喪失による愛情の増幅度変化について
ざぁ、ざぁと降る雨の中。家路につく弘樹に話しかける者はいない。それもそのはずで、すっかり憔悴しきっている彼になんと声をかけたらいいのか。
弘樹の頭に巡るのは、やはり
背中まで届く長い黒髪、風に揺れると艶やかだった。細く伸びた手足、白く滑らかだった。同年代の女子のなかでは大きめな胸も、太めの眉も、小さな爪も、すべてが愛おしく、そしてもう触れることさえできない。
弘樹は何度もあの日のことを思い出す。
それは、まもなく夏を迎えようとした季節。青々とした木々が美しい公園にて、待ち合わせをしていた。
3回目のデートである。二人が都内の大学に進学してからは、はじめてのデートだ。しかし、ここで件の悲劇が起こってしまう。
時間にルーズなところがある弘樹は、いつも美鈴を待たせている。大学に入学して早々、課題提出もギリギリ。今日出さないといけないものを、今日はじめる始末。六時に待ち合わせのデートには、もちろん遅れてしまう。
まだ? と、美鈴からの通知。弘樹は「ごめんね。もうちょっとで終わるから」などと詫びる一文を送るが、けっきょく、大学を出たのが午後7時半を過ぎたころ。
8時を近くに迎えた時刻、ようやく弘樹は美鈴が待つ公園へとやってきた。が、そこで彼は目にする。
中央の噴水塔。その奥にある公衆トイレの脇で、うずくまる女性の姿。オフショルダーの白いシャツと緑のロングスカート。その気配に生気は感じず、長い黒髪がアスファルトに乱暴に投げ出されている。その髪。いつも見とれていた髪に間違いはなく、
「美鈴!」
と、駆け寄った。
肩に触れると、思わず手を引っ込めてしまうほど冷たい。美鈴の胸のあたりが真っ赤に染まっており、したたり落ちた生暖かいそれを、街灯がぼんやりと照らしていた。
あたりに人の姿はいない。手足を血で濡らした弘樹は、座り込んだまま、わなわなと震えていた。瞳に映る美鈴の顔は、ただ安らかに眠っているように見えるが、唇は青く、肌は白すぎる。
ひとり弘樹を待っていた美鈴は、通り魔によって刺し殺されてしまったのだった。
美鈴の死から半年が経ち、通り魔は逮捕された。死者は彼女を含めて3名。2児の父が一連の事件の容疑者であったことが世間を賑わせていたが、それもいつの間にか芸能人の不倫報道にとって代わってしまう。
事件は解決。季節は流れ、夏を越えて秋へと移ろい、やがて冬を迎えようとしているが、弘樹の時間はあの日で止まったまま。
学校にも行かず、自室に引きこもり、ベッドの上で眺めるのはスマホの画面。映しだされているのは、あの日の着信履歴である。
弘樹が待ち合わせ場所に向かう少し前。7時を越えてすぐ、美鈴からの着信があった。要件はきっとすぐに来てほしいという催促だったのだろうが、電話に出ることはなかったために分からない。
あのとき、時間に間に合っていれば。
弘樹は悔やんだ。悔やみ続けた。しかし、どうすることもできない。美鈴がこの世にいないという事実は変えようがなく、たとえ、犯人が捕まったとしても彼の救いにはならない。
ただ、静かに枕を濡らすのみ。美鈴との思い出の数々を思い出しては、嗚咽を漏らす弘樹。
画面を撫でる親指が、美鈴からの着信履歴に、わずかに触れた。涙で濡れた視界に、通話開始を示す画面が映しだされる。
と、そのとき、弘樹は飛び起きた。
「もしもし?」
声がする。
スマホから聞こえる、少し低めの落ちついた声。ずっと恋い焦がれていたあの懐かしい声。
「み……美鈴……?」
スマホを握る手は震え、その目は画面に釘付け。ことばを次ごうにも、喉元から先へと進まない。
「もしもし? もしもーし。ねぇ、どうしたの? 弘樹? 弘樹ってば!」
苛立っている様子の美鈴。弘樹はごくんと唾を飲みこむと、
「美鈴……か?」
「弘樹? ねぇ、もう提出終わった? まだかかりそう?」
「みす……美鈴なのか?」
「いや……え? どういうこと? わたしにかけてきたんでしょ?」
「ほんとうに……ほんとうに美鈴なんだなっ?」
「なに、大丈夫? 声震えてるよ? 息も切れてるし……。何かあったの?」
カッと熱くなる目頭を抑え、弘樹はずるずると垂らした鼻水を吸って、
「よかった……」
「よかったって……ねぇ、どういうこと?」
「いや……なんでもないんだ……。ただ、嬉しくて……」
「嬉しい? 変だよ弘樹。まるでずっと離ればなれになってたみたい」
「……離ればなれになってたんだよ…………」
「なぁに? 先に帰っちゃったのが寂しかったの? 可愛いとこあんじゃん」
と、ここで弘樹は気づいた。
「み、美鈴! 今、何時?」
「何時って……もう7時まわったところだけど? はやく来てよ、待ちくたびれちゃった」
やはり、と弘樹は目を閉じた。項垂れ、拳を枕に叩きつけると、
「すぐに、そこから離れて」
と、言った。
「え? なんで?」
「公園だろ? 今。すぐに家に帰るんだ」
「ねぇ、どうして? 今日デートでしょ? 楽しみにしてたのに……」
「いいからっ! 頼むっ! 今すぐ帰ってくれ!」
これほどまで大きな声を出すのは久しぶりである。息を切らし、必死の説得。美鈴は、
「わかった……」
と、呟く。臍を曲げた様子がうかがえる。
着信が切られ、弘樹は部屋の時計を見た。時刻は7時10分ばかり。部屋を出てリビングに向かうと、
「あら? どうしたの弘樹。そんなに慌てて」
エプロン姿の母がいる。肌は血色が良く、表情に暗さがない。弘樹は確信した。
「戻ってきたんだ……!」
弘樹が部屋に引きこもってから、自身も食が細くなったのかげっそりと痩せた母。しかし、今、弘樹の目の前にいる母は、かつての母である。
そう、弘樹は、自分の人生を変えたあの日に戻ってきたのだ。
なぜか。そんなことは弘樹にはどうだっていい。目の前で起こっていることが現実であることは確かであり、それだけでよかった。
何よりも、この世界には美鈴がいる。それが弘樹にとっては全てだった。
街が夕闇に沈みゆくころ。自転車にまたがり疾走する弘樹。彼が向かう先は、美鈴の家だ。
「美鈴っ!」
声を張り上げる弘樹。視線の先には、玄関の前で鍵を探している女性の姿。美鈴で間違いはなかった。
投げかけられた声に振り返る美鈴。と同時に、自転車を乗り捨て、弘樹は走る。
走ったその勢いそのまま、強く抱きしめた。
「わぁあっ! ちょっ……弘樹?」
爪先立ちになる美鈴。弘樹は目を閉じて、彼女の感触を確かめる。腕に広がる柔らかさと、ぬくもり。すべてが懐かしすぎた。愛おしすぎた。
伝えたかったことばが胸に溢れるが、その多くはことばにならず、たったひとつ、口をついて出てきたのが、
「もう……離さない……」
少し安っぽいセリフである。が、美鈴は頬を染めている。何もそのセリフに心ときめかせたわけではない。
「弘樹っ……ちょっと、ここ外だから……」
美鈴はスキンシップが苦手である。二人きりのとき以外ならなおさら。外で手を繋いで歩くことさえ、照れてやろうとしたがらなかった。
そのことを思い出して、弘樹は慌てて、
「ごめん……」
と、美鈴を離してやる。
「もう……どうしたの? いきなり抱きしめるなんて……」
だが、美鈴も弘樹に触れられることが嫌いなわけではなく、ただ、周りからの視線が気になるだけだ。きょろきょろと辺りを見回し、誰もいないことがわかると、上目遣いで、
「ねぇ、弘樹……」
と、誘うように名を呼ぶ。まだ高校生なのにどことなく妖艶さを備えている美鈴である。奇跡に感動していた弘樹の心は、かつてのように、純粋に愛しい人を愛していたときへと戻っていた。
「デートしよう、美鈴」
「え? さっき帰れって……」
「いいんだ。公園を離れてさえくれたらそれで……。なぁ、美鈴」
「なに?」
「やっぱり、今日、俺、変みたいだ」
「ふふっ。そうね」
「美鈴を失った気がしてた……。もう、会えないと思って……泣いていたんだ」
「うん」
「でも、今、ここに美鈴がいる……」
「弘樹? わたしはどこにもいかないよ? ずっと、弘樹の側にいるから……だから、泣かないで?」
そう言われ、弘樹は涙を流していることに気づいた。
「愛してるわ、弘樹……。ふふふっ。なんだかわたしも変みたい。くさいセリフばかり言っている」
「いいじゃないか、たまには。恋人らしくて」
そう言って、弘樹は美鈴の手を引いた。
東京都内の夜の街は、昼の如く明るい。あの日からこれまで忘れもしなかったデートプランを、弘樹はゆっくりなぞって行った。
やがて、ホテルにて、重なり合う二人。
神、という存在について深く考えてこなかった弘樹だが、今なら信仰するに充分な心持ち。そんな風に思いながら、彼は快楽の渦へと沈んでいった。
閉められたカーテンの隙間。眩しい朝焼けが差し込み、美鈴の横顔をほのかに照らしている。その姿はまるで十九歳の少女には見えない。
美鈴はスマホを手にすると「ムーンライト・グループ」を検索して、電話をかける。
二度の呼び出し音。通話口の向こうから男の低い声。
「もしもし、伊藤です。今、終わりました」
「そうですか……。何事もありませんでしたか?」
「はい、大丈夫です」
「かしこまりました。またのご利用、お待ちしております」
「どうも、お世話になりました」
ぷつりと通話が終了する。ぽそぽそと紡がれていた声は、熟睡中の弘樹には届かない。
ムーンライト・グループとは、歴史改変をビジネスとして扱う組織である。それほど、遠くない未来にて、弘樹に捨てられた美鈴は、この組織に助けを求めたのだ。
美鈴は弘樹を心から愛していた。移り気なところがあるとはわかっていたが、まさか別れを告げられるだなんて……。プライドはいたく傷つき、ゆえに、この現実を彼女は認めなかった。
——あのとき、もっとわたしを愛してくれるように仕向けておけば……。
美鈴は考えた。そして導き出したのが、通り魔による殺人事件である。彼女は哀しみが深いほど愛情も深くなることを、弘樹と別れたときに経験していた。
多大な喪失感は、狂信的な愛を生む。
「ありがとう、弘樹。全部、あなたのおかげよ?」
そう呟いて、額に口づけ。何も知らずに眠りこける弘樹は、ずいぶん長らく見ていない、幸福な夢の中にいた。
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