第3話

 その日、匠は誕生日を迎え、昔ならば元服と呼ぶところの成人と見なす儀式「神宿かみやどりの儀」に山の上の本殿で臨むことになっていた。


 かつてはもっと幼い頃から修行させたという久遠寺家も、近年は学校制度や児童福祉の観点からあくまでも「修行」は18からということになっており、匠がその年齢に達したことで初めて本殿で鷹住山の神を筆頭ひっとう数多あまたの神々への「謁見えっけん」を許されるという儀式だった。


 神宿りはその身に神々の力を頂くもので、それを許されることで所謂「不思議な力」を「使わせて頂く」ことになる。匠にとっては大切な儀式だった。


 その日は朝から忙しく、一族がその準備に追われていた。この時ばかりは女であっても列席が許され、杯を頂くことができるとあって母屋には来客が溢れ、匠たちの母親と祖母が歓待の一切を取り仕切り、女中たちへあれこれと指図を行っていた。


 割烹着かっぽうぎの女中たちが忙しく朱塗りの銘々膳めいめいぜんをかかげて畳の上を早足に歩きまわり、台所では酒肴しゅこうの支度がされ、雑用や力仕事をする久遠寺家の家紋の入った半被はっぴを着た使用人が本殿へ上る石段に灯籠とうろうを準備していた。


 学校から帰った匠は制服を紋付もんつきに着替え、夕暮れを待って本殿へ向かう手筈になっていた。


 梅雨入りしたばかりでまだ蒸し暑さはさほどではなく、一昨日降った雨が山の木々と土に留まって空気はむしろひやりとした湿り気を含んでいた。


 匠は幾分緊張していた。この日が来るのは分かっていたし、何が行われるのか、自分の身になにが起こるのかも知っていた。即ち、もう絶対に何があっても久遠寺の家から逃れることはできないし、運命に逆らうことはできないということだ。なぜならそれは「神に逆らう」ことになるのだから。神々の力を身に宿すということはそういうことだ。


 二階に位置する匠の部屋の窓からはすでに田植の終わった水田の清らかな緑が遠くまで広がっているのが見渡せる。匠はぼんやりとそののどかな風景を眺めていた。


 部屋にはベッドと勉強机。本棚。当たり前の高校生の部屋だ。神の力を宿せば見えざるものを見るようになると言う。「神の目」を持つことで一体この部屋は、この世界はこれからどのように姿を変えるのだろうか。


 匠は自分の見てきたものが消えうせて、新たな自分になるのだということがなんだか虚しいような気がしていた。それじゃあ今まで一体なんだったんだろうな? 自分が見ていたもの、信じてきた世界ががらりと変わってしまうのをすんなりと受け入れられるんだろうか?と。


「匠」


 名前を呼ばれて振り向くと同時に、母親が妙に慌てた様子で部屋へと入ってきた。


「なに?」


「暁、知らない?」


「さあ……。そういえば見てないな。離れじゃないの」


「いないのよ、それが」


「いないって……」


 黒留袖くろとめそでの母親が窓に駆け寄る。見下ろす庭先には使用人が提灯ちょうちんを用意しているところだった。


「学校から帰ってきたら手伝うようにって言ったのに。そこから姿が見えないのよ」


「離れは?」


「いなかったわ」


「山じゃないの。ちょっと見てくるよ」


「着物、汚さないでちょうだいよ! お父さんに怒られるわ」


「分かってる」


「見つけたらすぐに連れて来てちょうだいね」


「うん」


 匠は階下へ降りると羽織を脱ぎ、裏庭へまわった。裏庭と言ってもそのまま地続きで山へ繋がる空き地で、ストーブ用の薪小屋があるだけで匠には日頃は用のないところだが、暁がここから山へと分け入って行くのは知っていた。


 匠は暁によって踏み分けられたけもの道のような細い道を入って行った。耳元を虫の羽音がかすめたようで咄嗟に手のひらで追う。緑の匂いが濃かった。


 袴の裾を汚さないように気をつけながら歩みを進めると、木立の向こうの熊笹くまざさやぶからがさがさと音がした。匠は一瞬クマかと思いぎくりとしたが、そこから顔を出したのは暁だった。


「なにやってんだよ。お母さんが探してるぞ」


「匠、ダメだよ。そんな格好で。着物が汚れるよ」


「お前がいないから探しに来たんだ」


「ああ……」


「なにやってんの」


 来た道を戻りながら匠は尋ねた。


「これこれ」


 暁が手に握っている草を振った。


「アマドコロ、採ってきた」


「なにそれ。何にすんの。つーか、今? このタイミングで?」


「おじいとおばあが本殿に行くの体にこたえるから。関節が痛いから。煎じてお茶にするといいんだよ」


「……」


「なんで本殿をもっと低いとこに作らなかったんだろうね。それかエスカレーターみたいなの作るとか、なんでしちゃいけないんだろうね。年寄りはみんなきついと思うよ」


 淡々と言いながら暁は裏庭へ戻ると母屋へ続く裏口を開け、土間に据えてある流しに草を置き忙しく立ち働いている女中を呼び止めて「これ、洗って、せんじておいて」と頼んだ。


 その声が聞こえたのだろう。いきなり台所へ続く引き戸ががらっと勢いよく開き、中から母親が鬼の形相ぎょそうで「暁! どこ行ってたの! なにやってんの!」と叫んだ。


「ああ、まだ着替えてないじゃないの! もう、時間ないんだから早くして!」


 母親に追い立てられ、暁は靴脱ぎ石くつぬぎいしの上で蹴るように靴を脱ぎ台所を駆け抜けて行った。


「ほんとにもう……野性児なんだから……」


 母親が額に手を当てて溜息を吐く。


 匠も土間から上がって脱いだ草履ぞうりを手にすると、


「年寄りに山登りはきついから、関節痛に効く草を採ってきたんだってさ。あんまり怒らないでやってよ」


「……」


「それにさ」


「なに」


「……今日は暁の誕生日でもあるんだから」


 そう言うと匠も台所を抜けて表玄関へと向かった。


 もう日が暮れ始めている。長い石段に据えた灯籠に火が入り始め、夕景の中に淡く揺れている。


 祖母にも叱られながら暁はいつものお下げ髪に海老茶えびちゃの袴に宝尽くしの模様の描かれた二尺袖にしゃくそでで大急ぎで支度を調えた。そして離れから飛び出してくる頃には太陽は沈みきり、空はオレンジと藍色のグラデーションを織りなしていた。


 先頭に父親と祖父が並び、匠、一族の男性陣が続く。その後に祖母と母。叔母たち。最後の最後にくっついて行く形で暁の順で、女中や使用人達に見送られる格好で一同が本殿へ続く長い石段を列になって上り始めると、頭上を山へと帰るのであろうとびが一声高く鳴いて空を旋回して行った。


 暁は一瞬空を見上げ鳥の行方を追った。が、すぐに前を向き、一族について石段をゆっくりと上がって行った。

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