序章 ユキとハル ③今からでも
久し振りにあったハルは、中学の頃と何も変わっていなかった。私のことを気にかけてくれる優しいハル。
その優しさに、私は負けた。このまま雑談で盛り上がって、楽しい再会のまま今日を終わらせようと思い始めていた。
疑うことも、叱責することも、もう一度一人で考え直してもいい。また日を改めてもいい。
たった一度だ。たった一度そう考えただけで、とても気が楽になって、ハルと話すのが楽しくなって──
「どうして、今頃になって電話してきたの?」
そう聞かれたとき、全てが崩れる音が聞こえた気がした。
私の心臓を鷲掴みにする、ハルの泣きそうな目。
釣られて熱くなる、私の目頭。
運命なのか、神なのか。今日の再会をこのまま平和に終わらせることは、許されなかった。吐き気を催すほどに鼓動が早まる。
「それは……その……」
十年振りの再会。会話を交わしたのは、ほんの数分。それだけで十分だった。ハルが、あのときと変わらない──優しい子のままでいることを理解するのには。
ハルの笑顔が、楽しそうに話す声が、私の記憶を──路地裏にいたハルの姿を霞ませていく。
路地裏で怪しげなやり取りをしていたのはハルではない。そう思いたくなる。
けれど──
「ハル……路地裏でなにしてたの?」
やっとの思いで、私は本題を吐き出した。体と声を情けなく震わせながら。心なしか、白い息も歪な形に膨らんでいた。
ハルはすぐに返事をしてくれなかった。悲痛に満ちた面持ちで私のことを見詰めるばかり。
どうしてそんな顔をするのか、私にはわからなかった。期待と不安がせめぎ合い、心拍が鼓膜を震わせた。
どうか、私の勘違いであれ。親友に良からぬ疑いをかけられたことを悲しむ顔であれ。どうか……どうか……
「路地裏って、なんのこと……?」
言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
私が言葉を省略し過ぎたから問いが通じていないのか、ハルがしらばっくれているのか、それとも本当に何も知らないのか。
親友を信じたい私の無意識は、勝手に三つ目に手を伸ばそうとしている。
「……見たの。ハルが、路地裏でクスリみたいなのを売ってるところ」
もう、後戻りは叶わない。
「なに、クスリって。……なにかの冗談でも、笑えないよ」
「冗談なんかじゃない! 本当に見たの。去年のクリスマス……T都に行ったときに」
「……なら、見間違いじゃないの?」
「違う。たしかに暗かったし、距離もあった。けど──」
私が、ハルを見間違えるはずがない。
その言葉を口にした途端、世界が大きく歪み始めた。全ての輪郭が、ハルの姿が歪む。波打ち、ぼやけ、溶けていく。
瞬きで涙を溢れさせ、輪郭を取り戻す視界。私の目が捉えたのは、肘を抱いて苦しそうに顔を歪めたハルだった。
「見間違えるはずないって、ユキ……そんなに私のこと好きなの?」
震えるハルの声。泣いているようにも、笑っているようにも、苛立っているようにも聞こえる声。
私は、素直な答えをぶつけた。
「好きだよ。だって、ハルは私の……親友だから」
刹那の沈黙。
決壊は、突然に訪れた。
「……親友って言うなら、どうして今まで連絡してくれなかったの? 私はずっと待ってたんだよ? ユキなら、私の話を聞いてくれるって……私を助けてくれるって……!」
か細く涙に濡れた声。それなのに、私の鼓膜を突き破って、脳内に反響し続ける。
私の精神は思い切り揺さぶられた。ハルがずっと助けを求めていたという事実を突き付けられ、押し寄せる後悔を塞き止めることができなかった。
「十年も放ったらかしにしてたくせに、今更なに? ……私がなにしてたって、ユキには関係ないじゃん!」
「──ッ!」
息が詰まり、反射的に体が動いた。
音が消え、視界が黒一色に染まった。頭が熱い。こめかみに鋭い痛みが走る。痛みが私を奮い立たせる。ここで折れたら駄目だと。
ゆっくり目を開けると、地面が間近に迫っていた。両手の爪の先が、仄かに赤く染まっていた。病を疑いたくなるほどに、不規則な鼓動が胸元で暴れる。
立ち上がると、不安げな表情を浮かべたハルと目が合った。
「……ユキ、大丈夫?」
ハルが私の体を支えてくれた。
私は、倒れ込むようにしてハルの体を抱き締めた。
「え、ちょっとユキ……」
密着。ハルの匂いが鼻いっぱいに広がる。私のことを引き剥がそうとしているのか、ハルの手が背中をちょこまか動き回っているのをコート越しに感じる。
「……ごめん、ごめんね」
分厚いコート越しに伝わるハルの腰の細さ。力を込めると折れてしまいそうで、だけど私は強く強く抱き締めた。十年の空白が帳消しになるはずがないとわかっていながら。
けれど、後悔が先に立つことなんてない。人間誰しも、前もって悔やむことなどできない。
だったら、私はどうするべきだ。決まっている。ハルを助ける。今からでも遅くない、巻き返せるはずだ。いや、絶対に巻き返す! そのために、ここに来たんだ。
私はハルの体から離れ、改めて頭を下げた。
「連絡しなかったのは、本当にごめん。でも、しようとは思ったの。高校の入学式の日、携帯買ってもらったときに……」
「……
中学校の卒業式の日。私とは別の高校に進学する──つまり、離れ離れになってしまうハルは、私に一枚の紙切れを寄越した。そこに書いてあったのは、ハルの電話番号。絶対連絡してねと、ハルは涙ながらに笑った。
「無くしてない。ずっと大事にしてた」
「だよね。じゃなきゃ、こうして会えないもんね」
それなら、どうして十年も連絡をくれなかったの?
そう聞かれているような気がした。いや、現に一度そう聞かれているし、私はまだその問いに答えられていない。
「入学式から帰ってきたとき、駅前で見たの」
「……なにを?」
「ハルを。私の知らない人と一緒にいた。お揃いの制服着て、楽しそうに笑ってて」
携帯ショップからの帰り道、私は駅前で見たハルの姿を思い出してしまった。
「私との電話で友達との時間を邪魔したら悪いかなって……ううん、本当は、もう私のことなんて覚えてないんじゃないかって……そう思ったの。電話をかけて、『今友達と遊んでるから後でかけなおす』とか言われたら、やだなって……」
蔑ろにされることを恐れるあまり、私はいつまで経ってもハルに電話をかけられずにいた。日が経つに連れて『今更電話したところで……』という思いが強まっていき、いつしか逡巡することさえやめてしまっていた。
「なにそれ。私がユキを忘れるわけないじゃん」
「本当にね。私、なに考えてたんだろ」
真っ直ぐなハルの目が、責め立てるように、咎めるように私を貫く。その傷口からは、罪悪感が滲み出た。私がハルを忘れることがなかったように、ハルも私を忘れるはずがなかった。そんな簡単なことを、どうして信じられなかったんだろう。
「ユキは……そんなんで高校楽しめたの?」
心配そうにハルが問う。
私は、ハルと離れ離れになってからの三年間を思い返した。そこに、辛い記憶は一つもなかった。
「うん、楽しかったよ。友達も、鮫島君もいたし」
「ああ、そうだったね。それなら……」
「ハルのお陰だよ」
「──私の?」
「そう。ハルがいなかったら私……ずっと家のことばかり考えて、本当に一人ぼっちになってたと思う。多分、今でもずっと……」
ハルのお陰で、私は家の外に意識を向けられるようになった。休んでいい、遊びたいと言っていいのだと、前を向かせてくれた。
「だからハル、『関係ない』だなんて言わないで」
人の営みどころか、虫の声一つ聞こえない辺りの静寂。表面張力に負けた涙が冬の土に落ちていく、その音さえ耳に届きそうなほどだ。
「ハルがどう思おうと、私は今でも親友だって思ってる。それに、もし親友じゃなかったとしても、そんな苦しそうにしてる人を放っておくことなんてできないよ」
視線を交わしたままの私達。冷たい風が吹き抜けて、涙の流れた跡を冷やしていく。
永遠とも思えた沈黙の中で、不意にハルは歯を見せて笑った。
「本当、変わらないね。どうしてそんなに優しいの?」
「どうしてって、それは……」
明確な答えなんて見付かるはずがなかった。自分の行いが優しいかどうかなんて、そんなことを意識して行動したことなんてなかったから。例えば、あの日路地裏にいたのがハルじゃなかったら? 知り合い程度の人だったら、私はどうしていただろう。
「まぁいいや。それよりユキ、私が刑務所に入っちゃっても、会いに来てくれる?」
「え? 刑務所って……」
「いいから答えて。会いに来てくれる?」
「……行く。行くよ、絶対。約束する」
「よかった。じゃあ、ほら」
ハルは小指だけを立てた握り拳を私に差し出した。
私もそれに倣って小指を差し出すと、あっという間にハルの小指に絡め取られた。
「久し振りだね、ハルと指切りするの」
今までに交わした約束は数え切れないけど、どれだけ記憶を辿っても“指切り”をした覚えはない。久しく忘れていた小指を絡める感覚と、彼女の小指の儚い細さ。
「約束。私が刑務所に入っても、絶対に会いに来て」
「うん。絶対に会いに行く」
約束を交わし、私の手は自由になった。それでも指切りの感覚は消えずに残る。魔法をかけられたかのように、その一本だけが別物のように感じられる。この感覚は、約束を果たすその日まで消えることはない。
「なんか、昔に戻ったみたい」
「ハルだよね。最初に『指切りしよう!』って言い出したの」
「そうだっけ? ああ、そうだったかも」
中学生の頃の私は携帯を持っていなかったから、放課後の教室で次に会う約束を交わしてきた。苦労したのは終業式の日。長期休暇で学校に行かなくなってしまうから、何としても帰る前に約束を交わさなければならなかったからだ。でないと、偶然会えることを願わなければいけなくなる。
「懐かしいな。あの頃に、戻れたらなぁ……」
ハルが遠い目を空に向けた。目線の先には、彼女の吐いた白い息。そこに昔の思い出を写し出しているのかのように、ハルはまた涙を流した。
「ねぇ、ハル。さっき、刑務所って──むぐっ」
刑務所とはどういうことなのか、何をするつもりなのか。問い質そうとしたら、ハルの手に口を覆われた。
突然のことに戸惑って固まっていると、ハルは私の口を押さえていない方の手をコートのポケットに突っ込み、そこから何かを取り出して私に突き付けた。そして同時に、私の口が解放された。
「それ、なに?」
目の前には、ハルの手にぶら下がる小さな四角い袋。透明なビニールでできていて、密閉できるようにチャックが取り付けられている。
袋は空っぽではなかった。何が入っているのか確かめるため、私は顔をぐいっと近付ける。何だろう。カサカサの何かだ。似たようなものを見たことがある。あ、そうだ、紅茶の茶葉だ。茶葉によく似ている。
……ん? 茶葉? ……ということは、葉っぱ? まさか──
「乾燥大麻。去年のクリスマスでしょ? ユキが見たのは多分、私がこれを売ってるところだよ」
ケロッとした表情で淡々と口を動かすハルに、私は戸惑いを隠せなかった。
ハルがクスリ的なものを売っている。ある程度覚悟も決めきたつもりだったけれど、いざ実物と現実を目の当たりにするとショックを隠せなかった。
「……ど、どうして大麻なんて売ってるの?」
と聞きつつも、何となく予想はできる。この手の話題は、ニュースでもよく見聞きするから。理由は恐らくお金だろう。
そう思った私の耳が拾ったのは、全く予想外の言葉だった。
「脅されてるんだ、私。ユージに」
「脅されてる……って、それどういうこと?」
「何年前だったかな。私、罠に嵌められちゃってね」
舞い戻る、震えた声。その声とは裏腹に、ハルは笑っていた。憑き物が落ちたかのような、とてもとても穏やかな笑顔。そこから語られる信じがたい話。
「それきり、私の人生はあいつらにずっと握られてる」
何年前か覚えていない。それだけの長期間、ハルはずっと……
「──誰かに相談とかできなかったの?」
ハルはいつもクラスの中心にいた。それゆえに、友達が多い。いつもいつも誰かしらが近くにいて、多分それは今も同じ。例えば、そう──
「シゲミン。シゲミンは助けてくれなかったの?」
「助けてくれるわけないよ。だってあの人、
「て言うことは、シゲミンも?」
私の問いに、ハルは頷いて答えた。
「でも、もういいの。もう吹っ切れたし、これ以上ユキを悲しませたくない。だから、今から警察に行って……自首する」
ハルは大麻の袋を再びポケットに仕舞いながら、逆の手を私に差し出した。
その手の上に私の手を乗せると、食虫植物みたいにパクッと捕まえられ、お互いの体温がお互いのかじかんだ手を温め始めた。
「一緒に来てくれる?」
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