第12話

 暁の行先が決まるのに時間はかからなかった。むしろ実に素早く決められ、翌週にはもう準備が始まっていた。それというのもやはり一族の誰もがこの日が来るのを知っていて、かねてから心づもりがあったからなのだろう。


 匠はその間も毎日学校へ行き、部活に勤しみ、受験勉強をするという当たり前の生活を送っていた。ひとつだけこれまでと違うのは、朝晩必ず山の上の本殿へ行き拝礼を行い、父から鷹住の神々について聞き、歴史を学び、神に通じる力を知る講義を受けることだった。すべては久遠寺家を継ぐために。


 暁はというとやはり同じように学校へ行き、化学部で実験を行い、帰宅すると山へ行く。平坦な日常を繰り返すだけだった。しかしそれらは嵐の前の静けさのようでもあった。


 今までも、教室でおとなしく座り黒板に向って微分積分や世界史を学ぶ時、暁の視界にはやっぱり普通の子には見えないものが見えていたし、時として小鬼たちが教壇で踊りまわったり、机によじ登ってきては邪魔をしようとして暁を困らせることがあった。


 校庭の銀杏の木にとまるカラスたちのお喋りも聞こえていたし、通学の途中に田圃のあぜを行くイタチの声も聞こえていた。彼らは暁に向っていつも「なにしてんの」と言うのだ。「なんでそんなとこにいんの」「なんのために」と。


 今思うと彼らも知っていたのだなと暁は思った。獣たちも暁が魔道の者であることを知っていて、ここから出て行かなければならない運命だということを彼らなりの本能で察知していたのだ。――それならそうと早く教えてくれればよかったのに――。

 そうして日々をやり過ごしていくうちにとうとうその日はやってきた。


 暁が学校から戻るとすぐに母屋へ呼びいれられた。


 祖父母と父親とが待っていて、女中ではなく母親がお茶を運んできて暁に冷たい麦茶を出し、父親の隣に座った。


 父親は開口一番、こう言った。


「暁、お前の行先が決まったよ」


「……うん」


 暁は麦茶のコップを手にとると一息に飲み干して、大きく息を吐いた。


「魔道と言うのは神に反する道であり、力であることは分かっているな?」


 父親は確認するように尋ねた。暁は無言で頷く。


「魔道とは即ち『魔法』で、本来この国にはないものだ」


「……」


「神々が妖術ではなく敢えて魔道と仰るには訳があると思う」


 家の中が静まりかえっている。暁は耳をすまして台所の様子を窺った。女中たちが立ち働いているはずなのにいやに静かだ。誰もいないかのように皆、息を潜めている。


「暁が魔法を使う者ならば、それは二つの世界を結ぶ者だと私達は思う」


「二つの世界……?」


「そう。大きな世界と私たちを繋ぐ架け橋となる存在であり、そういう運命を担っているというのが一族の出した結論だ」


 暁は黙って聞きながら、内心では「魔法って言われても……」と戸惑っていた。


「これから世界は大きく変わる。いや、変わり続ける。神々の力が失われることはないが、魔道との均衡は常に計られなければならない。稲妻の姫神が仰ったのはそういうことなんだと思う。お前はこれから魔道を学び、お前の力の使うべき道を探すんだ」


「それで、私の行先というのは……?」


 暁は恐る恐る尋ねた。なにか嫌な予感がしていた。しかし父親は変わらぬ落ち着いた口調で答えて言った。


「お前はニューヨークの魔法学校に行くことに決まった」


「ニューヨーク?! ニューヨークってあの? アメリカの?」


「他にあったか?」


「……」


「世界有数の名門校で、世界中から留学生を受け入れているナショナルウィザードカレッジ。そこで魔道に関する座学、歴史や理論、実技、とにかく魔道のすべてを学ぶ。ヨーロッパにも学校はあるが、ニューヨークが最もリベラルで新進の気鋭があるということだから、お前のような者も受け入れられるだろう」


「歴史や理論……実技……」


「向こうの学校は九月に始まるから、お前は来春の高校卒業を待って出立することになる」


 あまりのことに暁はぽかんと口を開け、言葉を失っていた。


 魔法というのは悪魔の力。久遠寺家が長い歴史の中で許されてきたのは神々の力。正反対の世界に行かなければいけないことに暁はひどく戸惑っていた。

「それでね、暁を一人で行かせることはやっぱりできないと思うの」


 このような「お家の大事」の時には決まって黙って控えている母親が、不意に口を挟んだ。


「お母さん?」


 暁は驚いて、机に身を乗り出すようにしている母親を見た。父親は今度は苦々しい顔で黙りこんでしまった。母親の表情にはひどく切羽詰ったものがあり、暁も思わず黙り込んだ。


「外国なんて行ったこともないのに。一人ぼっちで右も左も分からない世界へ放り込むなんて、そんなことはできないわ」


「……」


「暁はれっきとした久遠寺の一族。外国の、どこの誰とも分からない者たちと一緒にすることはできないわ」


「……お母さん……?」


 母親は興奮しているのか一声高く次の間へ声をかけた。


妖狐狸ようこりの者、こちらへ!」


 母親の呼びかけに応じて障子がすっと開くと、次の間から格子の着物に半幅帯はんはおびを貝の口にきゅっと締めた女が入ってきて、畳の縁際へりぎわで深々とお辞儀をした。


 暁は女の姿をじっと見つめていた。今まで一度もこの鷹住の山で見たことがない者だった。


 母親が父親の腕を指で突いて「ほら」とばかりに先を促した。祖父母も神妙な顔で様子を窺っていた。


「この鷹住の山に住まう眷属は神々の使い。うちにいる者たちも元は皆、稲荷の社に仕える狐だということは分かっているな?」


「うん」


「狐も鹿も、鷹も猫もお前について行くことはできない」


「まあ、そうだろうね」


「だから」


「だから?」

 暁は父親に向って視線で回答を促した。


「……神に属さない眷属から一名、お前の供をすることになった」


「……」


「妖狐狸が妖かしに属するといっても、彼らは本来神々を陽の力とするなら、妖狐狸の眷属は陰の力を持つ者たちで表裏一体。魔道が陰に属する以上、お前の供をするには相応しいと言える」


 暁は女の姿に視線を注ぎ、胸の中だけでその驚きを秘かに呟いていた。――狸だ。狸がいる――。


「おまつ」


 父親に名前を呼ばれて、女は顔をあげた。


「一族の中でも極めて優秀な力の使い手だ。変化の術も素晴らしい。おまつがいれば暁も大丈夫だろう」


 おまつははきはきとした口調で、


「お初にお目にかかります。不束者ではございますが、心して暁様にお仕え致します。どうぞよろしくお願い致します」


 と挨拶の口上を述べると、また深くお辞儀をした。


 暁は思った。父親はもちろん、祖父の目にもおまつの本当の姿が見えているはず。祖母はどうだか微妙だ。母は元はこの家の者ではないので見えてはいないだろう。狐は見慣れているが狸は初めてだ。目の周りは黒く、鼻の周りは白い。黒い手をちんと畳につく姿の丸いフォルムがやけにかわいい。狐たちは皆一様にすっきりとしていて、毛皮は美しい金茶や赤茶をしているが、狸は黒っぽい。暁はおまつの丸みを帯びた三角の耳に新鮮な気持ちになった。


「ああ、言っておくが、おまつというのは本名ではないから」


 父親が思い出したように口を開いたことで暁は我に返った。


「昔から女中を本名で呼ぶのは親御さんに失礼だという風習があって、通り名で呼ぶことになっている。おまつというのは特に松竹梅でいう最高位。眷属の中でも最高の実力者を示す通り名だ」


 暁は興味深く、おまつに話しかけた。


「松竹梅なら三人しかいないことになるけど……」


 するとおまつは答えて言った。


「旦那さまの仰る通り、松竹梅で三人きり。だから、おまつ、おたけ、おうめを名乗れるのは一族でも三人だけです。そしてこの通り名は代々受け継がれるもので、私が126代目になります」


「126代……」


「有史以来、高貴な方にお仕えしてまいりましたので……」


「……。おまつ、世話をかけると思うがよろしく頼みます」


 暁はおまつに向きなおり、三つ指をついて礼をした。おまつは驚いた顔でこれから自分の主人となる娘を見た。そこにはなんの作意もない素朴さがあった。魔道の者というからどんな娘かと思っただけに、おまつは拍子抜けしてしまった。


 この日から出立までの日々を、おまつは暁と共に離れで寝起きすることになった。暁にとってもおまつにとっても、不慣れでどこか奇妙な主従の始まりだった。

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