第5話 一緒に来て
妖怪はパーソナルスペースの意識が薄い。そう確信したのは雪乃宮杏の密着具合からだった。餌付けならぬお弁当漬けが成功したとみたのか、彼女はもう俺への態度を隠そうとはしない。
常に氷の視線を感じる。それはクラスメイトからのもの。
「あ、村西、消しゴム取ってもらっていいかな」
「チッ」
露骨に嫌な顔をされたが、ちゃんと落としたものを拾ってくれた。おこげとの散歩中にガチャガチャで出した、わんこマークの消しゴムは安定性が悪い。
だからよく机から転がって行ってしまう。そんな危なっかしい姿がおこげによく似ていて、使い切るまでは他に浮気はしないと決めていた。
常に灼熱のまなざしを感じる。それは雪乃宮杏からだ。
いいのか雪女。ちょっと温度管理失敗してないかな。
コロン、とまた消しゴムが落ちる。それは不規則に転がり、二つ隣の席の杏の椅子の下へと潜り込んでしまった。
「あ、あの杏。ちょっと落とし物を取ってほしいんだけれども」
彼女は無言で席を立ち、スカートのすそを押さえながらも拾ってくれた。
俺の席までわざわざ持ってきてくれて申し訳ない。そう思っていたら。
「ミオ」
「すまん、ありがとう」
「きちんとゴム、使って」
ぶっふーっと周囲が一斉に吹いた。
現国のお爺ちゃん教師は眼鏡をズリ下げて、ずっこけている。
「おい、マジかよ」
「もうあいつら……クソが」
違うの! これ、これ見て! 消しゴムだから!
もう誰も目を合わせてくれない。立ち上がって抗議の声を届けたかったが、きっと無駄なことなんだろう。一日で俺の住環境や生活の安全がかなりレベルダウンしてしまったようだ。ちくしょう、これが毎日続くのか……。
――
放課後。当然のように杏は俺の横に来る。目が一緒に帰りましょうと強く訴えているのがわかるが、口に出したら負けな気がして素直になれない。
「ん」
すっと手を出してくる。何かついてるのかな? 白くて細い、綺麗な指だと思うが、別に不審な点はない。
「ん!」
「あ、お、おう」
つなげってことですね。ええ、まだ教室だよ。これ以上みんなからのヘイトゲージを高めたくないんだけども、きっとこの子は譲らないだろう。覚悟決め手行くか。
ひやり、と肌がすくむ。てのひらから伝わる温度はまるで雪の日のよう。
首をかしげて様子をうかがう杏に、精一杯の笑顔を作って応える。
ブンブンブンブン。
うわ、めっちゃ手を振りやがる。危ない、危ないから。
杏の表情が心なしか穏やかに見える。相変わらずすべてのものを凍結させる、寒波の瞳は健在だが、体をくねくねさせ、たまに頬がぴくんと緩んでいた。
――
「ただいまー。おこげー」
「ご主人おかえりー。あやや、アンズも一緒なんだね。今日行く感じかな?」
通学用のスポーツバッグを玄関に置き、おこげの背中をなぞっていると、謎の行動フラグが立ったようだ。ああ、ついにか。
YSKなる謎の組織。そんなものがこの茨城県の片田舎にあるとは誰も思わないだろう。俺はおこげの散歩ひもとエチケットバッグを持ち、一休みを入れることなく外へと戻る。
「ふっふふーん。春はいいねえ、ご主人」
「そうだな――って、だめ。お外でしゃべっちゃいけません。バレたらやばいだろ」
「あ、そうだった。ごめりんこ」
最初は勢いよく歩いて、道々の様々な匂いをクンクン嗅いでいたおこげだった。
だが数分後には、目に見えて歩行速度が落ちてきた。
最近甘やかし過ぎたな。定期的に走らせよう……。
仕方無いので両腕で抱っこする。俺は周りに聞こえないように、小声で会話しながらおこげの指示する方向へ歩いて行く。
私鉄の踏切を超え、駅前の方へと進路を向ける。踏切から五十メートルほど道なりに進むとドラッグストアがあり、対面には整体院が構えている。
整体を通りすぎてすぐ。
居酒屋前で、おこげが俺の服をくわえて引っ張り、合図をしてきた。
杏も首肯し、この場所で間違いないと訴えている。
時間は午後四時。通行人の数も多い。
俺は杏とおこげに思いっきり顔を近づけ、ボソボソと話す。
「マジでここ? 居酒屋にしか見えないんだが」
「大丈夫だよご主人。このお店に入っちくりー」
「アウトだよ。高校生立ち入り禁止だぞ」
「いいからいいから。大丈夫だよ」
おこげは腕から飛び降りて、ぐいぐいと入口の方へと俺を引っ張っていく。
「杏、制服だしまずいだろ。ちょっとおこげを止めてくれ」
「平気。ミオ、一緒に来て」
親指をグっと立てて、そのまま引き戸を開けて入店してしまった。
俺は天下御免のチキンハートの持ち主だ。白昼堂々と居酒屋に突っ込む勇気はないのだが……。ああ、もうなるようになれ。店の人に怒られたら恨むぞ。
――
「ご、ごめん……ください」
俺は蚊の鳴くような声で、硝子の引き戸を恐る恐る開ける。
小ぢんまりした店内は、左手にカウンター席、右手にはテーブル席があり、入り口付近には、営業時間には外にかけられるだろう暖簾が立っている。
「杏、おこげ。今は誰もいないんじゃないか?」
俺は暖簾の匂いをスンスンと嗅いでいたおこげに問いかけた。
「それにこれ、不法侵入じゃなのかな。通報されてないか?」
匂いを嗅ぐのをやめたおこげが、首をこちらに向ける。
「ご主人は心配性だなぁ。お、来た来た」
おこげはカウンター奥の従業員室の方を右肢で指し示す。
心臓が早鐘を打っている。
常識的に怒られるのならまだいい。
「おい小僧、何ペット連れて人の店の中散歩してやがるんだ」と、極めて真っ当な対応をされた方が、何というか心が折れずに済む。
そう固唾を飲んで、従業員室の扉が開くのを待った。
足音が聞こえ、扉の前で止まる。そしてノブがガチャリと回され、誰かが店内に入って来た。
扉が開いた瞬間、とっさに顔を伏せてしまった。気配は目の前にある。
店内に踏み込んでしまっている以上、言い訳は出来ない。
「心配ない」
杏がそっと手を握ってくれた。ああ、もうそんなことをされたら、逃げ道がないじゃないか。仕方ない、覚悟を決めよう。
俺は顔を勢いよく上げて、入ってきた人物を見る。
そして即、顔を下に向ける。
――デカい、黒い、怖い、以上。
テレビでしか見たことがないが、熊ってのはこういう生き物のことだろう。
身長は……ものごっつ高い。
多分百九十センチメートルをゆうに超えていると思う。
腕が太い。
首が太い。
足が太い。
圧倒的な肉量。
細いサングラスと、浅黒く焼けた肌、金色に染められたあごヒゲが織りなす、恐怖のハーモニー。いや、融合体だ。
もし誰かにこの場で、この人、裏の世界じゃ有名なんですよと言われたら、間違いなく信じるだろう。
現れた男は無言のまま、こちらに近寄って来る。
いわゆるコワオモテの人が放つ特有の空気に、店内が支配されて行くのを感じる。
非常にマズい。何とかしなくては……。
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