第6話

夜の六時に、父親が家にいるのは珍しいことだった。家に灯りが点っていることに慣れない僕は、一瞬ドロボウでも家にいるのかと構えていたけれど、とんだ見当違いだったらしい。

食卓に座ってコーヒーを飲む父親は、手を向かいの椅子に向ける。自分と向き合って座れ、ということらしい。僕はコートを脱いで横の椅子に掛けると、促されるままに座る。

「帰ってたんだ。早いね」

「あぁ。今日、弁護士の人と一緒に母さんに会って、お前のことについて決めてきた」

心臓を一刺しされたように、ギクリと強ばる。母親という存在が、こんなにも怖いなんて。

それでも、僕は薫さんに言われたことを思い出す。怖いものは怖くていいんだ。恐怖を認めたら、恐怖が和らぐ。彼の言葉は鎮静剤のように、僕の精神を落ち着かせてくれた。

「どうなったの?」

「うん。母さんは柘には近づけないことになった」

「そう」

悲しいことに、僕はほっとした。実の母親と会わなくていいという事実に、こんなにも喜びと安心感を覚えることが、なんだか悲しい。

安堵とも絶望ともつかないため息をついて、僕は父親に礼を言う。

「ありがとう。何から何までやってもらって、ごめん」

「いや、いいんだ」

父親が机に視線を落とす。

「本当なら、こんな思いを子どもにさせちゃいけないんだから。父さんと、母さんの責任だよ」

久しく僕は、家族はとうに破綻しきったものと思っていた。けれども、父親は僕のことを子どもだと思ってくれていたようだ。

決して良い父親ではないけれど、忙しい彼は彼なりに、父親という役割を遂行しようとしているのだとわかると、この不器用な男性のいじらしさに心が動く。

たぶん父親は、自分の父親から父親らしいことをしてもらったことがないのだろう。代々医師の家系で、家に父親が居ないことが当たり前の家庭で育った人だから。そのために、僕に対しても世間一般でいう父親らしいことが出来ない。

目の前で頭を垂れて悲しげにする父親は、昔より随分と小さくなってしまった。小さな頃に僕の手をひいていた父親の大きな背中は、もう記憶の中だけになっている。

「大丈夫だよ。父さんが、頑張ってくれていることはわかってるから。僕は、大丈夫だよ」

父さんは顔を上げると、誇らしそうに、けれども少し寂しそうに僕の顔を見た。花嫁を見送る父親のような表情だった。

「そうか、そうだな。柘は……そばにいられなかった間に、ずいぶん大人になったんだな」

薫さんは、怖いものは怖いと思って良いのだと教えてくれた。認めることが大切だと。

きっと、父さんに対してもそうなんだろう。僕は父さんのことが好きじゃなかった。その気持ちは、家族に向けちゃいけないモノだと思って蓋をして、無理やりしまいこんでいた。

けれど、認めてしまえば、逆に父さんを好きになれた。客観的に冷静に、好きじゃないと思えたことで第三者視点から父さんを見られるようになった。そうなれば、この人なりに父親であろうとしていたことはわかる。

「大人、ね。父さんほど、しっかりはしてないけれど」

「父さんだって、しっかりしてないさ」

眉を下げて笑う父さんは、どこか子どものようにあどけない表情だった。けれど、幼い頃の記憶よりもうんと増えた顔のシワが、父さんが老いたことを実感させた。

この人の笑顔を見るのに、かなり時間が経ってしまったんだなぁ、と僕は目を伏せた。






「そう、お母さんとは距離を置くことになったんだ」

薫さんは微笑むと、ココアを一口飲む。洗練された上品な仕草に、思わず見惚れた。グレーのニットを着た姿は、彼の住むボロいアパートにはあまりに不釣り合いだ。

「あまり褒められたことじゃないですけど……一安心です」

「ふふ、仕方ないことだよ」

僕もココアを一口飲む。凍りついた皮膚が、内側から溶かされていくような心地だ。

「おっと、クッキーがもうないね。取ってくる」

「別に大丈夫ですよ」

「こっちが食べたいだけだから、気にしないで」

薫さんは悪戯っぽく笑うと、立ち上がって台所へと向かった。彼がチェストの扉をあけると、隙間から様々な調理器具ものぞく。

「薫さん、本当にたくさん持ってるよね」

「何を?」

「調理器具」

薫さんは「あぁ」と一度頷くと、少し照れたように笑った。

「上手じゃないけど、好きなんだよ」

薫さんが手招きするから、僕は立ち上がって台所へ招かれるまま歩いていく。

見せてくれたチェストの中は、ミキサーや何種類もの包丁から、見たこともないようなものまで、小さな調理器具の博物館だった。

「これは?」

「肉挽き機。ミンチ作るやつ」

「ミンチ自家製!?」

薫さんは少し鼻の穴を膨らませて、得意そうな顔をする。

「自家製は違うよ」

彼は機械をどかして、五本ほどのミートハンマーを取り出す。

「そんなに同じサイズ感のミートハンマー、いります?」

「買った後にさ、もっと良さそうなものがあると欲しくならない?」

ペロ、と舌を出して、薫さんは一人用のダイニングテーブルに並べた。幼稚園児がお店屋さんごっこを始めるみたいに、丁寧な所作で。五本並べ終わると、薫さんは手のひらでミートハンマーを指し示す。

「どれかあげるよ」

「いらないですよ。料理しないんで」

「……護身用にどうですか?」

「護身どころか、殺人じゃないですか!」

薫さんは眉を下げて笑うと、いそいそとミートハンマーをしまう。僕は何もすることがないから、小さな台所をぐるりと見回した。

一人暮らし相応の冷蔵庫の横に、その半分くらいの高さしかない冷蔵庫があった。サイズが違うとはいえ、二つも冷蔵庫があることに、僕は首を傾げる。

何気ない好奇心が頭をもたげて、ハイハイのように這って冷蔵庫まで近寄る。

よく見ると、冷凍庫だ。少し大きいクーラーボックスくらいのサイズ感だった。

「柘くん」

刺されたかと思った。

僕は進むことも振り返ることもできず、ビタリと固まる。氷のように冷たい薫さんの声に、心臓が氷柱で刺されたような感覚だ。

蛇が絡みつくように、薫さんの手が僕の肩を撫でる。

「ダメだよ。開けたら」

薫さんの手は、身長の割に華奢だ。

ほっそりした繊細なガラス細工のような指だけれど、男性であることを思い出させるように長い。肩から首の方に寄っていけば、その美しい指に絞められてしまうんじゃないかと思える。

「冷凍したストック用の食材しかないから、ゴチャゴチャしていてね。見られると、少し恥ずかしいんだ」

 薫さんの手は、気が付けば僕の肩からはすっかり離れて、彼の恥ずかし気に笑う口元に添えられていた。眉尻を下げて困ったようにも見える笑顔は、いつもの薫さんと変わらない。口の形も目の細め方も、全ていつもの薫さんと同じだ。

 僕は、思い出したように慌てて鼓動を再開する心臓をなだめるように、胸をなでおろす。

「すみません」

「気にしないで。ただ、引き出しの中とか、見えないところは汚いタイプでさ」

「あ、それわかります」

「ほんと?」

 薫さんはクッキー缶を取り出して、蓋を止めてあるシールを剥がす。流れるような動作でシールをゴミ箱に捨てると、テーブルの方へ歩き出した。僕ももちろん、それに続く。

 彼がクッキー缶の蓋を開けると、缶特有のカッポン、という音がした。

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