第2話

 駅の改札口は、それなりに人がいた。土曜日の夜ということもあって、二軒目へ向かう人や帰る人で賑わっている。

喧騒の中で、僕は改札の向こう側を眺めながら、定期入れを取り出そうとカバンに手を突っ込む。その時、違和感を感じた。

「ん……あれ!?」

「どうした?」

 カバンの中身を何度確認しても、ない。僕はカバンの中をかき混ぜるように漁る。

 財布、ワイヤレスイヤホン、定期入れ、それから今回の同窓会でもらったクソみたいな記念品。ハンカチとティッシュ。あとはずっと入れっぱなしにしていたせいで色あせた、いつのものかわからないレシート。

 これだけしかない。

「どうしよ。スマホ、忘れたかも」

「えっ!? どこに!?」

 手島が叫んだのは、改札の向こう側だった。改札を通る人が、突然大きな声を出した手島を一瞬見て、すぐにどうでもよさそうにして去っていく。

「たぶん、いや、確実に居酒屋! 僕、店内で時間確認するときにスマホ見たから」

「取りに行くか?」

「いや、手島もう改札通ったし……もともと帰る方向も逆だから、気にしないでよ。一人で取りに行けるから大丈夫」

 手島は少し心配そうに眉を寄せた。だが、諦めたように後頭部をかいてから、そのまま手をヒラヒラと振る。

「わかった。気ぃつけてな」

「ありがと。またな」

 改札越しに手島に別れを告げて、僕は来た道を走って戻る。

 成人の日を含んだ三連休真っ只中ということもあって、僕と同じ二十歳くらいの人が多いように感じた。二次会だと楽しげにはしゃぐ女子大生グループの横を、足早に通り抜ける。

 少し先にある交差点の歩行者青信号が、チカチカと点滅した。それに急かされて、僕は慌てて走る。この駅前の交差点は一度つかまると長いから、心の中で謝罪の言葉を唱えて、赤信号に変わると同時に渡りきった。

角を曲がってカラオケや雑居ビルの立ち並ぶ通りを進み、さっきから鬱陶しいくらい目につくイルミネーションを視界に捉えながら歩く。

 ほんの数分前まで僕らがいた居酒屋に、吸い込まれるように入った。入店してすぐに店員さんの口が、「あ」という形になる。

「もしかして、さっき来店された……スマホ、忘れてませんか?」

「あっ、そうです!」

 慌てて一人で入ってきたから察してくれたのか、僕の顔を覚えていたのか、どちらにせよラッキーだ。

 僕は赤く染まった鼻先を人差し指でかいて、店員さんがスマホを持ってきてくれるのを待つ。出入り口の真ん前で待っているのは邪魔になりそうで、列ができた時用の木のスツールに座った。

 しばらくすると、店員さんが僕のスマホを手に戻ってきた。馴染みのあるシンプルな透明のケースを見た瞬間、安堵からか肩の力が抜ける。

「すみません、助かりました」

「いいえ」

 頭を下げて、僕は店を出た。

 スマホを無事回収できて、店の外で胸を撫で下ろす。すぐに気がつくことができて、よかった。

 僕は手元に帰ってきたスマホで、手島に連絡する。すぐに『よかったな!』と返信が返ってきた。なぜか悲しそうに号泣している絵文字がついていて、笑ってしまう。あいつは時々、変な絵文字をつけるのだ。

「わっ、とと!」

 カシャン、と軽い衝撃音がする。スマホを見ながら歩いていたせいで、つまずいてしまった。そこで咄嗟にバランスを取ろうとして、スマホを落としてしまった。スマホはアスファルトを器用に滑って、道路の端に止まる。

 ツイてない。

 いや、自業自得なんだけどさ。

 ため息をついて、滑って行ったスマホを追いかける。スマホを拾ったのは、店屋同士の隙間みたいな、店の裏へ続く細い道への入口だった。車が通るとその一瞬だけ、配管やダクトがヘッドライトで照らされる。風が道に吸い込まれるように、高いうなり声をあげて吹き抜けていった。

 上部がわずかに割れてしまったスマホの液晶が、不意に光る。誰かからの連絡か、何かのアプリの通知なのか。そんな些細なことを確認する気が起こらないほど、僕の意識は目の前の道から離れない。

 スマホの画面の光で一瞬わずかに照らされた道に、足を踏み入れる。誰かに手招きされたように、いや、見えない糸に引っ張られるように。僕はどこか急かされるような気持ちで、足早に歩き出した。

 店に血管のように張り付く配管をよけながら進むと、裏路地に出る。スタッフ用出入り口やゴミ箱が、壁に沿って並べられていた。いかにも路地裏といった風合いの道で、人の気配はない。軽自動車が通れるか通れないかほどの道幅を、油っぽい臭いが満たしていた。

 どこにでもある、繁華街の裏の顔。

 僕は小さく息を吐き出すと、一気に脱力した。謎に湧き出した無意味な自分の好奇心に、身を委ねてしまったことに後悔する。

「は〜あ、帰ろ」

 もう一度あの油まみれの細い道を通るのは、どうにも気が引ける。そんな道を歩いたせいか、靴の裏がベタベタして歩くたびに音がしていたのだ。恐らくこの道を進めば、駅前のスクランブル交差点の近くにはたどり着くだろうと、願望にも似た憶測を立てて歩き出す。方角さえ間違わなければ、問題ないだろう。

 ふいに歩き出したその瞬間だった。風に乗った、女の人の声。

 小さな小さな──悲鳴のような声だった。

 何気なく、本当に何気なく。悲鳴の聞こえてきた方向に歩き出す。この情報化社会に飼い慣らされて失われつつある、生物としての野性的な直感を頼りに、悲鳴の発生源を目指して。

 数メートル歩いて、油汚れなのか長く風雨に晒されたからか、とにかく黒ずんだ古い自転車が目についた。後輪に絡まったツタがちぎれていて、そのツタの残骸が近くに落ちている。明らかに、最近誰かがこの自転車を動かした。

 自転車のそばに寄ると、店と店の間に門の代わりのように、もたれかかっているのがわかった。店の間は僕が通ってきた細い道より少し広めの、人が二人は並んで通れそうなほどの幅がある。月明かりはビルに遮られ、店から漏れ出す明かりだけが頼りで、ほとんど見えない。

 それでもハッキリと、道の奥で誰かの影が蠢くのがわかる。

 大きな衣擦れのような音が、徐々に近づく。次第に足音も加わり、音が鮮明になった。衣擦れだと思っていた音は、何かを引きずる音だ。

 影は、男性だとわかった。

 男性が引きずっている重いモノが、だということも。

「あれ」

夜の静かな海を思わせる声だった。低いのに柔らかくて安心する不思議な声は、目の前の男性が発していると遅れて理解する。

 男性が首を傾げると、ザクロが透かし彫りされたデザインのイヤリングが揺れた。センター分けにされた耳にかかるほどの長さの前髪が、彼の顔に影を作る。真っ黒な髪の毛と服装は、周りの闇と同化する保護色のようだった。

「この時間は、いつも誰もいないのにな」

 顔色一つ変えない陶器のような肌を、店から漏れたわずかな光が照らす。彼が辺りを窺うように横を向くと、通った鼻筋がよくわかった。

「ねぇ、君」

 僕は固まったまま、動けなかった。返事もできないし、金縛りにあったみたいに浅い呼吸を繰り返すだけ。それでもお構い無しに、男性は話しかけてくる。

「あそこの車までコレ運ぶの、手伝ってくれる?外なのに寝ちゃったんだ。だいぶ酔ってたみたい」

 彼が『コレ』と称したのが、間違いなく彼の引きずってきた人であることは疑う余地もない。本当に酔って寝てしまっただけなのか疑いたくなるほど、人形のように重力に大人しく従っていた。

 もしかして、犯罪じゃないか?

 関わっちゃいけないし、警察に連絡したほうがいいかもしれない。いくつもの模範的な行動例が脳内でぐるぐる回る。

「ほら、早く」

 彼の形のいい唇が、点滅する信号のように僕を急かした。

「あっ、はい」

 気がつけば、僕は引きずられているヒトの脚を抱えて、車に運び込んでいた。黒色の軽自動車の手狭な後部座席に、ヒトの身体を折り畳んで寝かせる。そこで初めて、僕が運んだのは女性だと気がついた。

 口紅だけが少し剥がれているが、顔を覆う化粧はまったく崩れていないから、血色が良いか悪いかもわからず、生きているのか死んでいるのかも予想ざつかない。

「女性に対して失礼かもしれないけれど、人って案外重いよね。困っちゃってさ」

 彼はさっきまで『コレ』と呼んで引きずっていたのに、どこか愛おしそうに女性の頬を撫でた。

 車中の明かりで、彼の唇の一部が不自然に紅く染まっているのがわかった。女性の口紅がついたのだと気がつくのに、そんなに時間はかからない。見てはいけないものを見てしまった気がして、僕は咄嗟に視線を外した。子どものころ親と見ていたテレビで、ちょっとエッチなシーンが流れてきた時みたいな気まずさだ。

「ありがとう。よかったら乗ってかない?」

「いや、けど」

「遠慮しないでいいから。もう終電ギリギリでしょ?お礼に送るよ」

 彼の有無を言わさぬ不思議な力に、僕はまたしても抗えなかった。頷いて、ミニバンの助手席に座る。

 彼は運転席に座ってエンジンをかけると、ギリギリの隙間を絶妙なハンドルさばきで器用に抜ける。

 車のオーディオから、昔どこかで聴いたことがあるような洋楽が、軽快に流れていた。

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