第二章 見えなくなってしまった過去と孤独の神話 一、望郷

 平野の縁の岡の下、緑深かれ山の村。緑陰のその上の曇天の中に光芒があった。私は散歩の中これまでの歩みを想っていた。……


 私は、いや僕は、過去を追憶するときに、そのさなかにあったことを靄のように思い起こすその時に、いつも幼稚園のふじ組の部屋の隅っこで体育座りをしている自分をみつける。それはきっと、この自分が自分の顔を見ている時の顔のように、実際にそこにあったものではない或るものであるのだろうが、しかし知覚が遅れを必然的に伴うならば、僕の世界はいつも再編された想起のただなかに漂ういわゆるひとつの明晰夢であって、であるならば生きるとは神話を生きることに他ならないのではないかとさえ思う。偽装された夢は捏造された傷との類似関係にあるが、それはまた隠蔽されてしまった起源の言語化に及ぶのではないか。つまり、みえなくなってしまった過去である。今という土壌はいつか対流に飲み込まれてドロドロに溶かされてしまう。 

 土にすぎない僕は土に還るのだが、その土が消えてなくなってしまう。新たな土が地表を覆う。僕は僕がいたことさえ消えてなくなる。しかし、だからこそ、この加速度的に膨張する宇宙の、ひとかけの銀河の片隅でぐるぐるぐるぐる回りながら回っている大地で、偶然に出会われた人たちとの、そのかけがえなくも人が夢を見るような一刹那を、せめてそうであるならば熱烈な微笑みのなかでこそ酔いどれたいのである。そのような夢を生きる僕にとって、想起とは未来に向かってあるのか、と私は考える。


 私はたそがれる田んぼが好きだ。青い緑に日か陰り、空には烏が群らぎ飛ぶ。川は空の西から東に色味を変えていく模様を映している。そんな田の中の道路の角を曲がりながら心は空に閉ざされる。(君は愉快か?やっぱり悲しいか?泣きたくなっているだろう。我慢したまえ。「耐えよ、控えよ」である。)どこまでもその胸を開いた空は、やはり底に広がる大地の数メートル上を早足で歩く私を、その優しい冷たさをもって撫でてくれる。空がみんなの空であるようにあるけれども、その胸に抱かれた私たちのそれぞれは一人一人違う色をしている。しかしそれぞれ違う色の私たちが、また果てしなく回転する空の一部でぐるぐる回っているんだ。

 私は自然に遊んでいた頃の川の声が好きだった。負う荷物などなかったから、ただそよぐ風に踊る木の葉のざわめきを聴いていた。凪の時代、と言ったらよそよそしいか。凪いでいた。農道に帆を掛けて歩いて夕陽を見て故郷を高みから望んだあの頃に戻ってみる…。


 今日は晴れだ。外へ行こう。酒でも飲んで図書館へ行って本を読んで、それから郊外を道としようか。はじまりの道、ではなく、私が歩いたところが道になるんだ。まずは何を読もうかな。今日の気分は縄文時代、黒曜石のひたむきさ、土に彫られたanalogy。空なんていつ落ちてくるかわからないし、大地はいつ割れるのかわからない。だって、近道の公園を歩いていて不発弾を踏み抜かない保証なんてどこにもない。でも私は外に出る。外が、街が、山が、川が、あの景色が、好きだから。自然って呼んじゃうと、慇懃無礼になって風が逃げていってしまう。私の風は私だけのものなんだ。朝の田んぼの野焼きの匂いが好きだ。でも、こんな時間になってしまうともう野焼きは終わっている。その情緒に自分で葛藤する。結局、百姓が藁もゴミも一緒くたに燃やす野焼き、それを楽しんでいるこの私というのは、糞の混じった泥に足を突っ込まなくてもいいからだ。実は浸っているようでただの祭儀の見物人であるのは私であるのだ。そんなことは百も千も承知だ。しかし、ああ、ここにこうして無為にいることへの無為なる空への望みはどこまでも私の奥底から湧き上がる熱水のように私自身をのぼせさせるくらいの効能はある。だから今日も私は、一切が過ぎ逝く中を生き抜く。果てしない内奥と狭苦しいすべてのすべてが、私と呼ばれる現象という延長のない一点において結ばれて、大いなる解放へと飛躍する。空は広い。地の肩幅は広く、私はその巨人の上に立って世界を観望する。


 私は夢想の中、気づけば郊外の農道を歩いていた。川は水底透けて、空は雲近し。

 青苗は転べば手が届き、赤い瓦は細やかに映える。世界とはこれほどのものなのだ。シュヴァルツヴァルトの霧がファンタジーを描き立てたように、この田中の道も十篇の歌くらいは詠んでくれてもよいだろうに、万事はままならないものである。しばらく歩くと、民家の立ち並ぶ麓があった。だいたい田舎の赤瓦の家々はこうした山の麓に横に並んでいるものだ。卍のくり抜かれた蔵があるではないか。中に仏さんがいるんだなと、手を合わせる。森閑とした肝に去来するのは、ただ天高い鳥の鳴き声のみ。うわばみがいた。これはどうするか。いや、避けない、真ん中を通ることとしようと、そのようにした。私はお前さんたちを恐れないようにするから、どうかお前さんも私を恐れないでくれ。川沿いの麓を歩いていくと、中程度の広さを擁する花畑があった。(色はもはや覚えていない。)陰る午後の日差し、昼食など食べていないのだが、私は夢中になると空腹にならない性質なので、気にもならない。きっとアドレナリンか何かが出ているのだろう。ひとつ口ずさんでみた。


 ♪ルリラ・ルリ・ララ・ルリル・レ・ララ

 ラララ・ルリラル・レ・ララ・ルリラーラーラ・ララ


 もっと、歩いていたい。だから、もっと歩いていよう。暗くなるまでは。そうして私は、この標高200メートル強の山に登ることにした。登山道があるので、散歩のように登って下山することができる。途中湧き水もあるので、スマホはおろか靴紐もないサンダルで歩きに来ている私でもナメてかかれるのだ。いざ頂。

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