第13話

 おまつの離れでの生活は平坦なものだった。屋根裏部屋で寝起きし、割烹着を付けて階下へ下りると、掃除をする。神仏習合でもある久遠寺の仏間でお茶やお水を差しあげ、お線香をつける。


 縁側や廊下を拭き清めると暁を起こしに行く。起こすといっても暁は大抵自分で目ざましをかけてきちんと起きてくるので、実際には暁の部屋の前で「お目覚めでございますか」と声をかけるだけ。早暁に祖父が古参の女中と共に本殿へ行っているが、拝礼を済ませて戻ってくると母屋で用意された朝食が運ばれてくる。その際にお茶をいれたり、おひつからごはんをよそったりあれこれと給仕をする。今までは古参の女中がしていたが、今はおまつの役割だった。


 暁は学校へ行き、放課後は飽きもせず化学部で試験管に無数の色水を作り、フラスコをぶくぶく泡立て、興味の赴くままに実験をし、父の命じた通り英会話を習いに行って帰宅する。


 おまつは一族の長から命じられてやってきたのだが、その際に暁の持つ「力」のことも魔道のことも聞かされており、ならば自分は久遠寺の娘の指南役もするのだろうと思っていた。今の自分が人間の姿をしているように、変化の術だとか、式神や幻覚を操るだとかを。


 けれど、そういう指示はなく、ただ「暁の身の周りの世話を」と言われるだけでかなり拍子抜けしていた。


 古参の女中になにかすることはないか尋ねたけれど、この古狐はつんと取り澄まして「自分のできることをすればいい」と言うだけで、これといっては何も教えてくれなかった。


 やむなく掃除をしたり、家の周囲の草むしりをしたりして時間を過ごしたが、ついにはやることがなくておまつは日曜で学校が休みの暁の部屋へ行き、


「暁様、何かお手伝いすることがありますか」


 と尋ねた。


 部屋を覗くと暁は寝そべって本を読んでおり、おまつの呼びかけにむくりと起き上がると「ちょうどいいとこへ来た」と言った。


「なんでしょう」


「山へ行こう」


「は?」


 暁はさっさと部屋を出て行き、玄関で靴を履くと「早く」とおまつを促した。


 おまつが鷹住の山へ入るのは初めてだった。というのも、鷹住の山は神々の住まう言わば「聖地」で、陰の気を司る妖狐狸が気軽に踏み云っていい場所ではない。おまつは遠慮がちに尋ねた。


「いいんでしょうか」


「なにが」


「私がお山に行っても」


「駄目な理由があるの」


「それは……」


「妖狐狸が駄目なら魔道の者だと言われている私はもっと駄目ってことになる。いいよ、がんがん入ってやれば」


 そう言うと暁は山裾からずんずんけもの道を分け入って、もう一度おまつに向って「早くおいで」と声をかけた。


 おまつは戸惑ったけれど、自分の役目を思い出し「すぐに」と答えて暁の後を追った。


 山の緑は色濃く、さわやかな匂いが鮮烈だった。本道とちがって細くまがりくねった道なき道であるのに、暁はなんの迷いもなく進んでいく。慣れているのだ。一足進むごとに「ここにナルコユリが群生している」「気力の減退に良い」とか「あの木にオオルリの巣がある」「羽を見つけたら拾っておいて」と話す。その様子が楽しげでおまつは久遠寺の一族たちが暁を評する時に「山猿」などと言うのに合点がいった。


 森の梢で鳥たちが暁とおまつに注視しているのが分かった。それは暁を見ているのではなく、おまつを監視する視線だった。暁はそのことに気づいていたけれど無視していた。おまつが妖狐狸だからといって害をなすような者ではないし、出自やどこの誰に属するかという理由で差別も区別もされるべきではないと思うからだった。


「おまつ、妖狐狸の眷族は色々な術を使うと聞いているけど」


「はい」


「それはやっぱり葉っぱを頭に乗せるの?」


「……」


「なんの葉っぱを乗せるの?」


「……」


 おまつが黙っていると暁は立ち止り、振りかえった。


 おまつは暁がどういうつもりでそのようなことを聞いているのか真意を図ろうとしていた。――所詮は狸と侮っているのだろうか?――。


 しかし、暁の目にはなんの他意もなかった。ごく自然な、素朴な疑問をぶつけているだけで、実に不思議そうな顔でおまつを見つめてくる。黒目が大きくてよく光っている。


 おまつはふと笑いだしたいような気がした。この娘はまだ世界のことを何も知らないのだ。所詮、これまで久遠寺の一族に守られてきたお嬢さんに過ぎない。明確な悪意や敵意にさらされたこともなければ、そもそも敵のない安穏な生活をしてきた山育ちなのだ。


 この時初めておまつは自分が暁の供に選ばれた本当の理由が分かったような気がした。妖魔や陰の気に通じるからではない。もちろんそれも理由の一つだろうけれど、光と影の両方を知る妖狐狸だから、選ばれたのだ。即ち、この世間知らずな娘の面倒をみる「お守」であり「お目付け役」なのだ。


 大変な役目を背負ってしまった。これから世界で出会うであろう数々の困難や、悪意や、現れるであろう敵から暁を守らねばならないのだ。なにせ久遠寺のお嬢さんは生まれたてのヒナみたいなものなのだから。


「……柿の葉ですよ」


 おまつはほっと一息いれて、答えた。


「柿?」


「他のものでもいいんですけど、やはり一番良いとされているのは柿の葉です」


「へえ……なんでだろうね」


「さあ……。柿には力があるからですかね」


「まあ確かに葉っぱには抗菌作用があるしね」


「抗菌作用?」


「柿の葉寿司に使うでしょ」


 ――いや、そういうことじゃないだろう?――。おまつは一瞬そう思ったが黙って暁について行った。歩きながら暁は柿の葉や実、ヘタや種も薬になるなどと滔々とうとうと説明している。おまつは「はあ」と相槌を打ち続けた。我が主人は変わってるなと思い、同時に「そう悪くもないな」とも思いながら。

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