第6話 いときもし
俺に天啓が下った。
そうだ、ここは飲食店、すなわち接客業だ。接客の基本は笑顔。
アルバイトではほとんど活かせた事が無かったが、笑顔は俺の特技の一つだ。
笑顔で爽やかに挨拶すれば、なごやかなムードになるかもしれない。
犬を連れている事の説明には、これっぽっちもなりはしないが、やらなければならない。
――よし、レッツスマイル!
顔面を引きつらせるように笑顔を作って、顔を上げた。
「こ、こんにちはー! ボク氷室と申しま……」
「あらん、坊や。こんな昼間っからお盛んなのねん。むふ、可愛い顔しちゃって、まったくもぅ」
男は自分のボディラインを舐めるようになぞった後、俺の顎に指をかけてそう言った。
「え、ちょ、待ってく……」
「なになになに、あらあら。アンズちゃんやおこげちゃんと一緒って言う事は、アナタ、こっちの世界知っちゃったワケね? 大丈夫よぅ、アタシが一から十まで、手取り足取り腰取り股取り竿取り、教えてあげるからぁん」
「や、あの、お尻触らないで下さい」
訂正しよう。
――デカい、黒い、キモい、だ。
長身で、全身日焼けをしたマッチョが、体をクネクネ揺すりながらおネエ言葉で語りかけて来ている。
断言しよう。こいつは妖怪だ。
人間であっていいはずがない。
出会い頭に度肝を抜かれて固まっていると、おこげがピョンと前に飛び出した。
「こんにちは、『
「やっほー、おこげちゃん。元気してたのぅ?」
「おいらはいつもの通りだよん」
「アンズちゃんも相変わらず、無口可愛いわねぇ」
「うん」
淡白ですな。これが正しい対処法なのかもしれない。
「オイラ、夜中時々家を抜け出して磯貝さんと会ってたんよ」
「アナタのお家の前でだけどねぇん。むふ。おこげちゃんの様子を時々見てあげたのよん」
背筋が寒くなる。
見た目だけで通報されかねない人物が、俺の自宅を把握しているとは……。
俺の心境などお構いなしに、おこげは毛の長い尻尾をパタパタさせながら、磯貝さんと世間話をしている。
今この空間は、何処よりも、何よりも世間離れしているにも関わらずだ。
――
「なるほどね。おこげちゃんが犬又だって教えちゃったのね」
「私が言った。反省してる」
テーブル席の向かい側に座った磯貝さんが事実確認をしてきた。
「正体を知られた犬又や雪女。いいえ、その妖怪たちがどうしなくちゃいけないか、聞いているでしょう?」
俺は磯貝さんが差し入れてくれた、ジンジャーエールのグラスをテーブルに置き、静かにうなずく。
「アナタはどうしたいの? 妖怪の事を忘れて普段の生活に戻りたい? それならば今ここから立ち去れば、自然と望みは叶うわ」
磯貝さんは言葉を続ける。
「それともおこげちゃんと今まで通り暮らしたい? でもそれにはアナタにはアタシ達妖怪の世界をきちんと知ってもらわなくちゃならないのよ」
俺はチラリと、おこげを見る。
あの時、突然話しかけられた時の衝撃はとても深かった。怖い、気味が悪いと思ってしまった事は、紛れも無い事実である。
だけれども。
「俺は、その、いきなりだったから確かに驚きました」
そう前置きをいて、おこげとの思い出を掘り起こす。
ほんの小さな仔犬だったころから家族として一緒にいたのだ。
お手やお座り、伏せなどの動作を覚えさせた事。
ブラシで体をなでたり、ボールで遊ばせたりした事。
新しく買ってきたばかりのスリッパを、ボロボロにかじられた事。
夏場には噛みつかれながらも、体を洗った事、等々。
一つ一つは小さな事だ。
しかし、忘れてしまうには、あまりにも愛情と言う名のレンガが積み上がってしまっている。
こんな理不尽な別れなんて、あってたまるか。
だから、
「それでも、おこげと今まで通り暮らしたいです!!」
そう、はっきりと宣言した。
「イヤアーーン、素敵ぃ! アタシもそんな風に、誰かに必要だって言われてみたいわぁん」
俺の一生懸命な決意を前に、磯貝さんは自分の乳首をなでまわしながら、ビクビクと悶えている。
自重しろ、妖怪。
いや、マジでそう言う場面じゃないから。
「じゃあー、まずはー、アタシ達の世界に慣れてもらうところから始めないとねっ」
「その事なんですが、杏が仕事をどうのって……」
妖怪の世界と仕事と、一体何が関係しているのか。
「そそ、アタシ達妖怪と一緒にお仕事するの。アナタ達の身近にいるのは同じ人間ばかりじゃないわ。動物も植物も図鑑に載っている通りじゃないの。ありきたりに存在しているモノの中に、アナタ達が妖怪と呼んでいるモノが多く存在するのよ」
そして、磯貝さんは水の入ったグラスに一口つけ、こう言った。
「やってほしい事はズバリ『便利屋』。困っている妖怪達へ、貴方がサポートをしてあげてほしいの」
最初の一つ目からやたら大雑把で、高いハードルが設置された気がする。
「この世界、アタシ達の世界を知っている人間の助けを求めている妖怪もいるの。アタシ達は人間と異なって、種族で特徴が違いすぎるからねぇ。そんなアタシ達の細かなニーズに応えるべく、便利屋を絶賛募集しているところだったのよぅ」
いや、本気?
本屋の店員ですらクビになった俺だぞ? いきなりそんなマルチスキルを求められても困るんだが……。
妖怪の世界を知るとしても、もう少し難易度の低いものがあると思う。
レベル1でラスボスと戦うような無理ゲーは、クソレビューされるだろうに。
「磯貝さん。その、なんて言いますか、いきなりそんな大役は、些か厳しいと」
「だ・い・じ・ょ・う・ぶ。ちゃんとアナタでも出来るレベルのお仕事しか回さないから。それにおこげちゃんとこれから先も一緒に生活するのであれば、知っていてほしい世界でもあるからねん」
そう言って、黒い台帳の様な物をパラパラまくり始めた。
恐らくあそこに仕事とやらが沢山書き込まれているのだろう。
「ご主人、ご主人。何も一人で仕事するんじゃないんだよ。オイラやアンズも一緒だからさ」
磯貝さんはヒゲをなでた後、両手でハートマークを作っている。すごく気持ち悪いが、嘘をついているようには思えなかった。
おこげも俺のふとももに肢を四本乗せ、尻尾を大きく振っている。
杏子はいつの間にか俺の手をきゅっと握っていた。
本当にうさん臭い。
妖怪相手の便利屋なんて、小学生が自由帳に書き込んでいる妄想以下の話だ。
だが、今、その妄想を共にするか否かを求められている。
(毒を食らわば皿までだな。こうなりゃ、とことんやってやろうじゃないか!)
「分かりました、俺に出来る事であればお手伝いします!」
俺はそう、元気よく返事を返した。
「決まりね。人間のアナタには、すぐには受け入れられない世界だと思うけれど、これからよろしくね。依頼が成功したら、ちゃんと依頼者から報酬が支払われるからただ働きじゃないのよ。だから楽しみにしていてネ」
磯貝さんが手を差し伸べてくる。
あんまり触りたくなかったが、そこはこらえて、しっかりと握手をして返す。
「ご主人、本当にありがとう! これでこれからも一緒に暮らせるよ」
「善い人ね」
おこげが前肢を膝の上に乗せ、ペロペロと手を舐めてきた。
俺はこれから降り注ぐであろう、受難の予感を振り払うべく、おこげの頭を優しくなでたのだった。
この日、俺と妖怪との間に契約は成立した。
――
「じゃあ依頼があるものの中から、アナタ達が出来そうなものをピックアップしておくわ。お仕事は学校の放課後や休日の日に出来るものにしておくわね」
帰り際、店先で磯貝さんと連絡先を交換している時に、そう告げられた。
「今週中には連絡するから、電話の電源は入れておいて頂戴ねん」
「はい、解りました。では失礼します」
「うん、それじゃあ気を付けてねん、ミオちゃん」
お尻の穴がキュっと萎む。磯貝さんのキャラは、慣れるのに時間がかかるだろう。
さて、どうやら遅くとも今週中か来週には、妖怪と絡む出来事が起こるのだろう……。一体どのような注文をしてくるのか?
まぁ、それ以前に相手の姿形さえ想像がつかないのだが。
とにかく、一つ。一つ何か仕事を成功する事が出来たのであれば、知ってしまったこの世界で、自分とおこげの生活に自信が持てるのかもしれない。
帰りながらそんな事を漠然と考えていた。
ん、待てよ?
ふと疑問に思った事があったので、抱いているおこげに聞いてみる事にした。
「なあ、おこげ」
「ふわーー。あふぅ……。なんだい、ご主人?」
おこげはすでに眠そうだった。だから、完全に寝に入る前に聞いておかないと。「磯貝さんって、何の妖怪なんだ?」
その質問に、おこげはとろけそうな目をして答える。
「んあ。磯貝さんは人魚だよ」
「おぅええええっ」
俺は猛烈な吐き気と眩暈に襲われ、電柱に激突して崩れ落ちた。
あれが……人魚……。
もう二度と、無邪気な目で人魚の絵を見る事が出来無いだろう。
「ご主人? ご主人ー!?」
おでこを押さえてうずくまっている俺に、おこげが心配そうな目で見上げてくる。
また一つ、世界の闇を知ってしまった。
これから先、おこげと一緒に様々な場所へと出かけるだろう。
そのたびにきっと、今のように棒にブチ当たるかのような衝撃を受けるに違い無い。ホント、たまらないなぁ、と思う。
晴天下の春。俺とおこげ、そして杏の物語は、そんな風に始まった。
◆読了ありがとうございます◆
この話は一つの実験要素をいれています。
もしかしたら指摘されるかもしれませんが、ご容赦くださいませ。
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