第二章 二、無為法

 私は焦っていた。山腹で日が傾いているのだ。山頂の台地状になった場所で戯れすぎた。「まあ、でもいいや。死にはしない死にはしない。」微笑で呟く。風は冷たく、人影はない。空は落葉樹の蔭に隠れて見えず、色もわからない。この世界をなんと形容しよう。すなわち、空もなく、色もない、このやまべりを…。しかし、明確に安心感があった。それはこの私のいる場所が、街から見ればただ黒の緑に覆われていて、私の吐息と赤い血が隠れて彼らが知る由もないということからくる、云わば胎児の安心感だった。それが私の大きな願望だったのであって、きっと、戦乱のさなか洞窟の向こうに桃源郷を見た彼もそんな傷を抱えていたのだろう。だから、そんな私たちはきっとどこかへ帰りたいのだ。わかるだろう。不思議な感覚に浮かされて山間の村に立っていて、たまらず歩き出すと脇の畑や家の土間から人が出てきて一言言うのだ。「おかえり」。その瞬間、懐かしさが噴き出すように込み上げてきて、やっと、帰ってきた…。そんな望み願いがわかるだろう?流れ想って生きるのもいいが、そうではなくて私たちはとにかく「帰りたい」のだ。休日になると度々頭の中で読み上げる歌がある。「引きこもり、部屋にいるのに「帰りたい」」。

 そんなことを考えながらも自然に足は動いていて、気づけばもう木々の間から見える麓の民家は間近だった。安心して、今日の山路を振り返る。


 日がとうに南中を過ぎた頃、私はようやく登山道の入り口に足を踏み入れつつあった。歩くということは、思考を活性化させる。考えながら登り続けている。いつも考えている。歩く、とはどういうことだろう?話によれば未だ来ない人は来ていないし、已に来てしまった人は来ていない。今来つつある人も来ていないし、極限において今において来るということはあり得ない。はて、どう考えればいいのやら?ならば私はこう考えよう。私は登山道に来続けているのだと。辛うじて来続けているのだと。未だ来なかり続けるところに向かって過ぎ去り続けるところから来続けているのだ。こんなことを考えている時点でどこにも向かっていないし、来ていない。ただ一言。逝っちゃってます。

 といわけで、湧き水ポイントだ、飲もう。石の間から湧くその水は、別段おいしいわけでもない。湧き水がおいしいなどというのは場所を選ぶだけの誤謬である。ただ、湧き水を飲むタイミングが私に水のおいしさを現われさせるだけだ。そうすると、やっぱり湧き水はおいしいのか?…山頂の空間の一部には神社があるので、登山道の最終段階には何本もの鳥居があり、よく整備されている。私はのっぺらぼうのような笑顔で無邪気に山頂だあ、とスパートをかける。ああ、眼下の街を見下ろす私と空が一体となった光が清々しい。せっかくだから逍遥していこう。


 花が麗しいのは、偶然そうなったからだ。決して、実利的に種子を運ぼうなどという計らいではない。ゆえに花は麗しい。なんのわだかまりもなく花に恋できる。しかし最近の花は裏切るらしい。なに、実証済みだ。これは素敵な花だと思って眺めていたら、なんのことはない、すぐ隣に試行錯誤の品種改良の成果だと書いてあった。そんな試行錯誤ならいらない。あなたたちはより実りあるおいしい穀物を作ることに勤しんでいなさい。どうか私の景色のほつれを広げないでくれ。そんなことを考想しながら、私の眼球は徐々に赤く巨きくなってゆく。湖色した風が吹くころの冷気が樹々の合間を歩んでいる。私はまたひとつ帰るべき、ではない、帰ってもいい場所を見つけた。今こそ本当の歓喜の歌を歌いたい。上にはただ空だけ、海の方を遠く遠く眺めても、どこにも線は見当たらない。あるとすれば、大地の水平だけで、それはどこまでも私の小ささを実感させたのだが、いくら小さくてももはや私は、まもなくやってくるずっと先の永遠で一番大きくなる、などという倒錯は抱かない。ただ空だけ。いくつの空?空は一つしかないから。それは、空の空のみ。

 私はこの、丸く可憐な花とこそ、愛の賛歌を歌いたい。誰にでもなく花にでもない。ただ、この花と一緒に歌うのだ。そう思いつつ、心はもう歌っているのだ。そのハーモニーは決して宇宙と交歓しないし、他のどの花とも取り換えなんてきかない。それは私が交換できないように。語ることはどこまでもどこまでも自由なんだと思う。語ることを貫く秩序に目覚めたって、詩人の詩歌はいつだって目の前の花の虫食いに揺らぎ揺らぐ。私たちはそれほどまでの可能性をどこかに忘れてきたんだ。その永遠に延長された隠蔽はもはや取り戻すことができない。永遠という一瞬は、しかしもう戻らない一瞬であるから。切ないだろうか、しかしその刹那に私が作られている。そのように、辛うじて継起的に持続する自己形成が、忘却した可能性を一瞬の―永遠の―未来にこそ再び思い起こそうとするんだ。


 さて、自然な私は自然な花とただ遊んだし、満ち足りた。早めに、といってももう遅いが、下山しよう。夜の山は怖いからな。そうして私は下山を開始したのである。

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