第3話

「このへん、高級住宅街だよね」

「まぁ、そうですね」

 三十分と満たないうちに、車は僕の家の前についた。彼の視線は僕の向こう、我が家に注がれている。

「まさか君、青年実業家だったりする?相当儲けてるの?」

「いやいや、ただの大学生です。ここも、ただの実家ですよ。実際は僕しか住んでないようなものですけど」

「へぇ」

 彼はハンドルにもたれたまま、首を傾げた。背が高いこともあって、初めて見た時は男性的な印象が強かったのに、何気ない仕草や整いすぎている顔はどことなく女性のようにも見える。一瞬零れる不可思議なまでに中性的な雰囲気と深夜の空気が、この人を妖しく見せていた。

「じゃあ、今は君一人なわけだ」

 彼はふっ、と慈しむように目を細める。

「寂しくないかい?」

「別に、慣れました」

「慣れたって言い方するってことは、やっぱ寂しいの?」

 僕は口をひらいて、言葉を発することなく閉ざした。自分の気持ちを上手く表現できる言葉が見つからなかったからでもあり、そもそも自分が寂しいのかどうかすらわかっていないからでもある。

「寂しいなら、狭いけれどうちに泊まるかい?」

「いや、悪いですし」

 シートベルトを外して、帰りますという意思表示をした。彼はその動作を見て、楽しそうに目を細める。

「たしかに。見ず知らずの人間の家に泊まるのは危険だよね。今日は解散だ」

 彼が僕をからかっているのは、すぐにわかった。彼はいたずらっぽく笑うと、ハンドルにもたれるのをやめて、車のドアロックを解除する。

 あ、寂しい、と思った。

 この何気ない解除の音が、明確に自分に寂しさを認識させる。

「ね、君」

 ドアに手をかけたと同時に、声をかけられた。振り返ると、彼はサイドポケットから何か取り出し、僕に手渡す。

「これ、うちの住所。明日でも明後日でも、一ヶ月後でもいつでもいい」

 手渡されたのは、小さなメモ紙だった。青い点線で縁どりされたかわいらしいメモ紙に、丸っこい文字で住所が書いてある。

「寂しくなったら、おいで」

 僕は人見知りをする子どものように、一度うなずくだけしかできなかった。けれど彼は、満足そうに笑ってうなずいた。

 車から降りて振り返ると、彼は窓越しに小さく手を振っていた。僕も手を振り返すと、彼は微笑んで「おやすみ」と口を動かし、車を発進させた。車のライトの尾を、僕は呆然と眺めている。

 冷えた空気を忘れるほどに、頬が熱を持っていた。高熱に浮かされたまま、フラフラとおぼつかない足取りで家の門に手をかける。タイル張りの階段をのぼって、玄関ドアに鍵を差し込む。門の音もドアをあける音も、不自然なほど遠く聞こえる。

 頭の中で反響するのは、彼の声だけだった。






部屋のカーテンを開けっ放しだったことに、朝日が差し込んでから気がつく。ハンマーで優しく殴られたような鈍い痛みを持つこめかみを撫で、重たい身体をベッドから起こした。枕元のデジタル時計は七時ちょうどと表示しているけれど、この時計は五分くらい早いから実際は七時前。

 昨夜、寝巻きに着替えることとシャワーを浴びることはしたけれど、着ていたものやカバンを片付ける力が出ず、動線に沿って部屋中に散らかっている。

 カバンからスマホを取り出して、連絡だけきていないかチェックする。けれど、友だちがいないも同然の僕には何の連絡もない。毎朝自分を傷つけるようなこのルーティーンを、やめるタイミングが見つからなかった。

 ため息をつきながら部屋を出て階段を降りると、リビングから物音がした。父親が、帰って来ている。

 階段を降りた以上、父親は僕が起きて一階に降りてきたことに気がついているはずだ。ここで無視するのも具合が悪いから、僕は気まずさなんてないですよ、という何食わぬ顔で、リビングに足を踏み入れる。

「柘、おはよう」

「はよ」

 四人用の食卓に座る父親は一度だけ僕の方を見て、すぐに新聞に意識を戻した。父親の意識は、息子よりも紙ペラのほうに向いているらしい。寂しいような、安堵するような、矛盾した気持ちになった。

 電気ケトルで湯を沸かして、その間にマグカップに紅茶のティーパックを入れておく。テレビでは、天気予報がやっていた。お天気キャスターの着ているワンピースがナスのような紫色であることに、本人はなんとも思わないのだろうか、とどうでもいいことを考えていたら、お湯が沸いた。

 マグカップに注ぐと、無色透明なお湯に紅茶の色味が水彩絵の具のようにじわりと広がる。琥珀色より赤く、紅色よりは黄色い不思議な色合いを眺めてから、角砂糖を三つ入れてかき混ぜた。

「朝、食べないのか?」

「もう少ししたら食べる。今日は休みだから」

「そうか」

 僕のことを知らない父親に、怒りはない。家族としては、かなり前に破綻してしまった僕たちだけれど、一緒に家で暮らす他人としては、この上なく上手くいっていると思う。

父親は読んでいた新聞を几帳面に整えてからたたむと、立ち上がって隣の椅子に掛けてあったスーツを着る。

「もう行くの?」

「あぁ。またしばらく家を空けると思うが……」

「平気だよ。家のことはやっとくから」

 父親は僕を見ることなく、「お前がしっかりした息子でよかったよ」と身支度と同じくらいの早口で言った。業務的な褒め言葉に、僕は理解を示す息子を演じてみせる。

「冬は患者さん多いから、忙しいんでしょ?」

 手持ち無沙汰なのを誤魔化すように、紅茶を無意味にかき混ぜる。マグカップとスプーンがぶつかる甲高い金属音が、規則的にリズムを奏でるように鳴った。

「繁忙期って言い方も変だが、仕方ないさ。そうだ、今日荷物が届くから受け取っておいてくれ」

「わかった」

 父親は「ありがとう」と頭を下げ、コートを羽織ってリビングを出ようとドアノブに手をかけたところで、ふいに固まる。

「柘」

 父親はドアノブに目線を落としたまま、吐き出すようにつぶやいた。

「母さんが会いたいと言っているが、どうする?」

食卓に座って紅茶を口に含む。紅茶の味よりも、ほとんど砂糖の甘い味がした。この甘ったるい味が好きだ。夏場に暑さで溶けてしまった砂糖みたいに、ベトベトしてドロドロして、頭の中まで蕩けてしまう気がするから。

「いつも通りでお願い」

「そうか、わかった。いってくるよ」

「いってらっしゃい」

僕は紅茶を見たまま、義務のようにつぶやいた。

母さんが、会いたがって、いる。

憂鬱な言葉の並びに、僕はため息をつくことしかできなかった。紅茶にうつった僕の顔は、ゆらゆらと表面で揺れていた。


両親が離婚したのは、僕の小学校の卒業式直前だった。父親と母親は、恐ろしいほどに相性が良くなかったから、当然の結果だと思う。

二人は僕の教育方針の不一致のような顔をして離婚をしたけれど、僕から言わせてもらえば性格の不一致だった。反論されることが嫌いな父親と、気に入らないことがあればすぐにヒステリーを起こす母親が、上手くいく方が無理な話だ。

とはいえ、たしかに僕に関しての問題が、二人の関係をさらに悪化させたのも事実だ。

医者の家系に生まれ育ち、自分も医者になることを強要された父親は、僕を自由させたがっていた。というより、とにかく医学部に進学させたくなさそうだった。そうすることで、僕に重ねた過去の自分を救えるのだろう。

一方の母親も同じく医者の家系に生まれ育ったけれど、母親には医者至上主義とでもいうような思想がこびりついていた。医師にはしたくない父親と、何がなんでも医者へと育てたい母親。

相反する思想は、離婚というありふれた結論で落ち着いたわけだ。

多忙な父親はもちろんアテにしていなかったけど、母親がいなくなれば、卒業式には誰も来ない。「お父さんお母さん、ここまで育ててくれてありがとうございます」なんて、声をそろえて馬鹿みたいな呼び掛けを親にすることすら、幼少期の僕には叶わなかった。

別にやりたかったわけじゃないけど、誰もいないのにこんなことをするのもなんだか虚しい。何も卒業式の直前に離婚しなくてもいいじゃないか、と一人ひっそりと憤ったことを覚えている。母親も、離婚したって来てくれてもいいのに、と腹が立った。

たった一ヶ月も我慢できないほどに夫婦仲は悲惨なことになっていたのか、僕の卒業式に一ヶ月も我慢するほどの価値がなかったのか。いずれにせよもう会う予定のない母親には、もう確かめようもない話だ。

小学校の卒業式直前というタイミングは、僕の進路の問題が影響している。僕の受験する私立中学校で、両親はもめていたのは知っていた。当の本人である僕を置いて、二人が僕の未来を決めているのは何とも切なかった。

やっぱり、僕の教育方針は夫婦仲に大きく影を落としている。

母親は僕を母親の志望校に入学させるために、過剰に勉強させた。離婚して母親が家を出るまで、ずっと。今でも、母親のヒステリックな「なんでできないの」が、耳から離れない。鼓膜から脳みそを針で突き刺すような、鋭利な叫び声。

母親が、苦手だ。

成人した男がこんな事言うのはみっともないけれど、どうしようもない。苦手なのは事実だから。

母親から会いたいと言われても、僕の全部が本能的に拒絶をする。両親が離婚してから、一度も会っていない。父親が定期的に会って、やんわり断ってくれている。これに関しては、本当に父親には感謝しかない。

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