第二章 四、晩酌
蝉はいい。生まれたままに大地の胎に籠る幼虫もよし、熱い風をなお熱するあのジリジリと鳴く成虫もよし、空蝉はなおいい。私は夏こそが一番好きな季節だ。夏。あの全てのポテンシャルが最高度に引き上げられる夏が好きだ。しかし、夏は「去る」季節だ。秋は色み深まり、冬は寒波襲来、春は春めく。しかし、夏は、その前において「来る」と言われ、延長のないゆったりとしたひとときの絶頂ののち、もう気づいた時には去っている。だから、夏は追憶の中で輝く盛りである。私はそんな夏が大好きだ。
すっかり蝉が鳴かなくなって、夏の初めあれだけうるさかった鳴き声も、今は恋しい。
この八方塞がりに思える今も、遠くの蝉の声に心を傾けるように、いつかは懐かしみ感慨に耽る時がやって来るのだろうか。
窓の外を見やる。
橙色の空が窓の水滴を煌めかせる。
今日は山へスケッチをしに行こうと前日から決めていたが、雨が降り雷も鳴っていたので行けなかった。
雨がやみ、陽光が差し込んできたときにはもう夕方であった。
ふと窓の横の棚に立てられた皿に目が行く。
知人に貰った海外旅行のお土産だ。
あれだけ熱心に人生のステージを高めることを説いていた彼は、肺を患って以降メール一つ来ないけれど、農村の実家では元気にやっているだろうか。
窓の外でカラスが帰っていく。
腹が減ったので、飯を食うことにした。
こんな詩を書いてみた。過ぎ去る波間に書いてみた。感慨に耽りながら書いた。蝉の声はとうに過ぎ去っていたが、窓のない部屋のひとときに、たじろぐようにかがみこんで書いたのだが、しかし私の耳は蝉に犯されていた。漠然たる私が何かを書き始めようとする、その序曲であったのだ。これは抒情的であるが、出来はあまりよいものではないだろう。
毎日のように農道を歩き、男根を顕示した、あの夏から季節が二回転した。私は神経症での通院以外、外に出なくなっていた、或いは、出られなくなっていた。梅雨の床屋で突如として動悸とともに脳の部分に直接感じられる死の現前とわけのわからない呼吸苦が私にありありとした青斑核の恐怖をもたらし、私はありとあらゆる身体と精神の疾患に怯え、また、その解消のためにこそ基礎として認識をしようと必死に諸疾患を調べ続ける。昼も夜もない。
これに対しても私は様々な対策を考えている。全ては脳で考える。私は膨大なメモを残していて、しかもそれを生きた記録として残している。神経症への完全なる主知的救済を願っているのだ。しかもそれは自ら為されなければならないことなのだ。そして私は、それ以前からの基礎付け主義的認識論への羨望と交わり、極めて深刻な病態を招いてしまった。
適宜判断メモ
恐怖を恐怖することについて・・・
・何らかの恐怖を想定し、それについて思考し、避けたいと思う。…適切(自己の指針において)。
・何らかの恐怖を想定し、それについて思考し、恐怖感情を惹起する。…不適切。
私は精神論者でも唯心論者でもなく、独断的・暫定的信念として唯物論者である。
それでも自由意志については特に明確な判断を有しているわけではないが、とりあえず以前どこかに書いたとおりである(最近は自由意志についてあまり意識していない)。
独断を避けよ、誠実な認識においては独断を避けよ。
だからこそあの認識の三分を活用するのだ。(※認識の三分とは、第一認識(純粋な認識論を想定)、第二認識(学問的認識を想定)、第三認識(現に生きている自己の行う実践的認識の方法を想定)のことである。)
歯磨き工夫論・・・根性論の否定と工夫論の採用(※これまで歯磨きをしてこなかった自分が歯磨きを毎日するようになったのが、2階(私の生活空間)の流しに歯ブラシとコップを常備するようになったことからであることを指している。)
何に問題意識を抱いているのかを明瞭にして、適切に思考せよ、適切に行動せよ、惑わされることなかれ。
徒に怖がることは適切ではない。
理性は常に適切であれ。
著しく悪い方に考えるな
刺激くらいはいいじゃないか
装共感・装親切心
確率判断×状況判断
計画を行う際の陰性感情は不毛であるということは云うまでもなく、確定事態へのそれもまた同じ。
飛び跳ねて床が抜けると恐れるかは
頭痛持ちが頭痛から死を恐れるのと同じ。
よく言っておくが、フレーム問題のタラちゃん。(※タラちゃんとは、マネーの虎で堀之内氏が発言したタラちゃんに由来し、ここでは自分の不安障害による杞憂を指しているのである。)
このような精神状態の中で私が編み出した最大の着想は「主感指針」という、今更言葉を編み出すまでもない、愚にもつかない考え方である。これは、「自らの感覚と感情、すなわち全ての感覚、とくに苦痛に配慮して日常の諸判断を決定し、その決定は全人生を思慮したものでなければならない」という指針である。
私は主感指針にのみ従おうとしているのか?否である。
わざわざ指針と称した理由もここにあったと記憶している。
「でも痛いの嫌じゃん」という切実な希望から要請されたものである。
主感指針の経緯(明確な記憶に基づくものではない)
よく「現実」という単語に触れていたが、どうもその「現実」という語義が「事実」という単語とは異なっているということを、或いはそう思っていることをいつ頃からか自覚しはじめた。
そこで考えた結果出てきたのが、「通俗現実」という概念である。
私は「事実」と「通俗現実」を分けた。
この「通俗現実」がのちに「主感」となってくるのであるが、すなわち、この時点ではまだ他者の使用する言葉を自分なりに理解しようとした結果の造語に過ぎなかった。
その後、この「通俗現実」を「便宜現実」とした。
この時点に、この概念が私の指針と化す歩みが見られるように思う。
通俗を便宜に変更したところにそれを見る。
というのは、通俗という単語と便宜という単語の違い、また変更を思考した私があるからだ。
「通俗現実」←受動的態度、理解しようとして生み出された単語としての性格があるように思う。
「便宜現実」←便宜という単語を使用しているところ、より重要なのはわざわざ通俗から便宜へと変更したことが、それを受容する態度を表しているように思う。
この便宜現実が現在の主感指針に至っているのだが、どうやら私はその際に概念の変更を行っている。
未来に在るこの私は、このような倒錯した当時の自分の思索を見るにつけ、なんともまあ倒錯した自己正当化の病理の中で、しかし誠実に思索しようとしていたものだと感心してしまう。さらにそこから進んで美しさ、心地よさへと進展する契機も明らかにみられる。
人事を尽して天運に任す
なるようになる ならぬようにはならぬ
いつかはただ散りゆく
それが真の定めならば永遠の苦は有り得ず
そうなのである。我々は明日死ぬのである。今日の日を摘め。食べ、飲み、踊ろうではないか。過去と未来に生きる清らかな奴隷は我々に怨恨を抱き、栄光の中に勝利するようだが、よいではないか、我々は明日死ぬのだから。そうだ、俺を見るな!いつも見守っていてね。この交錯する心性は、常に何か大いなるまなざしの中から私を見張っていて、今を生きることを許してくれない。私が赦す如くに我をも赦したまえ。俺は俺の中に巣食うお前を殺す。お前は俺を救うと言うが、俺はお前を俺の胸から引き摺り出して大人のおもちゃにしてやろう。どうだ!参ったか!
口唇からの虚しい声は、ただ天井にこだまする。飯を食うついでに、用を足しに部屋を出る。またまたままならないものだ。無人島で救う神は、無人島でも巣食う神であるのだ。
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