第三章 二、経験

発達障害 神経症 敏感感応性

 こんなセンセーショナルなワードが、その日遅れて教室に入った私の目に飛び込んできた。おまけに、発達障害の横に「(個性)」と板書してある。なんなんだ、これは。月曜二限のK先生の講義は、いつにもまして気合いが入っていた。いつも十分は遅刻してくる先生が定刻通りに授業を開始しているのがその証拠だ。根拠だ。途中から聞き始める。冷静に考えると、遅れるも何も潜りの私が遅れるというのも変な話なのだが。

「神経症は数学やりゃいいんですよ」

 そりゃないよと思ったが、先生は大真面目である。しかし、私は先生に対する確定的な信頼があったので、さほど疑うことはなかった。そうして「哲学と科学」の本題に入っていく。

「デカルトは千年に一人だね」

 今日はデカルトらしい。

「それでね、“哲学は経験のしかたを身につけるものだから言葉なんて一切覚えなくていい!”」

 断言された。

 確かデカルトの『方法序説』は一六三七年だったなあなどと“言葉で”“配置を”思い出しながら聴講していると、

「方法は極限までやるの」

 と、先生が仰った。詰まるところ、デカルトの方法的懐疑を事例にとり、そのようにして何らかの“方法”を実践する際は極限までやること、だそうだ。更に、「方法的懐疑は一生に一度だけしかやっちゃいけない」とも言われた。これは何遍も何遍も散発的懐疑を繰り返す私に対するエールであると、私として「解釈」した。更に先生は、「コギト命題は出発点であり拠点などでは全くない」と言われた。これまであらゆる懐疑論への反駁の点としての根拠だと考えていた私にとってそれは、じわりじわりと効いてくる衝撃だった。

 実際に『方法序説』第3部を読んでみると、それは極めて思弁的で、現代の一般的唯物論に身慣れている我々にしてみると到底受け入れがたいものなのであるが、当人の議論の文脈だけが事の要点なのではないし、また、現在という地点も結果でありかつ結果でさえないのだが、この場合においては進行のさなかの刹那にすぎないとしか言えない。故に我々はただ人類1000年の歩みの只中の一個体として―しかしそれは時間と空間の座標を占める一つの実体としてのゼンマイとして―秒速30万のラクダに乗って瑠璃色の御来迎を拝もうではないか―飢えたる者たちと魔女たちとの合同宴会―。しかしラクダに乗る者も、生まれてこない方がよかったのか?いや、たった今、あなたは救われた。

 サークル活動が終わり、秋兎とエスカレーターを昇りながらふと言ってみた。

「秋兎の地元の、そう角栄。角栄が総理に就任したのって丁度50年前なんだよね」

 この情景をやたらに覚えており、恐らくそれを私は一生忘れることがない。そして別れ、夜道を歩きながら考える。明治大正の頃の学生は、好んでデカンショデカンショと言っていたという。デカルト-カント-ショーペンハウエルで「デカンショ」であるとするのだそうだが、まあ、デカンショ読んで半年暮らして、残りの半年を寝て暮らすとは優雅なものだ。ところで授業では自己認識と自己意識の違いが概説された。自己意識を示された際に、先生は黒板に白のチョークで丸い点を描き、「ここ見ててねここ」と言われ、そこへ向けて下の方から矢印を引かれた。そして、「ここ見つつこれを見るを見る」と言われた。言わんとしていることはわかったし、いつもやっていることだ。しかし後に恐ろしいことが判明するのだが、実はこの「見ているを見る」ができない、或いはできていることに気付けない?人が多いようなのだ。意味が分からない。私はおよそ常に自分の顔が見えているので、当然ながら三重にも四重にもそれができるのであるが、事はそう一般的ではないようである。そりゃ神経症にもならないよと思うのだが、彼らも彼らでなにやら大変そうである。化学物質の線に従って集合としてパンを運ぶアリのような大変さが見受けられる。

 そもそも、<汝自身を知れ><我惟う故に我有り>などという古い訳が更新されずにまかり通っているから様々な困難や誤解を生むのだ。「君自らを知りなさい」「私は思考してある」でいい。而して私は、かえってぐっと目を鍛えるために、パリからマッサリアへ、マッサリアからポカイアへと進軍しようとするのである。我のものも、我らがものもない、あの大道へと。そこには井田もない、もちろん「このぶどうは私の成果で、1デナリオンは報酬だ」と言って互いが諍ることもない。―いや、駄目だ。―想像してごらん?僕のことを夢想家と言うだろう。だけど僕は一人じゃない。―陳腐だ、陳腐だ。―こんなことを言っていると皮肉にも俺の死体は首の骨一本で繋がっているような事態にもなりかねない。いや、逆に虐げられた者たちの連帯できない連帯が壺を割る力になる?私の精一杯の聖使命は、観音の大悲は、せめて森の友だち、神の子らを自由にすることだけだろう。なぜなら私だけが人の子だからである。だから、せめて自分を大切にして生きてくれ、全ての悪意を背負って死んでいくのは俺だけで十分だ。俺だけ、俺だけのこの穢れきった聖なる酒が渇くとき、宴もたけなわである。おお、こんなことを考えてしまう私!これは早急に去勢されなければならない。先頭の山羊?ほら、またこんなことを言い始める。きっと、そうか。私が「エッケホモ」と言い出す日も、いや、否、否…、とうに来ている。―私の言うことがおわかりだろうか―

 西洋の皮肉の一片を垣間見せよう。キュロス二世はヘブライにおけるメシアだが、アケメネス朝ペルシアはペルシア戦争を始めた。その報復としてのちにアレクサンドロスがアケメネス朝を滅ぼし、結果的にヘレニズム文化が西アジアに拡散したのであるが、その後イスラエルは辛酸を舐めることになる。そこからローマの侵攻に至り…

            そして、或る歴史が始まった。

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