第4話
コートの隙間から、冷えきった風が侵入する。やっぱりダウンにしておけばよかった、と後悔した。二月の初めの寒さを、やや甘く見積もってしまったことが敗因だ。
試験が終わったばかりの大学構内は、帰る人がぞろぞろと駅に向かって、まばらな群れを作って動いている。この時間だと、もたもたしていたら帰宅ラッシュに巻き込まれてしまう。
風の入る隙間がないようにマフラーを強く巻き直して、その群れに加わろうとした。
ふいに、女性が大学の敷地付近を右往左往としているのが、視界に入った。大学生というより、その親世代くらいの年齢のように見える。講師か、慣れない様子から見るに来客だろうか、と思いながら横を通り過ぎた。
「あ、柘……」
最初、自分のことを呼んだのだと気がつかなかった。女性が発した言葉が、そもそも人の名前であることすら認識できなかった。
「柘でしょ?」
二回目で、それが自分の名前だとわかった。
「え?」
中学生の修学旅行で、夜に友だちが話していた怪談話を思い出した。幽霊に呼ばれても、振り返ってはいけないし、目を合わせてはいけない。向こうに見えていると伝わってしまうから、と。
その意味がわかった気がする。コンマ何秒前の僕は、やってしまった。
「柘!ね、覚えてる?何年ぶり?背が伸びたのね……」
女性は僕の肩を両手でつかむと、生き別れた息子と再会したように喜んでいた。身につけているものは、疎い僕でも知っているブランド品ばかりで、セレブなマダムのようだ。
だがコートはよく見れば毛羽立ち、どれも手入れされないまま時間を過ごしてきたことが一目でわかる。
そして異様に塗りたくられたファンデーションでは隠せない、うらぶれた雰囲気が女性にはあった。
「元気そうね。会えなくて、寂しかったでしょう?」
「はなして……」
「あの人が邪魔するから、来れなかったの。でも、この前成人式の写真を見せてもらって、嬉しくて」
厚いコート越しに、女性の手が僕の腕にくい込んでくるのがわかった。
「やめてください。誰ですか」
絞り出した声は、彼女の言葉にすぐさま遮られる。
「背が、伸びたわね。あの人くらいの高さね。でも同じ歳の男の子より少し小さいかしら?」
女性は僕の言葉を何も聞いていない。一方通行のキャッチボールを、女性はさらさら止める気はないようだった。
「ねぇ、またお母さんと暮らさない?今からなら医大に入れるわ」
「いたっ」
「おばあちゃんの家で、四人で暮らすの」
「やめてください!」
痛みと恐怖で頭が真っ白になっているのに、人の防衛本能って偉大だ。手を振りはらい、僕は女性から離れようとする。
「柘!お母さんに向かってなんて態度とるの!」
目の前で、雷が弾けた。
忘れたフリをしても、この声は一生忘れられない。体の奥の奥まで刷り込まれた恐怖心が、僕の身体の支配権を僕から奪う。
「柘!どこ行くの!ちゃんと話を聞きなさい!」
逃げようとした手をつかまれて、引っ掻かれた痛みに頬が引き攣る。腕を捻って逃れようとすると、今度はコートの袖を引っ張られる。その拍子に半分コートが脱げて、同窓会の日のまま、だらしなく放置されたポケットから物が落ちた。
粗品と印刷された、本当に粗品のボールペン。手島と行った飲み屋のレシートといった、同窓会を思い出させるもの。それから今日の朝寄ったコンビニでもらったスクラッチクジなど、雑多なものが石畳の道に広がる。
その中に、あの日彼からもらったメモ紙を見つけた。
「何してるんですか!」
警備の人の声がして、女性の体が引き剥がされる。我に返って周りを見れば、少ない通行人は皆、僕らを遠巻きから見ていた。
「っ」
僕は咄嗟にメモ紙だけ拾うと、リュックもコートもくちゃくちゃのまま、逃げるように走った。背後から警備の人が「君も待ちなさい!」と叫ぶ聞こえたけれど、僕は振り向きもせずに駅に向かって全力疾走する。
女性は──僕の母親は、金切り声で何か叫んでいた。
それでも僕は、走るのを辞めない。追い越す人から不自然な目を向けられることを気にする余裕もないほど、必死で走った。
「はぁはぁはぁはぁ……」
歩いて二十分かかる駅前には、十分いかないくらいで到着した。
自販機に軽くぶつかり、横に置かれたベンチに倒れるように座りこむ。大学に入学してから、こんなに走ることなんてなかった。高校生ぶりに動かされた筋肉が、悲鳴をあげるように痛い。
恐怖か疲労か、スマホのバイブのように小刻みに震え続ける脚を投げ出して、背もたれに体重のほとんどを預ける。
「はぁ……」
右手に持った手汗でしおれたメモ紙を、何気なく眺める。強く握り締めて、くしゃくしゃになったメモ紙のしわを、丁寧に太ももの上でのばした。
僕はしばらくメモ紙を見つめた後、スマホを取り出してメモ紙に書かれた住所を入力する。ここから電車に乗って、たったの二駅。駅から歩いて二十分ちょっと。僕は画面の地図上に表示された青い丸が作り出す線を、目だけを動かしてぼんやり辿る。
横の自動販売機で、女子高校生が一人、小銭を入れてボタンを押した。電子音とほぼ同時に、ペットボトルが落下する音。
それを合図のように、僕は立ち上がって駅に向かって歩き出した。
改札を抜けて、いつもとは逆方向の電車に乗り、ルート検索通りに二つ目の駅で下車して、改札を出る。電車の中で暖かくなって外したマフラーを、また巻き直した。ポケットからスマホを取り出し、マップを起動させれば、青い丸の線が彼の居場所と僕を繋ぐ。
黙々と画面の指し示す通りの方向へ歩けば、古びたアパートへたどり着いた。メモにある丸みを帯びた文字によれば、このアパートの205号室のはずだ。
錆びた階段を、慎重にのぼる。塗装は当然のように剥がれていて、全体的に古くて汚れが目立つ。一歩歩くたびに足音とは明らかに違う、軋んだ音がどこからともなく聞こえた。
「ここか」
表札も何もでていなかった。日に焼けて黄ばんだインターホンのそばまでもっていった指を、引っ込める。
「いや……やばいかな」
思考が、口からはみ出した。たしかに住所を教えてくれたのはあっちだし、いつでもおいでと言ってはくれた。
けれども、それは社交辞令かもしれない。
でも社交辞令で、本当に住所書いたメモ紙を渡すだろうか。
第一、このメモ紙に書かれた住所だって嘘かもしれない。このアパートに入居している人がいなければまだマシで、メモをくれた彼じゃない人が住んでいたら最悪だ。
冷静に考えればわかるのに、僕は冷静さというものを失っていた。母親の影から逃れたい恐怖心と、引力に引き寄せられるように、彼の影を追いたくなる好奇心。不気味なほど対立する二つの感情が、頭の中で絵の具のように混ざり合う。
帰ろうか、と今にも崩壊しそうな階段に視線を向けた時だった。
「あれ、この前の子だ」
黒いタートルネックに、グレーのロング丈のコートを羽織っただけのシンプルな格好の彼が、階段の一番下からこちらを仰ぎ見ていた。シルバーのイヤーカフが、夕陽を反射してチカチカと光る。
彼は重力なんて存在してないみたいに軽快に階段を上ると、僕の目の前まであっという間にやって来た。
「久しぶり。一ヶ月ぶりかな?そんなには経ってないか」
「あ、はい……」
「そう緊張しないでよ」
彼は口元に手を添えて、良家の令嬢のように上品に笑うと、僕の二の腕辺りを軽く叩いた。
「来てもらえて嬉しいよ。寒かったでしょ?ほら、入って入って」
彼は僕の横を通り、ジャケットのポケットから鍵を取り出した。キーホルダーも何も付けていない、こざっぱりとした家の鍵だった。細かい傷がたくさんついたドアノブに差し込み、古ぼけたドアをあける。
「君の家と違って、ボロいけど。お茶くらいは出せるから」
「……おじゃまします」
大人一人が限界の小さな玄関は、僕と彼の靴を並べるので精一杯だった。
キッチンとダイニングと玄関が一体化した部屋と、奥にガラス扉で仕切られた部屋がある。奥の部屋はテレビとローテーブル、それからベッドがあるからリビング兼寝室だろう。ガラス扉の年季の入っている雰囲気といい、全体的にボロいが、掃除が行き届いているので清潔感がある。玄関の左にトイレと風呂らしき扉、右側には古い台所があった。手狭で古びた台所に似合わず、たくさんの調理器具がきちんと整理して置いてある。料理をする人、いやそれ以上に料理好きの人だというのが、一目でわかった。
彼はコートを脱いで玄関の横に置いてあるハンガーラックにかけると、僕にもそうするように勧めた。
「そうだ。そこに座布団あるから、良かったら座ってて」
「あ、はい」
僕は言われた通り座布団に座ると、台所に立つ彼に視線を向ける。バチ、という音が聞こえるくらい、視線がぶつかった。
「飲み物、コーヒーでいいかな?」
「あ、すみません。ありがとうございます」
「ふふ、そんな恐縮しないで。普通のインスタントコーヒーだから」
彼はそう笑って冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、やかんに入れてガスコンロの火にかけた。その間にコーヒーカップを二つを流し台の下の収納から取り出し、ガスコンロの近くに置かれた瓶を手に取る。瓶の蓋をあけ、そこからスプーンでインスタントコーヒーの粉をすくい、カップに入れた。
「そういえば」
彼は一通りの作業を流れるように終えると、くるりと振り返り、流し台に持たれるようにして佇む。
「君の名前、聞いてなかったね。私は
形のいい唇が、美しい名前を紡いだ。綺麗な人は、名前まで、音まで、こうも綺麗なのか。
「柘です」
「柘くんか、よろしくね」
薫さんは涼しげな目元を細めると、少し首を傾げて笑った。それに合わせたように、やかんが甲高い声を発する。
「お、沸いた」
薫さんは振り返りガスを止めると、やかんの湯をカップに注ぐ。
「砂糖とかコーヒーフレッシュ、いる?申し訳ないけど、牛乳は今切らしてるんだよねぇ」
いつも牛乳と砂糖たっぷりが僕のコーヒーの飲み方だ。カフェラテみたいなコーヒー牛乳みたいな、それ以上に甘い、コーヒーの尊厳を破壊したような味がする。ただ子どものようで恥ずかしくて、言い出せない。その発想が子どもだけれど、僕はこの人に子どもだって思われたくない。
「えっと、砂糖を少し……」
薫さんは一度こちらを見てから、「了解」とつぶやく。
訳の分からない幼稚な見栄を張ってしまったことが、甘めのコーヒーにしてもらうのと同じくらい恥ずかしくて、僕は正座した足をもぞもぞと動かした。
「……最近、コーヒーフレッシュ入れて砂糖多めの、甘いコーヒーにハマってるんだよね」
ポツリと、薫さんがこぼす。彼は腰をかがめて、流し台の下の収納からスティックシュガーとコーヒーフレッシュを取り出した。
「柘くんもどう?オススメだよ〜」
薫さんは取り出したスティックシュガーをシャカシャカと上下に振り、こちらに向けていたずらっぽい笑顔を向けた。
「おっ、お願いします!」
僕は不自然なほど背筋を伸ばして答える。
彼は口角を少し上げると、鼻歌交じりにスティックシュガーの口を破ってコーヒーに入れる。部屋を埋めつくしていたコーヒーの香りが、わずかに柔らかくなった気がした。
「どうぞ」
薫さんは僕の前のローテーブルに、コーヒーを置く。僕は礼を述べて、一口飲んだ。よくあるインスタントコーヒーの味の後に、甘ったるい味。けれども、その熱に溶かされるように僕の体から力が抜ける。
「……っ」
時折しゃっくりのようなテンポ感で震える僕に、薫さんは何も言わなかった。コーヒーを飲みながら、僕が落ち着くまで静かに待ってくれていた。
「きょ、今日」
「うん」
彼の相づちを、話を聞いてくれる意思表示と捉えて僕は続ける。
「母親に、会いました。もう、何年も会ってなかった母親に」
薫さんのほうを横目で窺うと、彼はコーヒーカップをローテーブルに置いて、こちらをじっと見ていた。
「昔から、怖い人だったんです。でも今日は、昔よりも何倍も怖かった。僕の体は昔より大きいのに、心があの頃と変わってなかった」
母親の顔が、脳裏によぎる。学校の行事で行った博物館で、何気なく展示されていた般若のお面。ガラスケースの向こう側で恐ろしい形相をしていたあのお面に、よく似ていた。
「情けないですよね。こんな二十歳になった男が……」
「そんなことないよ」
薫さんの手が、僕の方にのびる。僕のゆるいセーターの袖口の中に手を入れると、手首を露わにするように捲り上げる。
「赤くなってる」
言われるまで気が付かなかった。母親に強く握られて、手首が赤く染まっている。
「待ってて」
薫さんがわずかに俯くと、長いまつ毛が影をつくった。それに見蕩れているうちに、彼は立ち上がって冷蔵庫から保冷剤を取り出す。ローテーブルのそばにあるタンスからハンカチを取り出して、保冷剤を軽く包んだ。
「これ使って」
「えっ、あっ」
渡された保冷剤を患部にあてると冷たい感覚に襲われ、ハンカチの柔らかな感覚も手伝ってどこかくすぐったい。
「怖い思いをしたんだね」
日が暮れて薄暗くなった部屋では、薫さんの表情はハッキリとはわからない。それでも、彼が柔らかく笑っているのがわかる。
「何歳になっても、どんな強い人にも、怖いものはあるよ。気持ちは認めてあげないと、きっと君が苦しくなる」
否定されないことが、久しぶりな気がした。ずっと誰かに否定されている気がしていた。母親に、父親に、自分自身に。
「あ、ありがと……ございます」
薫さんは僕の肩を、優しく二度叩く。
「うちまで来てくれて、ありがとね」
けれども、鼻の奥と目頭が熱くなるかわりのように胸のずっと奥が、じわりと熱を帯びた。
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