さとり

さくら

第1話

弟切草の下には弟が眠る。

一郎はこの場所が嫌いだった。空気が淀んでいて、滞っているようで、ほのかに生臭い。


こんなところによく、弟切草は咲くものだな、と感心する。

野良仕事で通る畦道にある祠の隣に、黄色い花は咲く。黄色は弟が好きな色だった。


何が祀られているとも知れない祠の隣に弟を埋めたのは、報われたかったからかもしれない。

祠の中から視線を感じた。

野良仕事で黒くなった肌に刻まれた皺を、十六で年のとまった弟はどう見るのか。

祠の丸く小さな穴から外を窺うのは、しっとりと濡れた黒目がちの目だった。




甕の水で足を洗い、家の中に入る。せつは藁を綯っていた。

囲炉裏では芋を混ぜたかて飯がかけてある。米所と言われる此処でさえ、白飯は食べれない。去年も今年も夏が寒すぎて米が取れなかった。

年中混ぜ物をして、粟や稗、砕け米や、無ければ籾殻のまま何かと混ぜるしかなくなる。雑草や木の皮も食べた。何度も不作を経験し、生き抜くことに精一杯だった。そうしているうちに一郎もせつも歳をとった。


歳を取らないのは祠にいる弟だけだ。


弟もせつが好きだった。そのことで仲が悪くなった。

元凶となったせつはしとやかで物静かだった。野をかけるか木に登るくらいしかやることがない田舎では、珍しい子に見えた。よく知らぬまま惚れていた。

せつは弟が居なくなった時も、結婚する時も、何も言わなかった。そういうところは好きだったような、そうでないような。夫婦というより今は他人だ。


 今日も野良仕事へ出かける。

畦道の途中、誰にも見られていないとこを確かめてから、祠の前で立ち止まる。

「われごどしたなぁ」

何度謝ったか。

穴から覗く目は一郎を見ない。

「許してけろ」

しきりに祠の下を見ている。下には花が添えられていた。

「誰だべなぁ、こげな祠さ」


この村には縋るものがない。

寺は怪異が続くので、坊主はいなくなった。

その頃から、昔奉納されたという木馬は目に生気をおびていき、夜中に鳴いたり動く音がするようになったので、首を切り落とされた。その切り口から今でもじわじわと血が滲み滴っている。

寺は廃寺となり、どこに手を合わせればいいのかわからなくなった。

重なる不作もあって、幼子の餓死者が出た年も、救いを求める場所も、近くの寺から坊主を呼ぶ金もなかった。一郎も弟を救ってくれと願ったことがあるが、まだあそこに居る。


朝起きると、飼っている牛に餌をやる。

痩せた牛からはあばらが浮いていた。集まる蝿ばかりが肥えていく。

草を集めていると、牛小屋の奥、影ができるところに黒く火のように揺らぐおものがあった。

見ないふりをした。

見てはいけないと思った。

だが、それは意外にも話しかけてきた。


「おめ、今、見てはいけねと思ったべ」


返事をしてはいけない。

あれはただの影だ。

「おめ、今返事しちゃいけねぇと思ったべ」

影は一郎の考えていることを当てる。

「なして考えでるごどわかんなだ、って思ったべ」

そうか、こいつはさとりだ。

「そうだ、俺はさとりだ」

なにしにきた。

「なんも。こごさ居だいがら居るんだ」

さとりは人の考えていることを当てる。

ただそれだけの存在だ。

害はないので放っておいたら、居心地がいいのか牛小屋に居座り始めた。


徐々にさとりの姿がはっきりしてくる。ぼろぼろの着物を着た見窄らしい痩せた男が牛小屋にいた。

せつはさとりが見えないようだった。

牛はさとりが嫌ではないようで、寄り添うように寝ている時さえある。


この日さとりは、牛の背に乗って野良仕事に着いてきた。途中の祠の前で立ち止まって指差す。

「おめ、あれ、あそごさ居だのは知ってるやつが?」

さとりは弟が見えているようだ。

あれは弟だ。

「やっぱしな。おめさに似でっからよ」

さとりには弟の目だけでなく、姿が見えているようだった。

「おめも若い時、あんなだったんだべな」

弟はなぜ、あそこに留まっているのか。

心の中でさとりに聞くと、しばらく考えるように祠を見つめてつぶやいた。

「居だくて居るわげでねぇな」

どういうことか教えてほしくて、いくら心の中で聞いてもさとりは黙ったままだった。


田に着くと 「ちょっと村ん中、見でくっぺ」とさとりはふらふらと何処かへ消えていった。


牛は時々さとりを探すような仕草を見せた。


しばらくするとにやけた顔で戻ってきた。

さとりの姿を見て、牛が鳴いた。


「こん村の地蔵はひでぇなぁ。首がねぇ。寺も空っぽ。木の馬の首もありゃしねぇ」

何かに縋りたいと思った時期も一郎にはあった。でも、天候も生死もどうなるものでもなかった。寺を救いたいという者は減った。地蔵の首を子供が壊しても怒る大人はもう居なかった。



 味噌に醤油、飯はいつも塩気ばかりが勝っている。

「今日はなにしったな」

せつの声は久しぶりに聞いた。

「今日も田、耕してきた」

「勝が居ねぐなってがらは大変だなぁ」

十六になるたった一人の息子は、親戚を頼って出稼ぎに行った。飢えている村にいるよりは、いい暮らしをしていてほしいと願う。たまに送ってくる金だけが、息子が生きていることを知らせてくれる。


 朝起きるとせつがいなかった。小屋にでも行っているのかと思い外に出た時、道を歩いてくるせつを見た。

どこに行っていたかは聞かなかった。


 この日もさとりは田んぼまで着いてきた。

私の前を歩いて、祠を指差した。

また新しい花が添えてある。

「おめの思っている通りだ」

と言った。

「俺は見だ。あの花置いてんのはせつだ」

朝ここにきていたのだろう。

人が埋まっている祠に何を願うのか。

「世話になったついでだ。もういっこ教えでやる」

「なんだ」

さとりが祠の方を指差して言う。

「勝は弟の子供かもしんねぇぞ」

祠の中の目が瞬きした。

目が合う。

「なして、なしてそげなごど分かる」

「おれはどっちかなんて知らねぇが、せつはそう思ってる」

「なしてそげなごど教える」

「世話になったがら、本当のどご教えたまでだ」

謝るばかりだった祠を初めて指差す。

「なして弟は成仏しねなや?」

「そりゃあ、成仏しねぇようにせつが願ってるからよ」


弟を殺したとき、せつは身籠っていた。

勝は私に似ている。そして弟にも。


「せつが死ぬまで居てくれと願っているから、おめの弟はあそごがらは逃げれねえ」

そう言うとさとりは消えた。


祠の後ろに若かりしせつの幻影を見る。

せつは、弟が好きだったのか。

閉じ込められた若いままの弟とせつの幻影。

歳を取らぬ弟はずっとあそこに取り残されていると思っていた。

でも、どうやら取り残されていたのは一郎だった。

歳だけをとって、謝り続けた姿は弟にどんな風に見えただろう。

せつも自分を好きだと思った。だから、せつとの縁談が決まり、妊娠を知った時には喜んだ。それを邪魔するような弟が嫌で嫌で仕方なかった。

力なく下げた腕に、柔らかい何かが触れる。

柔らかい、若い女の手。もう何年も触れていない。懐かしい感覚。

触れられた箇所からじわじわと体が冷えていく。


握り返してしまいたくなる衝動を抑え、振り払う。

そして、振り返らずに歩き出す。

十六年間、弟に謝ってきた。今、初めて祠に閉じ込められている弟が憎く思う。

じわりと心の中にあの日の感情が広がっていく。弟を殺し、祠の隣まで引きずってきたあの夜は鴉たちがうるさかった。握った手に力が入る。心の中にじわじわと広がったそれは一郎を久しぶりに興奮させた。


 祠の目は一郎を見ない。唯一、興味があるのは、毎朝やってくるせつだ。

せつは花を添えた後、にぃっと笑って穴を覗き込む。

「もう少し待ってでけろな」

そして名残惜しそうに何度か振り返りながら立ち去って行く。


その様子をじっと見ていたさとり。せつが居なくなってから、祠へと近づく。

「あの女は怖いなぁ」

腕には木製の馬の首が抱かれている。

「死んでもおめぇを離さねぇぞ」

縋るような視線は気づかない振りをした。

弟は泣いているようだった。これだから人間は嫌いだ、とさとりは思う。

せつと弟は欲深い。人間を殺したことのある一郎が一番心の中が淡泊だ。


馬の首が急かすように鼻を鳴らした。

せつは弟が殺されるところも、埋められるところも見ていた。それでも黙って、一郎を恨んでいる。一郎を愛しいと思ったことなどないはずだ。


「どれ、おれは行がんなね」


泣きながらさとりに向けられた視線を無視して歩き出す。


木製の馬の身体に首をくっつけてやれば、数回震えたのち高らかに鳴き、山へと駆けて行った。

土の上には黒い血の塊だけが残った。

馬など放っておけば良かったのに、世話を焼いた自分を笑った。


 さとりは自分の居場所はやはり山だと思った。

ここは煩すぎる。

好奇心で山を降りてきたが、楽しかったのは牛と過ごした時間だけだ。

二度と人とは関わらないと決めて山に登るのは何度目か。踏みしめるように山に登っていけば、木の陰で何かか動いた。

顔を出したのは、半分が人間で半分が鬼の子供だった。

 あの子は人間に捕まりたい、と思っている。人間にも鬼にもなれず、居場所がない。自分は周りと違うと気づいた時の絶望感からいたずらに里に近づき、捕まって死ぬのを考えている。でも、怖さもある。

さとりのことを人とでも思ったのか子供は逃げていった。


 しばらく山を彷徨い、人間を妻にした鬼が住む峠へとやってきた。

「おう」

「なんだ、さとりが」

妻は不在のようで、鬼は包丁を研いでいた。

「おめのおぼご、里に近づいったけよ」

しゃりしゃりと研ぐ音が止まる。

「ほんとが」

「あぁ、んだがら、危ねぇぞ」

忠告をして鬼の家から離れる。いらぬ忠告をしたのは、あの子が人間に捕まって死ぬのは可哀想で不憫だったからだ。

誰にも心の中を読まれたくない、とさとりでも思う。


 その後はあてもなく彷徨った。獣道を歩き、疲れ切って大きな木の幹にもたれ掛かる。幹を撫でて、あの牛を思い出す。呼吸も臓物の暖かさも感じないが、骨張った肉体を思い出しながら撫でる。

遠くを見つめていると、木々の間を木製の馬が走るのが見えた。馬はさとりに気づき、寄ってきて甘えるように顔を擦り寄せた。

さとりは馬を撫でながら、泣いていた。

なぜ、泣けてくるのかは分からなかった。


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さとり さくら @goi

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