないかな」

 ねえよと内心で突っ込む。あれば苦労はしない。

「くそ、また気が滅入ってきた」

 飛び起きる。これではまずいと昼に憂慮したばかりではないか。

 仕方なしにノエルは外出支度を始めた。内なるラッセルが、アルコールの力で悩みを晴らそうとは誇り高き学院生としてはあまりにもお粗末ではないか、としかめ面を見せたが、悶々とした夜を過ごすよりはましだと一蹴した。たまの息抜き、そう言い聞かせて部屋を出る。

 それに、もしかしたら、いい案が浮かぶかもしれない。

 学院生の年齢は、下は九歳から上は三十近く。だから夜間に部屋を空けていても、お咎めはない。許されていないのは男女間の部屋の行き来だけだ。ノエルはゆったりとした足取りで、二番街を行く。夜もすっかり更けているが、第二次魔術革命のもたらした無数の街灯が、石畳の街を照らして、大きめの通りであれば往来もまだまだ盛んだった。王都アウローラ。魔術に彩られた帝国一の都市。雑踏に紛れて歩いているうちに心中の靄も晴れて、彼は他の学院生と顔を合わせてしまうことがないように、三番街に近い区画まで足を伸ばそうという気になった。

 ――降り出しそうな気配があるけれど、まあいいか。

 早くも上機嫌のノエルが選んだのは、通りの角に面した、小さな酒場だった。見るからに場末の、労働者階級向けといった店構えで、はっきり言って学院に通う貴族の子息子女が足を向けるような社交場には見えなかったけれど、そこがノエルを琴線に触れた。こういう店で、今日を生きる人々と酔えば、さぞ気持ち良いだろう。

 店内は予想と寸分たがわぬ雰囲気に包まれていた。がっしりとした身体つきの肉体労働者や、浮浪者のような老人、果ては剣呑な目つきをした――ああ絶対堅気じゃないよこの人――男などが、思い思いにアルコールに酔いしれ、時に酌み交わしている。その様子に満足感を覚えながら、ノエルはカウンターで代金と引き換えにエールを受け取り、適当なテーブル席に腰掛けた。

「お、兄ちゃん、その恰好は?」

「ええ。落ちこぼれも落ちこぼれですが、魔術師見習いさせてもらってます」

 そりゃすげえと誰かが囃し立てる。なんだか見せびらかしているようで気が引けるが、護身の意味もあるので、貫頭衣と一枚布トガはこのような場所を訪れる際でも欠かせない。学院の制服には女王陛下の威光が宿っているのだ。

「俺のかかあがこれから餓鬼産むんだよ。ちょっと触らせてくれねえか?」

「ばっか。だったらこんなところで散財してんじゃねーよ」

 学院と違って、酒気の漂う空間には、気のいい人間しかいない。アルコールに乗っ取られてしまえば、階級も器量もない。ノエルが息抜き場として酒場を選ぶ理由である。物珍しさからくる歓待を受けながら、ちびちびとエールを飲んで、日頃の鬱憤を溶かしていく。元々地方で没落貴族のドラ息子をやっていたノエルは、こういった人々と触れ合うことに抵抗も偏見もなく、むしろ好ましいほどだったから、アルコールはスムーズに回った。

「降り出しやがった」

 過剰な興味も消化された頃、外では雨が降り出したようで、ちらほらと酒場を後にする者が現れ始めた。まだ小雨だがこれはいい降りになるはずだ。誰かがそう言う。ノエルはといえば、来て四半刻も立っていないのに帰る気にもなれず、何か自分への言い訳はないかと店内を見回してはつまみのチップスをぱくり。

 それが話し相手を探しているように見えたのか、向かいに座る影があった。

「やあ、魔術師の旦那」

 男だった。年の頃は三十にも五十にも見えた。髪も髭も伸びっぱなし、瞳もたらふくため込んだ酒気のせいか爛々として、年齢がどうにも分かり辛い。店内の大半を占める肉体労働者たちと比べても、その身なりは悪い。

 が、別に相席を拒絶したり、嫌な顔をする理由にはならない。

「魔術師見習いですよ」

「んじゃ、魔術師見習いの旦那様」

「はいはい」

「あのですね、旦那様の慧眼を見込んで話があるんでさあ」

 ふひ、と空気が洩れるような笑い声を男は上げた。

「話?」

「ええ、まあちょっとした儲け話で」

 儲け話と聞いて、アルコールの海に沈んでいたはずの、冷静な部分が顔を覗かせた。儲け話。つまりは金が手に入る。そうすれば。

 ――だからそんな調子のいい話はないっての。

 酒が入っても理性は健在で、男には悪いと思いつつも、ノエルは心中で一笑に付した。酔っ払いの与太話か、あるいは世間知らずの坊ちゃんへの悪戯か。どちらにせよ、店に居座る言い訳ができたことに違いはなく、軽く驚いて見せてから、耳を傾けた。

 男は例の笑みを二、三、繰り返してから、得意げに、

「実はですね、実は、ちっとばかりすげえもんを手に入れちまいまして」

「ほう。僕に話を持ち掛けるくらいですから、魔術絡みの?」

「ええ! さすがは学院の生徒さんだ。ええそうなんですそうなんです。たぶん、いや、たぶんじゃいけねえ、確実に、そう確実に! 魔具なんですわ、一級品の」

 ――一級品の魔具、ね。

 魔具、とは広義には魔術的価値のある人工物を指す。歴史的な呪物はもちろん、過去の魔術師たちが残した遺構や、彼らが愛用していた装飾品なども含む。身近な例でいえば、学院の制服は魔具ではないが、講義で使用されるテキストブックや、一部の実験道具は魔具に当たる。

 狭義には魔術の込められた物品を指す。先ほどの例でいえば、呪物は確実に魔具だが、遺構はその限りではないし、それ以外はすべて魔具ではない。一般にはこちらの意味で使うことが多い――第二次魔術革命以降、人々の生活の中に溶け込んだ魔具はこちらのものだからだ。

 ――公共物を引っぺがしてきたんじゃないだろうな。

 街灯、下水道、敷設中の小型列車。帝国の都であり、女王陛下のおわします魔術都市であるアウローラには、公共物として魔具が散りばめられている。どれ一つとっても現代魔術の粋を集めた一級品で、食うに困った浮浪者が糊口をしのごうと拝借して――そういった例は過去にもあった。

「……疑ってますね、旦那は」

「いえ、そういうわけでは。ただ、一級品の魔具、という意味をどう受け取ったものかと」

「というと」

「アウローラはたくさんの魔具で動いているでしょう? 家庭内の焜炉コンロだって魔具だ。それらは確かに、技術の結晶、一級品といって差し支えない出来ですが、しかし僕たちはそれを一級品とは思わないんですよ。学術的価値、そちらに重きを置く傾向がある。この都市で一番大掛かりかつ技術的に進んでいる魔具は大陸横断列車、あれを小型化した都市内列車ですが、魔術的に一番価値があるのは、やはり女王陛下の七宝が七、ニーベルングの指環でありましょうよ」 

 ほうほうほうと男が唸る。遠回しに盗んだものを魔術師に売ろうとするなよと警告したつもりだったが、どうしてか、男はさらに顔をほころばせた。

「であれば、こちらの品はお眼鏡にかなうと思いますぜ」

 そういって男は懐を漁って、一繋ぎの装飾品を取り出した。

 首飾りだった。細身のもので、先には翠玉エメラルドにも似た輝石が設えられている。

 ――あれ、なんか普通に高そうだな。

 鎖は真鍮。先の輝石も、よく見れば本物の翠玉のように見える。全体的に装飾は控えめで、奥ゆかしい美しさを湛えている。モノが持つ本来の性質を最大限に生かした造り――歴史的に価値ある魔具にはそういった傾向がある。

「魔術の詳細は、ちっと自分じゃ分からねえですが。なんでも大昔の偉大なる魔術師が魂を込めて作った作品だとかで」

「ああ、うん」

 首飾りに魅入られそうになっていたノエルは、男の言葉に思わず素が洩れた。

 ――本物っぽいな、これ。

 ――確かに、これは儲け話になるかもしれない。

 透き通った青緑の輝きから、ノエルは目が離せなくなっていた。灰色の空に差す一条の光がよもやこんな色をしているとは思わなかったが、内ももをつねっても頬をつねっても、眼前の首飾りが消えないのだから現実を疑う余地はない。そうだ。ここは田畑の広がる片田舎ではない。王都アウローラ、光の名を冠する帝国第一の都市だ。奇跡が転がっていてもおかしくはない。

「金貨一枚でどうです」

「ぶふぉっっっ!」

 エールが噴き出た。荒ぶる気管をなだめ、鼻から垂れた水分を一枚布で拭って、

「き、金貨一枚!?」

「その価値はありますぜ」

 逆である。どう考えても安過ぎる。もしも翠玉が本物であれば、それだけで金貨一枚はあり得ない。物価崩壊である。もしかして酒を飲んでいるうちに数百年が経ってしまって、宝石すべてが土くれになってしまったのだろうか。

 んなわけあるか。

 儲け話にもほどがあった。頭を落ち着かせようと傍らにあった飲みものを流し込んだ。エールだった。もうだめかもしれない。

「き、金貨一枚なんですよね」

「ええ、金貨一枚。まけはしませんよ」

 男の目は本気だった。ようやく商売相手に巡り合えた、この勝機を逃すわけにはいかない、そういう目。どこか縋るような色さえある。つまり、男は本当に、この首飾りを金貨一枚で売るつもりなのだ。贋物、にはどうしても見えない。これでも学院に通う魔術師見習いだ。古代より宝石には力の流れ鮮明化させる効能があると言われており、ゆえに見かけたり触ったりする機会は多い。

「……これ、どうしたんです」

 男の目が一瞬だけ泳いだ。しかし立て直しは早かった。

「そこは見逃していただきてえ」

「いやあ、立場ある身なんで、これでも。盗品とかは、ちょっと」

「……知り合いに借金のかたとして受け取ったんですよ」

 絶対嘘だと思った。男の身なりはどう見ても人にそれだけの額を貸し付けられる人間のそれではない。ああ、とノエルは悟った。ありえない値付け。その理由。彼はこの首飾りの価値を知らず、金貨の価値を知らないのだ。おおよそ王都の人間とは思えないが、流れ者という可能性だってある。むしろそちらの方が可能性としては高いだろう。乞食同然に暮らしてきた貧民が、何を思ったのか首飾りを盗み、流れ流れて王都に漂着、これを売りさばいて人生を立て直そう、額はいくらか、とりあえず一番上級な硬貨、金貨一枚ということにしよう――。

 貧すれば鈍する。

 哀れと言わずしてなんと言おうか。

 けれども、これ以上ない僥倖であるのも事実だ。

 ――僕は男の言葉に負け、金貨一枚の価値があると信じて買うんだ。そしてそれを別の誰かに見せたら、実はもっと価値があって、たまたま儲けてしまう。

 息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 貧すれば鈍する。

 それは自分の方なのかもしれないと思った。

「買ってもいい」

 男の笑みが弾けた。卓を揺らしながら身を乗り出し、よだれを飛ばして歓びを表現した。「さすが旦那だ!」

 良心が痛む――そう言えたらどれだけ幸せだっただろうか。

 最後に一度だけ触って確認してから、金貨一枚と引き換えに首飾りを受け取った。男はしばらく、金貨を手のひらでぎゅっと握ったまま、口角からひゅうひゅうと息を吹きこぼしていたが、やがて線が切れたように叫ぶと、半狂乱の体で酒場を出ていった。

 ――買ってしまった。

 ――けど、これで。

 手のひらの上の輝きは、金貨一枚のそれよりもずっと明るく見えた。先々を照らす篝火。これ一つで落ちこぼれの汚名が返上できるわけではないし、軟弱な精神が置き換わるわけでもない。身の振り方だって、今日明日に決められたりはしないだろう。それでも、その輝きに、ノエルは少しだけマシな未来を夢想せずにはいられなかった。

 誰だって、好きで落ちこぼれたりはしないのだ。

 それからすぐに、ノエルは店を出た。学院を出てきた時の、逃げるような気持ちはどこにもなかった。店の軒下、旧時代の洋灯の明かりで手元を照らしながら、首飾りを付けてみる。

「……僕には似合わないなこれ」

 胸に下がった首飾りに自嘲する。けれど、決して悪い気分ではなかった。

「あれ」

 その時ふっと、視界がぐらついた。酩酊のそれではなかった。例えるなら、夢に落ちる一瞬を切り取ったような、意識が身体を離れる感覚である。もはや自力立っていることはかなわず、ノエルは店の外壁に背中を預けた。

「気持ち悪い……」

 まるで下手くそな羽化を疑似体験しているようだった。何度も何度も、意識が飛びそうになり、しかし結局は引力に負けて身体に戻ってくる。頭を揺さぶられているのとはまた違うが、不快感はそれに近いものがある。

 ――魔具。

 ――呪物だったのかこれ。 

 酒によるものでなければ、原因は一つに決まっていた。一級品の魔具、男は確かにそう言い添えていたではないか。

 ――にしたってこれは。

 そんな風にしていると、男が一人、店から出てきた。ノエルからすれば最悪のタイミング、けれど男にとってはそうではなかったようで、こちらを見るなり顔をほころばせた。「よかった。まだいた」

 どうも言葉が耳に入ってこない。それでも、ノエルは体裁を取り繕って、精一杯の笑顔を返した。学院生が酔っ払って醜態を晒していると思われたくなかったからだ。

「おや、体調が悪いんですか」

 男の口が動く。読唇術でも習っておけばよかったかもしれない。

「ちょっと失礼」

 こちらの無言と笑顔をどう受け取ったのか、男が手を伸ばしてきた。払おうとしたが、右手は見当違いの空を撫でるだけに終わった。

 ええいもうなるようになれ。ノエルが諦めた瞬間、

 ずるり、と。

 ――なにこれ

 自らの中身が外に出た、そうとしか形容できない体験だった。

 耳に入る雨音が、店内から薄っすらと洩れ出してくる汗と酒の匂いが、微かに肌に当たる雨粒の感触が、舌に残ったチップスの塩気が、途端に鋭敏に感じられた。その感覚すべてが、自分のものとは思えなかった。もしも身体の表面に、あらゆる感覚器官と共に意識を配置することができれば、あるいはこんな感覚になるかもしれないが。

 気付けば不快感は失せ、平衡感覚も回復している。

 ノエルはそっと、男の手を除けた。その肌の触れ合う感覚が、性感帯を擦りつけ合う様を想起させて、少し嫌な気分になる。

「もう、大丈夫ですから」

 改めてみれば、なんとも胡散臭い男である。商人めいた笑みもさることながら、気にかかるのは装いである。労働者然とした簡素な衣服、それがどうしてか卸したてのように真新しいのだ。身をやつすために用意したと考えるのが自然だが、しかしそこまでして場末の酒場に顔を出す意味があるだろうか。

 嫌な予感がした。

「すみません、自分はこれで」

 会釈をして、そそくさと立ち去る。ノエルの予測に反して、男はただ、会釈を返しただけだった。考え過ぎだったかと、少しだけ申し訳なくなった。

 ――にしても、本当に魔具だったとは。

 魔具。魔術の込められたモノ。おそらくは首飾りは呪物と分類されるものに違いなかった。しかも、並大抵のそれではない。儲け話どころか、しばらくは生活に困らないだけの額になるかもしれない。あるいは、これを手土産に研究課程に進むという手も。

 ――これで、変われるのかな。

 後ろめたさのせいかもしれない。その時不意に、ノエルは視線を感じた。もっとも、通りを賑やかすのは雨足だけで、見回しても、振り返っても、それらしい人影はなかった。


 ☆


 雨の中、街灯の明かりを拾って、首飾りが怪しく光る。

 玄人はだしの追跡に気付くのは、もう少し先の話である。 

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