第三章 陰謀論的、改造的―安倍晋三について― 一、半世紀

「山の神さん田の角さんの恩を感じて生きてきたのが土着的日本人だ」というのは私の持論であるが、それは畢竟安穏とした風土、風土が生み出した集団の一つの精神形態である。

 私は「やむなさ」の情緒、のようなものを持っている。耽美とか抒情と言ってしまうと、よそよそしくなってしまうから。私は情緒と言いたい。蓋然的に私は、「魂の精神」があって、自我が自由意志で、というようなものではないことを、多分前近代の日本人は体感的に知っていたし、観念もまたそうであった、と思っている。それはおそらく仏教―神仏習合―があったからだろう。我であるアートマンの不滅を信じるインドの只中にあって、仏陀は無我を獅子吼した。照りつく太陽のもと、鷲の霊峰で、蛇の脱皮を獅子吼した。その絶唱は雪の蔵を超え死の大地を超えて、さらには荒海をも超えてこの日本の地にても共鳴し、偉大なる祖師たちを惑わせた。

 そこで言うと、私の通う大学の祖師は真宗系のいけすかない才人である。だから嫌いなのだ。私のような者は概して神経症になる素質を持って生まれてくるのであって、なればこそかえってロマンチシズムに没入したい者であるから、本来このような大学を選ぶべきではないのだが、何の気まぐれか入ってみたら妖しくも艶やかな悪党のような先生もいるものである。K先生はどのような人物なのだろう?それが知りたくて、今日も研究室に通う。

「おう元気か?」

 最近エートスになり始めた挨拶を、先生が私に掛ける。

「いえいえ無辜の元気さですよ」

そうしていつものように煙草をふかし、話が始まる。それなりに話したところで、ひとつ話題を振ってみた。

「先生は、日本の歴代の政治家の中で誰が一番能力高かったと思いますか?」

 先生は、斜め上を見上げて話された。

「一番か、一番は、田中角栄だろうね。あれは誰も真似できない。」

 予想通りかつ月並みの答えに、かえって拍子抜けしてしまったのだが、続けさせた。

「あとは安倍晋三!あれは人を掴む能力で言えば凄いよ。だってそこらへんのしょうもない大学の出でしょ?それであれだけ人に好かれるんだからね。」

 この後安倍晋三を褒め称える話が延々と続き、非常に悲しくなってしまった。K先生って、この程度の人間だったの?そう思わざるを得なかった。というのは、人様の出身大学をとやかく言うその含みある皮肉が気に食わなかったからだ。言うまい。

「先生は1971年に上京されましたよね?」

「72年!」

「72年と言ったらまさに角栄の年じゃないですか。あと、諸々の騒乱が終わっていて。そこについてはどう思われます?」

 一服される。

「色々あった頃だったからね、もっと何か楽しいことないかなあと思って来たんだけどね」

「そうですか…。この大学は体制派ですよね」

「そうだよ」

 思い立ったので、あることを聞いてみることにした。

「そういえば、全共闘の議長に山本さんというのがいたじゃないですか。あの方についてはどう評価されてます?書評も書いてましたよね」

 先生は、私の方を一瞥して、再び向こうを向いて、話された。

「山本君はよく勉強してるよ。けどね、大学に居られない人になったから予備校で教えてて、だから都立図書館を使って書いてるのね」

「有名な予備校で物理をなさってるじゃないですか」

「そうそう、だからここは図書館が充実してて環境がいいんだよ」

 こんな話だった。


 研究室を出て図書館で過ごした後、サークルメンバーとともに近くの公園へ歩くさなかにふと思い返して考えていた。水は低きに流れ、人は高きに集まる。この言葉を思い出していた。田中角栄の『日本列島改造論』の冒頭の言葉である。私も一句。最高学府は世に不二も、我らの山はその辺に、蚊が湧くほどに吐くゲロだ。大道廃れて仁義有り、仁義廃れて欲望(のぞみ)あり。欲望廃れてどこへ行く。行かないか。行くこともなく何をする。トランジスタの商人よ、セントヘレナに日は沈む。

 たそがれる日本を見ていると、戦争を知らない老人たちを知らない若者が生まれようとしているのだから、もはや我々の行く道は限りなく短いように思えるのだ。豊かさの隘路に死のうとしているのだが、一緒に歩く人もいらないのでもはやお終いの人間である。そこで父親の正嫡の長子のみが権限を振るうような家父長制に戻せばいいという議論も当然出てくるのであるが、行ったとして成功しないだろう。せいぜいその豊かさの隘路で揉み合って剣がもたらされるだけだ。かといって広大な草原の論理をこの狭い道に持ち込むわけにはいかない。本当にこの国の田舎は、無駄に整備された道ばかりだ。どこを見渡しても道道々という平原とは違う論理で動かねばならない。とすると、やはり紅葉の下山道を、一歩一歩踏みしめて歩くなかに、せめていい絶景はないかと期待を胸に秘めて歩いていくしかないのだろう。それこそがきれいな夕陽の輝く小道なのだろう。

「着きましたね」

 秋兎が言う。

「ここ、いいとこだよ」

 私が言う。もう一人付いてきている後輩も合わせて3人だ。なにせ、図書館から出た後、部室で話していたら美の話で盛り上がったので、そのまま夜の公園へ繰り出したわけだ。街灯で薄明るく、しかし他に人がいない公園は、絶好のスポットだった。そういう場所を人に教えるのは惜しい気もするが、私は惜しみつつも分かち合いたい気持ちが勝つのである。私が声を出す。

「さっきの話の続きだけど、やっぱり、言葉は変だけど、人に共通する感覚という意味でコモンセンスってあるはずなんだよ、やっぱり」

 秋兎が応えて言う。

「つまりさっきの話の続きから言うと美は外在しないということだよね?」

「そう考えてるね。なにか「美」そのものが「美」として、或いは「美」の要素を備えて、という意味であっても、そういう「かたち」でかたちとしてね、あるんじゃなくて、辛うじてあるところのコモンセンスが特定の対象に「美」を感じるだけだと思うよ」

 自分でも言ってることが少しおかしいと思ったところ、後輩が突っついてくる。

「しかしその任意の対象に美を見出せるんだとしたら、それが感じられるだけだとしても、コモンセンスとしての美があるわけで、だったら何かしらの「美」を備えた対象が実在するということになりませんか?」

「いや、それは対象物の属性ではないものに無理をかけて、主観の美的感覚を対象物に投影してその属性が美だと言い張っているだけで、それは美の外在には繋がらないよ。でも俺の試みというのはそのことじゃなくてね、むしろ美が非外在的でありながらも普遍妥当するということに力点を置きたいんだ」

「ということは先輩は客体性を欠いた実在性を証明したいわけですね?」

「より正確に言うと、客体や実在ではなくて、普遍性だね。だから困ってるんだけど、そこでの活路としてコモンセンスを取り上げてるんだ」

「わかりました」

 私と後輩は2個のブランコに腰掛けてこんな話をした。ほどよい気温の夜だった。秋兎そっちのけで話していることに気付いたので、話を少し向けてみる。

「秋兎は創作者として美についてどう思う?」

「やっぱり、何か、そうだな、共通の美的感覚があれば、それは美の実在と言っていいようにも思うけど、どうなんだろう?」

「実在とは言えないと思うね。例えば全ての人が必然的に神の観念を持っている、持たざるを得ない世界だからって、それって神が実在するのかな?」

「ああ、確かにそうだね」

「でも、創作ってかなりの面白さがあると思っててね…。政治家より作家、つまり創作者の方が強いと思うんだ」

「と、言うのは」

「政治家は現在の人を殺せるが、創作者は未来の人をも殺せる」

 私はある事象を念頭に、この言葉を脳内で赤く赤く温めて、青に照らされた公園の、黄の半円で囲まれた円陣に放ったのである。沈黙がその場を支配した。しばらく話して解散した。時刻は十二時になるところだった。

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