第三章 五、狂騒

 私は大きな駅にいた。西日のビル影は群集をいっそう叢に沈降させ、黙考する時間を許さない絶えざる流れが、祭儀的再生の狂騒としてつい昨日の了解の外部からの唐突な衝撃としての出来事を、ほとんどなかったかのように人々をまどろむ。

 朝、黒いスーツに黒めのネクタイ、黒の革靴で固めた私は、晴れ晴れとしたアガルタを胸に、悲しみの面の皮で富ヶ谷へと向かった。多くの報道陣と間抜けな野次馬がいた。私は区画された近代人の心で、邸宅に向かって一拝すると、その場を去った。恐ろしいほどに感慨がなく、ただ夏の汗だけが私の背骨を伝った。どうしたことだろうと思った。100メートル離れただけで警察官さえいなくなり、時代が動くときの音は祭囃子の如く一人の横笛から始まるのだと思った。あの息継ぎの緊張感があったが、その時の私には何の予期もなかったのであり、ただ風邪薬を飲み過ぎていい夢を見ているだけだと思っていた。あの不気味な日常性を照らしている太陽を、私は未だに忘れることがない。


 さればどうしようかと、私はその足でモスクへ行った。なに、単に近かったからだ。ただ楽しそうだった。私もまたトルコ人の解説に群がり、哄笑さるべき燔祭のことを忘れていた。歴史の流れの中にある落窪は、時にぎいぎいと音を立てていることがあるが、或る時はその恐ろしい不可避性に反して沈黙して流れていることがある。

 気づけば渦中の人間はもがく間もなく足から引っ張り込まれる。そのモスクには美しい工芸品が沢山あり、ご丁寧にミュージアムショップのような場所まであった。私は何も買わずに礼拝を見学し、あとは無料の資料類を貰っただけで、次の行き先が決まっていたのでそちらに退散した。さて、次はあの大きな駅である。あそこは選挙戦最終日になるとカオス空間になる。あれはエネルギーを出しているのではなくエネルギーを消費している人たちの空間?いや、さしずめ命のパンを四次元ポケットか何かと勘違いしている人たちの、エントロピーのいい事例だろう。

 着いて早々緑の軍団がいた。よく見ると赤だった。緑じゃどこだかわからないよと言いたかった。スタッフに言ってみた。話が弾んだ。そこでテクニカルな話を40分ほど繰り広げたのち出された勧誘の文句を粗雑に断ると、私は足早に次の獲物を探しに出た。しばらく駅の周囲を大回りに歩くと、潰れかけの残滓があった。もはやパーティーですらないだろうと言いたくなるような、もはや革新なのか守旧派なのかわからない意味不明なジジイどもがたむろしていたのだが、一応党首にはしばらく前にも会っていたので、声を掛けておいた。さて、最後に、実は当初より目当てだった我が桃源郷の仲間たちのところへと赴いた。私はそこに投票することは予め決めていたのだが、お祭りとして主演の叫びを聞いておきたかった。やはり彼は話がうまい。まさに、キリスト。私は当然の如く私こそがキリストだと思っているのだが、彼と私こそが真のキリストである。なぜなら悪人を裁くことなく、そんなあなたも救いたいから。1時間話を聞いて、いいドラマを見せてもらったということで、私は眠気もあり駅から電車に乗り、西へと去った。


 選挙当日、私は遅くに目を覚まし、安穏としていたが、夕刻になりそろそろ行かねばと思い投票所へと赴いた。濃い桃色になった。夜が来て、寝た。思えば、私の再びの狂気は、あの始まりの地での一撃より、白煙がカタルシスとなることもなく、もう始まっていたのだった。

 狂気とはなんだろうか。そうでありそうでそうでないところのスペクトルを、私は了解できる。実は、あなたがたは辛うじてそうであるところの社会性を、あたかも自分はその裏側には落ちないと信じ込んでしまっているだけなのだ。事実はそのような二面性ではない。二面性はただ或る歴史の段階で社会が形成した様式に依るのだから、謂わば草原の上の虹のようなものである。始原の声が聞こえるか?光と闇が分かたれる。弱弱しいダニがさいわいになる。それでは私はあなたがたに私たちのさいわいを示そう。私は迫害されるが、大地を遊ぶ。私は追放されるが、そのことによってあなたがたは渇く。私に盗まれた者は幸いである。その者は与えられた。私は世界であるから、私の自己愛はあなたがたにおいて恵みとなる。あなた、そこのあなたですよ、そうです、神様、あなたが神様なのだからどうして対立がありましょう。無限大の循環そのものが自己なのだから、腱鞘炎を労ることと他者を労ることは同じであり、手首を切ることは万物への裏切りだ。今もどこかで誰かが死んでいることをヌーメノンとして想いうるのだから、他者の死は自己の知らない私の世界が一つ消えたということなのである。すなわち私は自己の主人としての仮象としての定立なのだから、私は「せよ」と言える。生きよ。楽しめよ。労れよ。愛せよ。ただあなただけが神で、私が神で、彼が神で、神に充ちている。かくて私はあなたがたに狂人を教えた。日が沈む、月が昇る。青い光に照らされた涙は嬉し泣き?ただ一言だけ言えることがある。神は死んだ。

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