第5話

春休みになった。

母親との一件は父親と弁護士が対応してくれているらしく、僕は当事者なのに蚊帳の外という不思議な立ち位置にいる。やれる事もないので、大人しくその立場に甘んじているわけだ。

この春休みに入って、今までと変わったことが二つある。

一つは、父親が母親に会うかどうか聞かなくなったこと。父親は僕の手首を見て、ギョッとしていた。元々母親のヒステリックなところは知っていたけれど、ここまでとは思わなかったらしい。

もう一つは、と会うようになったこと。

「薫さん」

彼が振り返ると、軽く波打つ毛先が柔らかく揺れた。

「やぁ、柘くん」

雑多な駅にはどこか似合わない気品ある立ち姿で、薫さんは待っていた。

前と同じ丈の長いコートに、黒いスラックスという黒を基調としたシンプルな格好が、こうもサマになるのはモデルか彼くらいだろう。顔が小さくて背が高いから、余計にカッコよく見えるのかもしれない。

普通のダウンジャケットにジーンズのズボンと、中学生のころから一切進化しない自分のファッションで横に並ぶのは、かなり恥ずかしい。今度からはもうちょっと良い格好で来よう、と毎回反省会をしている。しかし一朝一夕でセンスは身につくはずもなく、こうして毎回進歩のない格好を披露しているわけだけれど。

「あっちに車停めてあるから」

「すみません、わざわざ迎えに来てもらって」

「全然。呼んだのこっちだし」

ダサい自分が恥ずかしくて、彼と少し距離を取りながら車まで向かう。車は前と変わらぬ車種で、勢いよくあけたら吹き飛びそうな助手席のドアから乗り込む。

シートベルトをつけながら、横目に薫さんを見た。彼の通った鼻筋がよくわかる横顔は、初めて会った時を彷彿とさせた。俳優かモデルでもやっていそうなほど、整った顔立ちだ。というか、薫さんの職業はそうなんじゃないか?

「どうした?」

薫さんは目線をサイドミラーに向けて、車が来ていないか確認しながら言った。

いきなり職業のことを聞いていいのか悩み、僕は「あー」と言い淀む。方向指示器の規則的な音が、クイズ番組のシンキングタイムに流れる効果音みたいだった。

「薫さんって、普段何してます?」

「普段かぁ、料理かな」

「あー……」

仕事だよ、と返ってこればなんのお仕事ですか、と聞けたのに、休日の趣味を告げられてしまえば聞き出す術はない。僕は次に繰り出す会話を用意していなかったことを後悔しながら、目線をあちこちに散らして話題を探す。

「ふふ、なんの仕事してるか気になるんでしょ」

バッ、と頭が取れるほど勢いよく薫さんの方を見れば、彼は横目でこちらを見て笑った。

「サービス業、かな」

「サービス業?」

「独り身の女性に料理をふるまったり、日々の雑事をこなしたりする仕事」

「家政婦さんみたいなことですか?」

彼は無言のまま、方向指示器を出す。チッチッチッ、と規則的な音が聞こえた。

「世間一般では、家政婦というよりヒモ、と呼ぶことが多い」

少し間を置いてから、彼は車が右折するのに合わせるようにつぶやく。僕はわずかな遠心力に引っ張られるように、ドアにもたれかかった。

「……ヒモ、ですか」

「相手から明確な対価をもらっているわけではないし、こちらも決まった職務があるわけじゃない」

僕が口をぼんやりあけていると、薫さんはチラリと横目で覗き見する。

「軽蔑した?」

赤色に光る信号機をぼんやり見つめながら、薫さんが言った。

「いや、別に……」

「うっそだぁ。したでしょ、絶対」

彼は手で顔を覆うと、シクシクと泣き真似をする。

「人には……その、多少そういう点があったほうが、魅力的ですよ」

「そういう点って、どういう点? 汚点?」

顔を上げて詰め寄る薫さんに、僕は咄嗟に返せる言葉が見つからず、目線を泳がせて探す。

「ほらぁ、やっぱり汚点だと思ってるんだ」

「思ってません、思ってませんから!」

「思ってるでしょ! 笑ってるもん!」

「あー信号! 青ですよ!」

薫さんは「もー」と眉を八の字にして笑いながら、車を発進させた。なんてことない友だちとの会話のような空気に、僕の頬は少しだけ熱くなった。

手島とは仲がいいけれど、あいつは少し遠くに住んでいるから常に遊べるわけじゃない。こうやって何気なく遊ぶことが、僕にはどうしようとなく楽しかった。



「あ」

五時になると同時に、どこからともなく音楽が聞こえる。哀愁を誘う古めかしいチャイムの音で奏でられる曲は、小学生の音楽の時間で歌った記憶がある。

「昔、この曲の歌詞間違えてたんだよね」

薫さんは、思い出したようにつぶやいた。

「うさぎ美味しい、って」

「みんなよく間違えますよね、それ。僕も間違えてました」

「だよねぇ」

薫さんは四隅が日焼けしてくすんだ古い窓をあける。ベランダの今にも崩れそうな柵にもたれ、薫さんは小さな声で歌った。冷えた風に乗って、歌声とチャイムが僕の耳に届く。

「忘れがたき、ふるさと」

最後の一節を、情緒たっぷりに歌う。普段は低めの落ち着いた声が、歌うと抜けるように高くなるのが意外だった。

「はぁ、寒い」

彼は歌い終わると、腕をさすりながら部屋に戻ってきた。手にはいつの間に回収したのか、ベランダに干してあった台拭きがおさまっていた。

「ごめん、冷えちゃったよね。ココアいれてくる」

「そんな、おかまいなく」

僕は手持ち無沙汰になって、薫さんのいたベランダをながめる。

物干し竿一本と、プランターが置いてあるだけの簡素なベランダだった。プランターは二つ置いてあったが、片方は枯れ、もう片方は弱々しい茎が支柱にもたれかかるように絡んでいる。少し姿勢を変えると、ベランダの隅に家庭菜園用の土やジョウロなどの用具がキッチリ整理されて置いてあった。

「薫さん、何育ててたんですか?」

「ん、何が?」

薫さんはキッチンから顔だけこちらに向けて言う。

「ベランダのプランター」

「プランター? あぁ」

彼は思い出したように一度うなずくと、出来上がったココアを僕の前のローテーブルに置いてから、窓越しにベランダのプランターを眺める。

「この部屋に来たときに、料理をする人だからって買ってもらった。食材が手元に新鮮な状態であるの素敵でしょう、って」

誰に、と喉まで出かかって、飲み込む。そこまで踏み込むことは、許されない気がしたからだ。

「けど私はまったく土いじりをしないからね。結局、あの子がせっせと世話をしていたよ」

今まで聞いたことないほど、薫さんの声は柔らかかった。

『あの子が』という文言が気になる。いったい誰なのだろうか。引っかかったこの言葉を聞けるほど、僕は彼とまだ親しくはない。

友だちの、真似事。

薫さんが窓をあけたときに入ってきた風で冷えた体の表面を、暖めるように手で軽く擦った。僕は彼のくれたココアを、寒さを紛らわすように一口飲む。甘ったるい味が喉に絡みついた。

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