アオ、帰宅する

 車が止まり、左に曲がっていく感覚がある。目を開くと車窓の外に、夜闇に紛れて、アオが通っているのとは違う高校の制服を着た人が、後ろへ通り過ぎていくのが見えた。

 きっとあの人も、英会話教室の帰りだろう。

 車のドアから身を離して、窓についていた方の髪を、手ぐしで軽くすく。


「着きましたよ、アオさん」


 静かに車が駐車場に停められた。


「はい。いつもありがとうございます。行ってきます!」


 冬の間はコートを持って出たが、今は手ぶらだ。車の外に出ると、ちょうど涼しい風が吹いた。

 駐車場を出るとすぐ隣に、看板を明るく照らす英会話教室がある。

 あまり怪しくならないよう、入り口付近ではなく、建物の横脇にアオは立った。

 前面は窓ガラスで、夜になると中がよく見える。五分程待っていると、中にある部屋から待ち人が出てくるのが見えた。やや不機嫌そうに見える顔をしているが、遠目にも明るい雰囲気をかもしだすはしばみ色の瞳が、その雰囲気を和らげている。

 その人は教師と一言二言言葉を交わした後、疲れた雰囲気で肩を叩きながら、教室を出て来た。

 いきなり声をかけると驚かせる。英会話教室の明かりが当たるところへ歩み出て、その人の顔がアオの方へ向くタイミングに合わせて、口を開いた。


「椿さん、お疲れ様です。今日の夕食はビーフシチューですよ!」

「おーそりゃ」

「手前味噌ですが、お肉の具合が中々上手くいきまして。松田さんとお爺様には先に食べていただいたのですが、かなり好評でした」

「それはそれは。期待値上がるわ」


 手から鞄を引き取り、車の方へ歩き出す。

 頭の中では、いつ「あの話」をしようかと思いながらも、いつも通りに車のドアを開けて椿を乗せ、自分も後部座席に乗り込む。車は停まった時と同じように、静かに発進した。


「そう言や、松田さんと爺さん先にって、自分はもう食べたのか? また俺のこと待ってねえだろうな」

「食べてませんよ、アオさんは」

「あっ、松田さん! 違います。おやつに、松田さんにいただいたカステラを食べたので、ちょっと今はいいかなって気分だっただけです」

「カステラまだ残ってるか? 俺も食いてえ」

「残ってますが、夜中に甘いもの食べるの止めるって仰ってませんでした?」

「頭使った日は食ってもいいことにした」


 車窓の外の明かりを、アオは見るともなしに見る。

 夜中に車に乗っていると、何を話している時でも、つい窓の外を見てしまう。特に、公園や、歩道でじっとしている人影を見かけると、通り過ぎる時間で注視してしまう。過去の自分のような存在を見逃したくない。

 他愛のない話をしているうちに、住宅街に入った。あと少しで家だ。

 夕食の後は、休息の時間になる。忙しい椿の休息の時間を邪魔したくはない。

 話すのであれば、やはり今だと、膝に置いた鞄の持ち手を握りこんだ。


「椿さん、今度の休日、友人と遊びにいくので、下僕業をお休みしようと思うのですが。よろしいでしょうか? 一応、椿さんのご予定はない日なのですが」

「……え」

「念のため、椿さんに確認してからとお話しているので。もし、私がいた方が良いご予定がおありなら、お断りの連絡を入れます」


 椿は慌てたように手を振った。


「いや、いいよ。用事ねえなら俺に了解なんか取らなくていいし。好きに行ってこい」


 思わず目を落とした。

 良いことのはずだが、喜びよりも困惑が勝った。喜多野と出かけること、それ自体は嫌ではないが、躊躇われた。

 自意識過剰でなければ、ただ友人と出かけるだけではない、意味のある一日になる予感がある。

 いつもの椿の随伴をする時に着る服ではなく、いくらか華のある服を着た方が良いような気がする。近くのコンビニに行くのとは違う、心の準備をしておくべきだと感じる。

 そういった予感が、ずんと胸に重たくのしかかる。

 だが、嘘をつくのも申し訳ない。ともかく連絡はしなくてはと、スマートフォンを取り出した。


「何か――驚いちゃったわ。良かったけど。アオが休みの日に友達と遊びに行くの珍しい、いや初めてか? 友人って、同じクラスの奴?」

「そうです。一年の時から、班や委員会で何かと一緒になっていて、しょっちゅうお世話になる方で」


 文章を作りながら、ぼんやりと答えた。


「……二人で行くのか?」

「はい」

「ふーん……。アオ、二人きりで出かける程仲良い奴、いたんだな」

「あ、いえ。仲は良いつもりですが、だから、ではなくて…」


 ハッとして文字を打つ手を止めた。


「遊びにいく約束は、話の流れで、何となく」


 正直に言っても構わないはずだったが、何故か咄嗟に、ごまかしの言葉を言ってしまう。嘘ではないと心の中で唱えた。さも文章を考えているみたいに、意味なく画面を見つめてしまう。


「あぁ、そう。何となく、か」

「珍しいですね。アオさんが、何となくで、椿様以外の方のお誘いを断らないというのは」


 松田からの指摘にぎくりとした。言われてみれば、アオが「何となく」で物事を決める場合には、椿のことが最優先される。

 いつもと違う喜多野の様子に気づかなければ、あるいは進路の悩みを抱えていなければ、遊びの誘いなど何も考えずに断っていた。

 そのうち、さらに言わなくてもいいことを言ってしまいそうだ。

 苦笑いでごまかして、思いついたように声を大きくした。


「あ、黄浦の書店に行く予定なので、おつかいがあればお申し付けください」

「いや、いい……」

「よろしいんですか? 気になる詩集があると仰っていませんでしたっけ」

「うん……」


 椿の返事はどこか上の空だった。

 遊びには行けそうだと、改めて喜多野にメッセージを送る。少し待ったが、返信はなかった。

 スマートフォンの画面の明かりを落とし、また車窓の外を眺めた。


「そいつ、アオが下僕業とか訳分からんこと言うの、知ってて友達なのか?」


 アオはむ、と眉を寄せる。


「訳分からんとか言わないでくださいよー」

「普通、って言い方は嫌だが、大抵の奴には訳分からんだろ。うちの高校は金持ち多いし、他に比べりゃ理解ある方かも知れんが、さすがに高校生の分際で従者つけてる家はないって。まあ、家が家ではあるが、だとしても。やたら従者の熱量も高いし」


 中学までは失敗もあったが、さすがに高校三年にもなれば、自分の世間ずれは自覚している。喜多野とも似たような話をしたばかりだ。言い返せず、アオは肩を落とした。


「私のクラスの方々は、私が椿さんに仕えていることは、ほとんど皆さんご存知だと思います。一昨年の文化祭準備の時など、椿さんの付き人をするために抜け出すことがあって、その時に少しお話したので」

「クラス中が知ってるのは、少しお話の範疇じゃねえって。あと、文化祭の件、初耳。もったいねえ。そん時言えよ。何の用だったか覚えてはねえけど、大抵付き人なんかいなくても、愛想笑いしてりゃどうにかなるんだから」


 いつもならば即座に「椿さんが最優先です」と答えるのだが、今日は勝手が違った。

 昼間の進路の話が頭をよぎる。

 今までのアオにとって、椿は何よりも優先すべき相手だった。椿の役に立つために、何でもしようと決めていた。

 これからも、その気持ちは変わらない。椿への忠誠は絶対のものだ。気持ちの上では一生ついていく気がある。

 だが、現実に、それが可能かどうかは分からない。

 下僕もとい秘書などを目指すにしても、つく相手があの晴田見グループの跡取りとなれば、それなりのスキルが求められる。また、今だって本当ならば、椿自身も言う通り、椿に付き人など必要ではない。愛想笑いに限らず、元々の記憶力や如才なさで、どのような場面でも上手に切り抜けることが出来る。

 つまり、現在アオが「椿のため」と言いながらしている行為は、ほとんどが不用品の押し売りに近い。

 息苦しさを覚えた。

 今は椿の優しさで見過ごされているが、本当に付き人のような存在が必要とされた時には、不用品の押し売りをする人間など邪魔なだけだ。

 本格的に邪魔になる前に引く方が、椿のためになる。

 そう知っているにも関わらず、そうできない。だからアオは自分を、忠臣ではなく、下僕だと思う。

 喜多野とのお出かけは、ある意味では、その地点から脱するための第一歩だ。


「ですから、たまには、自分自身の人付き合いをしようかなぁと」


 思い切って言うと、気まずい沈黙が流れた。


「……あぁ、なるほど。やっと俺の言うこと聞く気になったってことか」

「いつも聞いてるじゃないですか」

「聞かねえだろ。来なくていいって言ってるのに迎え来るし。荷物持ちするし。いまだにさん付け、ですます調だし。呼び捨てしろって。俺の方が年下なんだから」

「呼び捨ては畏れ多くて無理ですってば」


 冗談らしく会話をするが、ぎこちなかった。自分でも、自分の声が固くなっているのが分かる。

 また黙り込んだ後、椿は明るい声で言った。


「まあ、友人と出かけるのは、いい心がけだ。俺のこと忘れて楽しんでこい」


 その明るさに寂しさを覚えて、アオは目を伏せた。

 この先、アオが椿の元から離れる進路を選んだとしても、椿はこんな風に快く送り出してくれるだろう。その優しさは、嬉しくはあるのだが、アオは不甲斐なさを感じてしまう。いまだ、必要不可欠と思われるくらいに有用な存在には、なれていない。

 子供の頃の恩を返したいと思っているにも関わらず、恩を返せる程の能力が自分にはない。それどころか、そばにいる時間が長くなる程、恩が増えていく。


「ありがとうございます」

「礼はいいだろ。俺のおかげでも何でもねえ」

「椿さんのおかげですよ、何もかも」

「重いって。お前、礼言い出したら長いから、この話終わりな」


 長い塀を過ぎて、大きな門が見えてきた。

 国内でも指折りの大企業、晴田見グループの創業者であり真井椿の祖父、晴田見虎太郎の住まいである。そして椿とアオが住む家でもある。

 車の速度が落ちる。


「松田さん、今日はこのままお帰りでしたよね? お疲れ様でした。明日もよろしくお願いいたします」

「はい、お疲れ様です。アオさん、御学友とのお出かけ、楽しんでください」

「ありがとうございます」

「椿様、おやすみなさいませ」

「ありがとう。おやすみ」


 門の前で車が停まった。アオの体は自然と動く。椿の鞄を持って車から出て、椿の座席側に回り、ドアを開ける。幼い頃から何度も繰り返してきた手順だ。

 車が走り去った後、椿の先に立って、門の脇戸をくぐる。石畳の先に、温かな玄関の明かりが見えた。

 アオにとっては、この世界のどこよりも安心できる場所だ。

 ほっと息をついた時、スマートフォンが震える音が響いた。


「さっき送ってた奴の返信じゃねえか? 見れば?」


 婚約者への連絡などの際には全く気にしないくせに、わざわざ言われる。


「あとで見ますよ」

「そんなん言ってお前、俺が部屋で着替えてる間、風呂沸かして飯温めてって、あれこれ動き回って忘れるだろうが。早く返事してやれ」

「いやでも、明日も学校で会いますし、その時に直接話すことも出来るので」


 椿がアオの前に出る。ひょいと手から鞄を奪われた。


「ちょっと、椿さん! 私の仕事奪わないでください!」

「お前の今の仕事は、そいつに返事することだ。返事するまで見てるわ」


 進行方向を塞ぐように椿は立った。玄関の明かりが逆光になって、表情はよく見えない。


「寝る前に返事します」

「今やったっていいだろ」


 有無を言わさない態度だった。

 アオが友達と出かけることは、椿にとっても、大きな出来事だったらしい。心配させてきたツケが回ってきた。

 正直なところ、椿の前で確認するのは気が進まなかったが、仕方なくメッセージを見た。日程への了解と、ついでに食事もどうかという誘いが書かれている。前方から視線を感じながら、返信を打ち込む。


「興味本位なんだが、友達、何て名前?」

「喜多野昌也です」

「……男か」

「そうですね。男性、十一月生まれ、趣味、部活はバスケ。誰にでも分け隔てなく接するので、男女ともに人気あります。家族構成は父、母、姉。母は専業、父親は飲料メーカー勤務、姉は」

「あーいい、そこまで聞いてねえ。返信した? あんまり時間かけるなよ。腹減った。ビーフシチュー早く食べたい」

「それならあとで良いのに」

「はーやーく」


 笑い混じりの呼びかけに胸がふさがる。

 この時間は永遠ではない。

 返し切れない恩を返し続けるため、何があってもアオは真井椿、ひいては晴田見家にずっと仕える心積もりだ。

 だが、椿の方から拒まれる日がいつか来るだろう。進学、就職が過ぎても、結婚したり子供が出来たりすれば、晴田見家から出ていってしまうかもしれない。実際、椿の両親は、結婚してすぐ、黃浦市に移り住んだと聞いている。

 メッセージを送信する指に、力がこもった。


「返信しました! 椿さん、鞄お持ちします」

「いいよもう、ここまで来たら。先行って食事の用意しとけ。カステラも」

「……はい」


 椿は自分の手で玄関の扉を開く。


「ただいま」


 その背中を、酷く眩しく感じた。


「お爺様、ただいま帰りました!」


 家の奥から、優しい声が聞こえてくる。

 喜多野とのお出かけは、その週の日曜日に決まった。


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