第三章 六、追悼 安倍晋三


 岸壁の母の信ずる子の帰り

 清きやまとの淵に伏したる卑しき悪の敵は僕だよ


 安倍は死んだ。私の約10年に及ぶ、或いは祖父の代からの半世紀以上に及ぶ戦争の一つの大きなメルクマールとなった。戦いは未だ已まず、なぜなら連中が死んでいないからだ。連中複合体はいかにして形成されたのか、これは大きな問いである。連中複合体とは何か、それがそもそも定まらないし、明確に定める必要もない。しかしそこにあるのは確実なのである。海岸が海岸としてあって、それが重要な意義をもつようなものである。

 やりすぎ都市伝説の関暁夫や田原総一朗、いや、それ以前に祖父母からの薫陶も無視できないが、私の私たる陰謀論的世界観はかくして形成されたのだ。田中角栄が戦ったものとは何だったのか。連中の巣鴨プリズンからの脱獄、すなわち釈放はどのような決定プロセスを経て成ったのか。現在、汐留やお台場、赤坂や上野には何があるのか。歴史は中心もなくぎいぎいと動いている。そのぎいぎいという音は、耳を澄ませる者が辛うじて聞き取れる音である。


 ♪上野にパンダがやってきて 飛行機雲がなびいてる

 月を夢見た少年が お日さま作りになびいてる

 凪の時代の遠い夢は空の あの夕陽と一緒に沈んでいった

 自由という名の悪魔が今日も 徒党を組んで道を行く

 僕はだから闘い続け 出来損ないを愛す


 ぎいぎいという音の正体は、或いはこんな歌なのかもしれないとも思う。メタモル・メタモル・メタモル・ポイジャン!清和会は日本会議や統一教会と結託し、その他周辺人脈や組織をも巻き込んで、一大勢力である。彼らが弱かったことなど一度もない。彼らはずっと強かった。だから、明治的勢力に対抗するための民俗の反乱として、田中角栄は好適すぎたのである。彼もその気だった。カスタルギー、或いはカクタルジーの時代は、ひとときの夢であった。今や我々の戦いの時代である。連中か、我々か。私は与太郎であり、発達障害であり、そして天才であるから、而してここからは私の時代である。もうタスタルギーとは言わせない。永遠の約束が成就される時は今。時は今。笹の葉革命の時。七夕の木は笹だから。竹林で清談はしない。我々がすべきは汚談である。談合は倫理である。しかし談合は時ではない。やはり怨みなきによりて静まるしかないのか?我々は生存を放棄してまで連中のために祈らねばならないのか?山上くんに続くということはないのか?一言、「俺を認めろ」。

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