第33話 わたしにものませて

 ちみちみと腕を食んでいたアマリエは、「けぷ」と可愛らしい満足音を鳴らして俺から離れた。

 ご丁寧にハンカチで口を拭っているが、もう口の周りが血でべったべたになってる。病院での採血以下の吸血量だった気もするが、よほど飲むのがへたくそなんだろうか。

 

 オムライスのケチャップで口を汚した幼児に近しいものがある。

 ヴェリスはなぜか目に涙をたたえていた。吸われた身としては一方的な搾取なのだが、なんとなく感動する気持ちはわからんでもない。


「アマリエも成長したなぁ。ニポーン人……ミオ、感謝するよ」

「あ、はい。あのこれ毎日やるんすか」

「勿論だとも! いいかい、アマリエは今まで人間から直接吸血することが出来なかったんだよ。どうしても零してしまってね、それが今大きな一歩を踏み出したんだ」


 幸せ感が漂っている。アポロ計画じゃねえんだから、そんな足跡を残されてもなぁ。

 しかしだよ。この教室の有様どうするかね。

 机がベコベコ。椅子はぐにゃぐにゃ。周囲は時が止まったかのようにガン無視状態になってる。催眠術か何かわからんが凄まじい効果だ。


「ミオ、はなれて」

「お、おう……。いや、もう戦闘は無いよな? それよりも教室を片付けよう。このまま我にかえったらノリちゃんショック死するぞ」

「ぷくー」


 声を出して頬をふくらませないの。

 長い黒髪を指でくるくるともてあそびながら、杏は御不満そうな表情だ。


「ずるい。みんな我慢してたのに」


 聞こえない聞こえない。

 Youは雪女、こ奴らは吸血鬼。その辺の生態管理はきちんとしておいてくれ。

 妖怪に寄ってたかってチューチューされたら、秒で枯死するわ。


――

「それではいいかね。では、パチンと」

 声に出さなくてもいいことを言うのは、妖怪の習性なのだろうか。

 ヴェリスが指パッチンすると、教室を覆っていた空気が変わった気がした。今までは少し頭が重い感じだったのだが、一瞬で爽やかな気分になる。


「ふふ、げみ……いえ、ミオ様、優しく飼ってくださいましね」


 ブチっと様々な方面から、怒りの血管が切れる音がしたような。

 そらそうよ。

 正気に戻ってすぐに、噂の金ドリルドイツ人が、ペットにしてくれ宣言してんだから。しかも授業中にだ。ご丁寧に机までくっつけてきてる。


「あの……アマリエさん↑、今何を?」

 ノリちゃんめっちゃ真っ青な顔してる。乙女ゲーの悪役令嬢のテンプレみたいな娘さんが、即落ちしてるんだから笑えないよな。


「少しお互いの関係が変化したのですわ。主人とペット、上下関係ははっきりとさせておきませんと。ね、ミオ様」


 およそ日本史の授業で出てくるセリフではないよ、アマリエさん。

 もうクラス内で俺は蛆虫以下の存在価値なのではなかろうか。待遇改善はもはや絶望的になってしまった。


「なあ、もう澪のやつ始末しねえ?」

「ユッキーとつき合ってるのに、授業中に浮気とかねーわ」

「むむむ、修羅場、修羅場でござるかな。この軍師の目を以てしても先の読めない展開ですぞ」

「そういえばゴールデンウィークさぁ、あいつ毎日別の女と同じ店に……」


 ……シテ、コロシテ……。

 マンドラゴラが集団絶叫してるかのように、声は広がっていく。100%俺の被害妄想だが、まあ事実は事実だしな……否定できん。


「こほん」

 教室が、冷えこむ。

 しかしクラスメイトの情熱の火は熾火のように燻っているようだ。


「本妻のお出ましか……これは血の雨が降るな」

「ゆっきー負けるな! うちらは応援してるし!」

「氷室死ね。可及的速やかに死すべし」


 なんてことをしてくれたんでしょう。

 平和な朝の授業風景が、一転して魔女裁判の場に。これには異端審問官もニッコ  リ。ついでにノリちゃんはゲッソリ。


「ゆっきー、ガツンと言いなよ。氷室っちに浮気すんなってさ」

 女子の結束力がえぐいが、もう俺は杏の言葉を聞くだけマシーンになるしかなかった。今どき争奪戦とか時代に合わないから、それだけは勘弁してくれよ。


 調子に乗った考えをさらに冷やす一言が投下される。


「アマリエはごっくんしてたから、わたしもする。わたしが本命だから」

「美味しゅうございましたわ。躾けられてしまった気分ですの」


 はい、無理。

 一言目で天元突破してるから、収集つかないよね。

 吐きそうになるほど、睨む視線が体に突き刺さる。これはもう転校するしかないのかもしれん。

 弱気なことを考えていると、さらに杏サンが榴弾砲を発射する。


「わたしにも飲ませて」


 ノリちゃんが黒板に頭をぶつけて痛がっているのを横目に、もはや授業どころではなくなってしまった教室がそこにはあった。


「氷室君さぁ、ちょっと休み時間にお兄さんたちとお話しようぜ」

「氷室っちくっそさいてー。ラインから蹴っていい?」


「やはり純血種の人間は人気があるね。僕はとても君が気に入ったよ、ミオ君」

「誰のせいだと思ってやがる。もうちょいタイミングってのをだな……」


 妖怪にとって、純血種である俺の血液は至高の味と香りらしい。

 それは血縁というものでも発揮されるようで、子孫は非常に強力な妖怪が生まれるとのことだ。


「さて、この状況を打開するにはどうしたほうが面白いかね」

「授業時間残り五分。俺の死刑執行まで猶予ねえぞ。マジでなんかないのか」


 立ち上がってメンチ切り合ってる杏とアマリエが目に入る。もはや極限状態だ。


「そこまでよ!」

「動くな!」


 教室の前のドアが勢いよく開き、一組の男女が乗り込んできて叫んだ。


「あっ……え、誰?」

 俺はこの二人をどこかで見たような……。頻繁に会う機会があったような、そんなデジャヴを感じる。


「ヴァンパイア死すべし、慈悲はない! いざ尋常に参る!」

「アタイに見つかったのが運の尽きさ! 一匹残らず狩るからね」


 教室の喧騒が一瞬で止んだ。

 それは突然の登場によるものではなく、アマリエの吸血時のように何か強制的な力が働いたようだった。

 その証拠にまた頭が重い。


「それでは授業は↑ここまでですっ↑ね、各自予習をしておいて↑ください↑」

 目がうつろなノリちゃんが平常運転で授業を〆る。


「おい、ヴェリス知り合いか?」

「逃げるぞミオ君。こっちだ!」


 うおっと声を出す暇もなかった。

 俺はヴェリスにお姫様抱っこをされ、教室の窓から地面に向かってダイブすることになった。

「お前、ここ三階っ!」

「心配ない。我々の身体能力でカバーできる。それよりも今は逃げることが優先だ」


 有無を言わさぬ逃避行。

 俺はヴェリスに運ばれ、そのまま体育倉庫に隠れることになった。白線を書く粉の臭いが立ち込める中、俺たちは荒い息を吐く。


「あいつら何なんだ、ヴァンパイア死すべしとか言ってたが」

「やつらは……ハンターだ。古来より闘争を繰り広げている、僕たちの天敵だよ。アマリエも上手く逃げられていればいいが」


 絹を裂く……と形容されるような悲鳴と、ドイツ語らしき声が響く。

 くそ、杏は無事なのか。アマリエは捕まったのか?

 

 急転直下な展開に、そろそろ脳が過負荷でシチューのように茹っている。


「ミオ君、奴らを撃退するぞ。手を貸してくれ」

「えぇ……」

 

 寿命が音速で削れていってるような気がする。どうしてこう妖怪ってのは、自分たちファーストなんだろうか。

 俺は本日初めての、深い深いため息をついた。

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