第4話

 鷹住神社の鳥居は石段の上り口から始まり、その合間と上りきったところにまるで「ゴール」のようにそびえ立っていて、朱塗りではなく皮つきのままの木を使った黒木の鳥居で、山の上にありながら敷石の美しい参道を有し、拝殿の向こうに大きな本殿が建っている。


 参道さんどうの右手には小さな社務所しゃむしょ御祈祷ごきとうの受付やお札やお守りの販売もしているが、参拝する者は少ない。それは長い石段のせいだけではなく、鷹住神社とそこに仕える久遠寺家の不思議な力が結界のように人々を遠ざけるせいだった。


 ここへやってくるのは本当の、ほとんど命がけのような願をかける者。金運や恋愛成就ではなく、生命をして望む大願たいがんにだけ神は力を授ける。ようするに「誰でも来ていい」ような開かれた場所ではないということでもある。久遠寺家が神々との媒酌ばいしゃくをしてきたのも、歴史を動かす出来事、先の大戦や政治の裏側にまつわるもので、だから社務所のお守りなどは世を忍ぶ仮の姿のようなものだった。


 その家をこれから修行して守らなければならない。匠は緊張した面持ちで父と祖父について拝殿で型通りの礼をし、本殿へ続く渡り廊下を進んで行った。


 一族の者がそれに連なり本殿に居並ぶと、緋色ひいろの袴の巫女たちが現れて朱塗りの杯を配ってまわった。


 暁も末座に座り杯を受け取った。手のひらに収まる小さな杯はつやつやした光沢を放ち、朱の色はあくまでも深く透明だった。


 山はすでに暗闇の中にあり、屋根はあっても能舞台のうぶたいのように壁のない本殿は無数の篝火かがりびに照らされ、ちらちらと炎の映る杯を見つめていると、暁は吸いこまれそうだと思った。


 風のない静かな夜だった。木々のざわめきもなく、虫の声もせず、枯草を踏む獣の足音もない。匠は祖父の読み上げる祝詞のりとを頭を垂れて聞きながら、世界が滅びた後の静寂ってこんな感じだろうかと考えていた。人の気配。生き物の気配がまるでしない。これが神の気配なのか。


「鷹住の神、八百万やおよろずの神々に申し上げ候。ここに久遠寺の血を持つ男子、よわい十八を迎え、神々の声を聞き、神々に通じておつかえ申す」


 父親の声が本殿にまつられている何も描かれていない白い掛軸かけじくに向って朗々と響き渡る。


 掛軸が表装ひょうそうこそすれ白いままなのは、そこに様々な神が呼びだしに応じて姿を表わす為で、言うなれば神の領域に通じる「窓口」だった。


 匠は祖父に与えられたさかきを捧げ持つと、掛軸の下へほうじた。


 久遠寺家の神に通じる力がこの掛軸の中に現れる神を見出し、文字どおり意思を通じさせることができる。匠は真剣な表情で掛軸を見つめた。昨日まで見ることのなかったものが、今日から見えるようになるのだ。抑えようにも抑えられない鼓動が早鐘のように脈打つ。


 匠は父親に促され、頭を垂れたまま杯を高く捧げた。


 神に通じる久遠寺家の一員と認められれば、杯から酒が湧きだす。匠は神経を指先に集中させ、杯に酒が満ちるのを待った。


おもてを上げよ」


 父親が命じると匠は顔をあげ、自分の手にした杯に透明な酒が満たされているのを認めた。


 誰もがほっとしているようだった。続いて、一族の者たちが皆同様に杯を捧げ持った。振舞酒ふるまいざけのようなもので、全員の杯にも酒が満ちるのだ。


 匠は誰もがほっとしたように吐息を漏らし、張りつめていた空気がほころぶぶのを感じた。振り返らずとも、みんなの盃に満々と酒が湧きだしたことが分かった。


 これで万事滞ばんじとどこおりなく匠が久遠寺家の正当な後継者として認められた。誰もがそう思い、安堵していた。後はこれから修行をし心身を鍛えて神に仕えるのみだ、と。これで久遠寺家も安泰だ、と。


 が、次の瞬間、困惑したような何とも言えない情けない声が静寂をぶち破ったかと思うと、つい今の今まで無風であった山の木々がざわめき、篝火は揺れ、ぬるい空気が本殿に吹きこんできた。


 声の主は、末座まつざの暁だった。


「ああああ」


 暁は焦ったような声を漏らし、続いて、独り言のように「やばいやばいやばい……」と繰り返した。


 父親と祖父が腰を浮かせて振り向くと、彼らの顔がみるみる青くなった。


 末座からしとしと、ぽたぽたと水の滴る音がする。匠は堪らなくなって、杯を手にしたまま音のする方を省みた。


 見ると一族が皆、末座の暁を取り囲み、彼らもまた真っ青になって言葉を失っていた。


 暁の手にした杯からとめどなく酒が溢れでて、まるで配管の破れた水道の水漏れのように本殿の床に水たまりを作りつつあった。暁は杯を手にしたまま動くこともできず、着物も袴もびしょ濡れにして、もはや声も出なくなり喘ぐように口をぱくぱくさせるばかりだった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る