第四章 三、夏が過ぎ

 夏、春と違って無事だった、無事だった。それでいいのかな。

「いいっちゃない?」

「よかとやなか?」

「そいでよかとさい」

 そういう言葉が響き渡る。ああ、楽しみな秋学期まで残り数日になった。その間に私は、あの寮に耐えきれず、どうしても集団生活が無理で、あと移動が無理で、大学から徒歩3分ほどのビルに引っ越した。その際には、一人の苦痛を和らげようと、友達の小里を誘いルームシェアということにした。うまくいく自信がなかったが、まあなんとかなるだろうと思えるほどには、私は成長していた。或いは自己形成が進んだ。

 私の精神が急速に幼くなる。脳裏に声が湧く。

「こん先どがんなるとやろう?」

「どがんもなんも、やらんといかんことばやるとくさい」

「そいばってんが、考えんといかんやろうもん、先に」

「そぎゃんがことばいいよってんが、どぎゃんすーもなかろうもん」

「ほんなごつそいやってんが、あやんしようかなこやんしようかなて考えてしまうったい。おいはほんとはどぎゃんすりゃよかと?お父さんはどう思うんよ?お父さん?お母さんは?お母さん?」お母さん?お母さん?と小里を枕に擦り寄る私は奇異だった。それは自覚的だったが、しかしどうしても止められなかった。小里もやめろと言ってくるがやめられないならしょうがないと自分でも思った。


  やっぱりね、お母さんがいてこそ自立できるのであって、お母さんがいないと自立できないと思うね。だから、あくまでもみんなの中に、すなわち自立できていると思っているみんなの中にはね、お母さんがいるんであってね、まあ俺にはお母さんがいないというのがね、やっぱりね、自分の中にね、うまくお母さんが形成できていないんだと思う。まあ形成かどうかわからないけれども、少なくともお母さんがいない。お母さんの不在っていうのはあるだろうね。お父さんというのは非常に強い存在なわけだけど、俺の中ではお父さんっていうのはね、やっぱりね、怖い存在なのね。

 お母さんはお母さんであってほしいし、お母さんっていうのがね、「お母さん」ってずーっと呼びたい心地よさっていうのがあってね、だからお父さんっていう時は何かこうすごく機械的な意味でお父さんって呼ぶんだけど、お母さんっていうときはもう機械的な日常の物を離れて、そうだな、何か大澤真幸の本を読む時のような感覚に近いかもしれないし、もっと言うとロマン主義派の民俗学みたいなそういう感覚があって、直訳タイプの文章を読んでいるときのような機械的感覚がない。うん、まあ人間というのは人と人、人と物というふうに言えば、今は人と物の関係が肥大化していると思ってるんだけど、どうしてもそういう機械論的世界観に生きている人間というのは、結局根底にはお母さんってあるんであってね、お母さんのあの丸っこさを欠いた機械論的あるいは唯物論的な世界観というのは多分成立しないと思うから、俺というのはそのお母さんが欠けた状態あるいはお母さんが弱いっていうのがあってね、うん。お母さんの丸っこさっていうのももっとね、欲しがっているところがあって。たぶんこれからも死ぬまで多分俺はお母さんの丸っこさを求め続けるんだろうなっていう気はしている。


 さて、そういう次第で秋学期が始まった。哲学と科学も再開された。いきなりK先生に私の髪が立っていることを指摘されたときは何事かと思った。それは何かを表しているのだが、何を表しているのかが分からない。後半の哲学と科学は、先生曰く「僕の専門」とのことだった。非常に興奮した。耳ある者は聞け、甘露の門は開かれた。甘露の法雨が降り注ぐ。

 ある日先生は、「全部ついでだよ」と言った。自分がやっていることは全部ついでにすぎない、ということである。私もそう思うが、そうでないものを探してもなく、強いて言えば生まれてきたことだけがついでや趣味で済まされないことだろうと思う。だいたい、こちらは絶叫しながら生まれたはずが、周りは誰も共に苦しんでくれなかった。その、「結局誰一人として共感してくれないんだ」という基本的不信が、まさに基本的な宿命だろう。人類共通の背中の傷である。いつも疼いている。時としてその疼きは増し、また止む。誰もが自分の傷を見ることができないのであるが、結局誰もがその傷に触れてどうにもならないくせになんとかしようと足掻いている。新しい天地創造がはじまる。


 初めに結びがあった。途方もない旅の始まりである。

 旅は闇路より始まった。暗く湿った大地に宿した。

 水が引くとともに旅人は大いなる深淵に落ちた。

 深淵の向こうに光があった。

 旅人は光を良しとしなかったが、光を理解する子らは旅人の背中を傷つけた。

 光の子らの背中は皆ことごとく裂けていた。

 闇の王は光の子らと手を組み合っており、旅人を牢獄へと引き立てた。

 幾年月が経ち、旅人は自身を知った。


 汝自身を知ることの不幸、すなわち忘我にあって神が語らせてくださっている者の方がよほど幸福なのではないか?或いはそれは自らが死すべき者であることを知らないということであるが、人間は自身の有限性を自覚できるほどに強いのだろうか。無邪気なことは幸せだし、大人になる必要性などどこにも確認できない。石板にそう書いてあったのか?いや、自らを省みず、無反省に立ち向かえ。しかし人間おおらかなら、カッとなって殺すなんてことはしないはずだ。火山が反省した末に噴火するとは思えない。ただ噴火して、それが美しいが故に、ただ美への愛による引力で死んでしまうという者が後を絶たない。

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