つくりもの

 ここは柳川やながわ町、柳川中学。大きくも小さくもない、名産もなければ観光スポットにも乏しい本井市が建てた、全校生徒400人ばかりの中学校。

 そこに、転校生がやってくるぞ、というニュースが飛びこんできた。しかし、正確には転校生ではない。およそ5年という長い休学期間を経て、ようやく登校を再開したひとりの少女がやってくるのだ。

 桜の季節は先々週ぐらいに終わった。皆、新学期の授業や新しいクラスメイトたちにも慣れた頃合いである。

 ガラリ。

 教室の扉が開く。白髪交じりの男性教諭が入ってくると、いつも通り朝のホームルームというやつがはじまる。だが、今回ばかりは「いつも通り」ではない。

 教師の後ろから、すぅっとついて来る少女。噂の転校生だと、誰もが思った。

 そして、誰もが、その可憐さに息をのんだ。

「おお、なんだ。今日はやけに静かだな。いつもそれくらい大人しければいいんだが……。中学の2年生になってもまだ、ギャーギャー、ギャーギャーと、朝っぱらからうるさいのなんの……。まぁ、いい。今日からこの2年A組に新しく入る久遠さんだ。じゃあ、久遠さん、自己紹介、お願いできるかな」

 しわがれた声で小言を漏らすのはいつものこと。猫背気味で、低い背がより低くなっているのもいつものこと。

 教師になんら変わったところは見られないが、今日の2年A組は違う。その空気が違う。

久遠遙香くどおはるかです。よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げる。やがて顔を上げ、まっすぐ前を見つめる。そうして教室を包む、沈黙。消しゴムを落とす音さえ耳障りなほどに。

 さらりと揺れる黒髪は肩までの長さ。大きな瞳は琥珀色に煌めいている。手足はまるで陶器のように白く繊細。小さな唇から漏れた声は、まるで鈴を転がしたように心地よく響く。

 しかし、その容姿にはどことなく違和感がある。ごく一般的な美しさとはまた違う……。それが為に、皆一様に、こう思った。

 ——まるで人形みたいだ。

 そう。生きている者の美しさには無いような美しさを、遙香という少女は持っていた。

 故に、頭に浮かんだ感想は「綺麗」「可愛い」などの単純なものだけではない。彼らが抱いた別のもの。ことばにするなら、「なんか変」。

 だが、平凡な中学生活に訪れた、美しき闖入者に興味を抱かないものはない。遙香のその容姿に違和感があろうと無かろうと、やはり綺麗で可愛いのは事実である。

「えー……、ヤナショーで同じクラスになったヤツもいるかもな。久遠さんは、長いこと休学してたんだ。わからないことも多いだろうから、皆で助けてほしい。——それじゃあ、あの空いてる……ほら、窓際の席。あそこに座って」

「はい」

 教壇降りる遙香。まっすぐと指定された席へと向かうその姿を、皆が目で追った。黒板近くに座っていた男子生徒は、身を乗り出して振り返るほど。

 そっと席に着く遙香。

 その日、外は快晴。窓から降り注ぐ陽光が遙香を照らす。まるで一枚の絵画かのような美が、そこにはあった。


 皆で助けてほしい。というのは教師の本心から出たことばだったのか、定かではない。もしそうであるならば、まことに残念なことに、遙香に手を差し伸べる者はいなかった。

 なんなら話かけようとする者もいなかった。

 中学校のある「クラス」という閉鎖的な環境。そこで「変」とレッテル貼られた者の例に漏れず、遙香はすっかり孤立してしまったのだ。

 しかし、転校生がやってきて1ヶ月が経とうとしたある日の休み時間のこと。文庫本のページをそっとめくる遥香の前の席に、すとんと腰を下ろした女子生徒。

「何、読んでるの?」

 遙香は顔を上げた。瞳に映るのは、茶髪を短く切りそろえ、外側に跳ねさせた少女。ほどよく化粧もして、大人びた印象。加えて、彼女に負けず劣らずの美人だった。

 遙香は、突如投げかけられた優しげな問いに、思わず本を閉じてしまう。

「小説……」

 と、だけ返答。

「へぇ……面白い?」

「え、うん……まぁまぁ……」

「そうなんだ。ねぇ、久遠さんだっけ?」

「うん」

「わたし、有紗。月岡有紗つきおかありさっていうの、よろしく」

 差し伸べられた手。遙香はその手を取ろうとする。

 が、指先が有紗の手に触れるそのとき、遙香はためらい、そのままサッと、手を引っ込めてしまった。

 これがいけなかった。

「……え?」

 有紗は目を開く。

「あれ? もしかして潔癖症ってやつ?」

「え?」

「けっ、ぺき、しょう! ——聞こえた?」

「……違う…………」

 有紗の剣幕にたじろぐしかない遙香。「ふんっ」と不機嫌そうに鼻を鳴らして去っていくその背中を見つめていると、ちょうど休み時間の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。

 月岡有紗。

 東京に出向いたときに、モデルのスカウトを受けた経歴があるほどの容姿を持つ。誰とでも打ち解けてしまう性格であり、少年のような快活さと、少女のような愛らしさが同居したような魅力がある。クラスの人気者になるのに必至の存在だ。

 そんな有紗を中心として、5人ばかりが集まって「仲良しグループ」なるものを作っている。いつも和気藹々と、この上なく楽しそう。教師が言う「ギャー、ギャー」の大半は彼女たちである。

 まぁ、それだけなら良いのだが、困ったことに有紗たちは、このクラス、またはこの学年全体を自分たちが動かしていると過信しているところがあった。

 そんな彼女たちに睨まれてしまった遙香が、平穏無事でいられるはずがない。

 イジメ、というのがこの日からはじまったのだ。

 

 クラス全員が連絡を取り合うインターネット上のグループ。「そろそろ久遠さん、誘った方が……」という声が有紗によって打ち消され、遙香の存在に慣れようとしていたクラスがまた、張り詰めたような空気の中で過ごすことになってしまった。

 例の一件から一週間が経つころになると、遙香の私物が隠されることは日常茶飯事となる。たとえそれが見つかってもゴミ箱の中や、便器の中。ノートを開けば、筆舌に尽くしがたいほどの罵詈雑言が一面に書き殴られていた。

 誰が見ても、遙香の状況は目を覆いたくなるものだったはずだ。

 しかし、教師というのは、やはり利口な者がなる職業なようで、面倒ごとにはごく自然な素振りで、知らぬ顔を決めこみ、かくもスマートに日々を過ごしていくわけである。

 3限目の授業がはじまるチャイムとともに、教室に入ってきた遙香。トイレに向かった彼女の体は、大雨に降られたかの如く濡れていた。

 陰鬱な表情で席に着く遙香。その様子を後から教室に入ってきた有紗たちが、嘲笑を浮かべて見送っている。

 そうして、何事もなく進められる授業。

 今、およそ五年の空白を経てはじまった遙香の学生生活は、悲劇に終わろうとしていた。

 しかしそのとき、

「大丈夫?」

 授業が終わった休み時間。ずぶ濡れの遙香に、声をかけた者がいた。

 顔を上げる遙香。

 その目には、心底心配そうに眉を曲げた、痩身の少年が映る。見るからにスポーツや喧嘩なんかに縁の無さそうな優男。だが、人懐っこい中性的な顔立ちをしている。

 彼の名を、一ノ瀬誠いちのせまことという。

 呆気にとられた遙香は、二度ほど口をパクパクと開閉させると、

「うん」

 と、だけ言った。

 果たして、いったいいつぶりだろうか。他人に心配されるなんて。

「着替えたほうがいいよ。寒いでしょ」

「あ、いや、うん……寒い……」

「じゃあ、早くした方が良いい。風邪引いちゃう。ほら」

「あ、うん……!」

「いや、でもあれか……着替え、無い?」

「うん……。でも……体操服あるから大丈夫」

 遙香はほんの少し、誠から目をそらす。というより、直視できなかった。

 目をそらしている間。心の内に伝えたい言葉を探す。それを見つけて、もう一度、誠の方を見る。見つめる。そして、

「ありがとう」

 果たして、いったいいつぶりだろうか。他人に笑顔を向けるなんて。しかも、雲から太陽が顔を出すような自然さで、笑うことができるなんて。

「あっ……」

 たじろぐのは誠。それに無理もなく、なんせ彼はまだ中学生。何が恋で、どれが恋なのかも知らない年頃。顔を赤くしていることなど、気づく余裕すらない。

「着替えてくるね」

「あ、うんっ……。その……行ってらっしゃい……」

 教室を出ていく遙香。クラスメイトの誰も、彼女を見ていない。その視線が向かう先は、誠。少しぎこちなくなった笑みをたたえたまま、硬直する少年の姿。

「な、なんだよ! 見るな、見るな!」

 全身に視線が刺さるのに気づき、虫でもはらうように手を振って、声を上げる。

 散り散りになるクラスメイトたち。皆がそれぞれの休み時間を過ごそうと動き出す。ついさっき起こった、誠と遙香についての話を携えて。

 キーン、コーン、カーン、コーン。

 やがて、チャイムが鳴る。それは休み時間の終了を告げるだけのものではなく、遙香を取り巻く環境が変わったことを示すものでもあった。

 なぜ、有紗が遙香から手を引くことになったのか。それは他でもない、誠が遙香に声をかけたからであった。

 一ノ瀬誠という少年は、およそ1年前、この柳川中学にやってきた正真正銘の転校生である。しかも、なんと彼は、当時から取り巻きたちを従えていた有紗と、同じクラスになっていた。

 穏やかな物腰で、誰にでも優しい。しかも顔も悪くない。加えて、いざというときには自らの意見をずばりと言ってのけてしまう思い切りの良さも手伝い、誠はまわりから一目おかれる存在となっていた。

 一目おかれる、だけではない。その初恋を密かに捧げた女子生徒も少なくない。

 実は、有紗もその一人だった。

 自分が除け者にしている遙香の前に、颯爽と助けに入った誠の姿。「ありがとう」と言われて赤くなる彼の頬に、有紗の胸がチクリとした痛みにうずく。

 何が失恋で、どれが失恋なのか。わからない有紗ではない。その日、彼女は仲間たちに「先に帰るね」と言った。

 ただひとり帰る道中にて、少し泣いた。


 それから日が経ち、葉桜もいっそう青々としてきた頃のこと。陽の光がより暖かくなり、皆がわずかな汗を額に光らせている。

 いつも独りでとっていた昼食。だが、その日は遙香の前に女子生徒が二人ばかり座っていた。ようやく彼女は、友人と言える存在に出会うことができたのだ。

 2年A組に、あのころの殺伐とした空気はない。有紗が身を引いたことも要因だが、遙香が笑うようになったことも大きい。

 どこか冷たく、近づきがたい美しさのあった遙香だが、笑うと中学生の女の子らしい可愛さがあった。

 ——なんだ、普通の子じゃないか。

 そう思いなおすクラスメイトたち。

 有紗や誠と違って人気者となることはなかったが、遙香はクラスメイトから話しかけられる機会が増えた。その変化に、彼女自身が気づかないはずがない。

 誰かに話しかけられるたび、誰かと話すたび、そして笑い合うその瞬間が訪れるたびに、遙香は誠のことを思い出していた。

 一方で、誠も遙香のことを考えることが多くなった。彼にとっては異性をここまで思うことなど、はじめての経験である。

 誠は焦る。いったいこれは何だと。自分はいったいどうしてしまったんだと。

 あのとき、遙香に声をかけたのは、悪しき現状を変えてやろうという一心だったはずだ。しかし、彼女がクラスにやってきて以来、ずっと気にかけていたことも事実である。

 それは転校生として、有紗たちの気難しい性格に苦労した経験があったがためだ。言わば、このクラスの先輩として、遙香の前に立とうとしただけだ。

 断じてやましい考えはない!……はずである。

 ホームルームが終わり、思い悩む誠は、気の良い友人に相談してみる。

「侍かよ」

 と、一蹴されてしまう。

 遙香について特別な感情があった。彼女の人形じみた美しさとは別に、人間じみた儚げな空気感に惹かれていた。このことについて、誠はもう認めざるを得ない。

 ここで友人が物知り顔でこんなことを言ってのける。

「あのさぁ、あれやこれやと理由なんかどうだっていいわけよ。な? 伝えたいことはさ、伝えるべき! お前らしくないぞ誠」

「伝えるって……何を伝えるんだよ」

「お前……俺に言わせるのかそれを。ほら、見ろよあれ」

「え?」

「校門の方。あれ、久遠さんだろ?」

「あ、ほんとだ」

「行ってやれよ」

「行って……え?」

「え? じゃなくてさ。待ってんじゃないの? お前のこと」

「ばっ! なっ、何を……そんなわけ……」

 誠は教室の窓から、もう一度校門の方を見る。橙色に焼ける空の色に照らされ、柔らかな風に髪を揺らしている。門の端に背をもたれさせているその姿は、たしかに誰かを待っているかのようだった。

 友人に背中を押され、押され、ようやく教室を出た誠は、校門へと向かう。遠くの方で、運動部連中の威勢のいい声が聞こえる。部活に入っていない者は、もう皆帰ってしまっている時間だ。

 辿り着く誠。

 顔を上げる遙香。

「……一ノ瀬くん」

 微笑むその表情に、誠は心の琴線が鳴るのを聞いた。

「ああ……えと、久遠さんか。どうしたの?」

「えっと……あのね?」

「うん……」

「その……いっしょに……帰らない?」

 さて。

 肩を並べて、帰路を歩く二人の背中を、夕日が優しく照らしている。彼らの視線の先で、ぐんと伸びた自らの影が、歩みに合わせて揺れていた。

 何か話そうとすればするほど、言葉が出てこない。誠は、過去に経験のないほど緊張していた。

 ——こんなとこ、誰かに見られたら迷惑じゃないかな……。

 などと考えると、伏せた顔がそのまま上がらない。自分の所為でまた遙香が独りきりになってしまえば、申し訳なさと恥ずかしさで、どこにも顔向けできない。

 そんなことを悶々と考えていると、

「ねぇ、一ノ瀬くん」

 遙香が口を開く。少し俯いたまま、遠慮がちに言葉をつむぐ。

「あのときは、ありがとう……」

「えっ! ああ……いや、別に……」

 遙香が言う「あのとき」というのが、誠には分かる。

「今更だよね……」

「いやいやっ、そんな……。こちらこそ、ありがとう……」

「……どうして?」

「え?」

「どうして一ノ瀬くんが『ありがとう』って……」

「ああっ! いやっ……『ありがとう』って言ってくれて、ありがとう……。っていうか……そのまぁ、大したことしてないし……ぼくもなんかそこまで感謝されちゃうとその、照れるなぁって……」

 こぼれ落ちるように出たことばに焦り、早口になる。そんな誠の様子に、遙香はふきだしてしまった。

 口元に手を当てて、品のある微笑をたたえる遙香を前にして、誠はまた言葉を詰まらせてしまう。

 と、そこで隣にあったはずの遙香の影が消える。彼女が歩みを止めたことに気づいた誠は、静かに振り返った。 

「どうしたの?」

 夕日を背負い、遙香の姿は昏くなっている。

「一ノ瀬くん……話したいことがあるの……」

 遙香が言う「話したいこと」がなんのことか、誠には分からない。校門前で自分を待ってくれた女の子の「話したいこと」がいったい何なのか……。

 ごくり。

 唾を飲みこむ音が、遙香に聞こえていないことを祈るばかり。

「なに?」

 平静を装う誠。できるだけ緊張していることを悟られまいとした。そうすることで、遙香も話しやすいだろうと考えたからだ。

「わたしが、学校を休んでた理由って……知ってる?」

「え?」

「5年……長い間、学校を休んでたの」

「ああ、いや……知らないな……」

 確かに遙香がなぜ、それほどまで長期間、休学していたのかは謎のままだった。あまり気にしたことはなかったのだが、改めて提示されると、興味が出てくる。

 遙香は、うっすらと笑みをたたえたまま、話しだす。しかし、その声は震え、その両手は何かに縋りつくようにして握り合わされている。

「わたしね……5年生のとき、事故にあったの」

「事故……」

「そう……とても大きな事故……。京都に行ったときにね、お母さんとタクシーに乗ってたんだけど、そこで……」

「い、いいよ! 無理しなくて……」

「大丈夫……わたし話したいの、一ノ瀬くんに……!」

 明らかに辛そうな遙香に、誠は思わず割って入ってしまう。だが、彼女の瞳は何か大きな決意をしたような強さが宿っていた。

「車にね、真横から当てられて、近くの川に落ちて……。お母さんは死んじゃったけど……私は何とか助かったの……でもね?」

 遙香はそっと左腕を上げた。まるで手招きでもしようとするかのような手つきだ。呆然とする誠に向かって、

「触って?」

 と、一言。

「えぇっ!」

 今日一番の大声がここで飛び出る。

「さわっ……え? どういう……」

「手、触ってみて?」

 声が震えている。今にも泣きそうな声。限りなく勇気を振り絞った末のことばであることを、誠は直感的に理解した。

 一歩、また一歩と、おもむろに遙香に近づく。

 差し伸べられた白い手。そっと毛布をかけるかのように、誠の手が重なった。

 ——冷たい……。

 確かに夕方になって少しばかり気温が下がってはいるが、ここまで冷たくなるわけがない。

 遙香の手には、まるで生気がなかった。

 それだけではない。指先に伝わった柔らかな感触は、人の肌に対して感じるものではなく、まるで異質。人間に触れているはずなのに、人間以外の何かに触れている気がする。

「気持ち悪いでしょう?」 

 遙香はそう言うと、そっともう片方の手を、誠の手に重ねた。

「そんなことないよ」

 誠の語気は、少し強い。それは、今確かに自らの胸中に生まれたであろう感想を、打ち消そうとするためだった。

「この手……ほんとうの手じゃないの。つくりもの……。手だけじゃない。足もそう、両方とも……。この爪も、髪も、肌も……。内臓だってそう……」

 言いながら、誠の手を引くと、自分の胸に触れさせる。

 トクン、トクン、トクン……。

 遙香の鼓動が指先に伝わるが、今にも誠の心臓は止まりそうだった。顔も、そのまま湯が沸かせるかのように熱くなっている。

「ね? 心臓も本物みたいでしょ? でも違うの……偽物。わたしの体は、ほとんどが機械でできているの」

「そんな……」

 ——そんなわけあるか!

 しかし、そのことばが出てくることはない。遙香の感触の、その異質さを認めてしまった以上、否定ができない。

「わたしのお父さんはね……ロボット医学の博士なの。けっこう有名みたいで、今も色んな人の手術をしてる……。事故で足をなくした人や、癌で胃を小さくしなくちゃいけない人……。それをみんな機械で代用するの」

「それで君は……」

「うん……。お父さんに救ってもらった。でもね、わたしはもう、事故に遭う前のわたしじゃない……。体中が機械になってて……残っているのは左目と、脳と、歯がちょっと……」

 ぎゅっと誠の手が握られた。わずかに震えている。

「わたし……自分が人間なのか、機械なのかわからないの……。ほんとうは、死んじゃってるんじゃないかって思うこともある……。だから、月岡さんにも触れられなかった……。つくりものだって……ロボットだって、言われるのが怖くて……、怖くて…………」

 ぽつ、ぽつ、と雨のように、遙香の瞳から涙が流れる。涙が彼女の手を伝い、誠に辿りつく。

 涙というには冷たすぎる。涙腺さえ、機械で代用しているのだ。ゆえに、誠の手を濡らしたのは、水滴に過ぎない。が、彼にとっては涙だった。涙以外のなにものでもない。

 ——そうか……久遠さんが話したいことって、このことだったんだ……。

 誠は知った。

 遙香が休学していた理由。

 遙香の抱える、深い哀しみ。

 その心の内にある悩みと、恐怖。

 そして、それらを打ち明けるためにどれほどの勇気が必要だったのか。

「久遠さん……」

 誠の声に、遙香は顔を上げた。

「ありがとう、打ち明けてくれて……。こうして……こうやって手を握ってくれていることが、どれほど辛いことか……正直……その、わかるなんて言えないけど……でもね?」

 誠は遙香の手に、もう片方の手を重ねる。まるでそれはガラス細工に触れるような優しさで。そして紡がれることばは、雨が大地を濡らすようにして、遙香の心へと染み込んでいく。

「久遠さんは、機械なんかじゃない。死んでるわけない。こうして泣いているのが、何よりも証拠だよ。生きているし、久遠さんは、久遠さんなんだよ」

 伝えたいことばの半分も言えない。ただ、誠はわかって欲しかった。遙香は皆と少し違う道筋を辿ってきただけの、普通の女の子だということ。全身のほとんどが機械だということが事実だとしても、彼女は確かに一人の人間だということ。

 そして、自分にその境遇を打ち明けてくれたということへの感謝を。

「一ノ瀬くん……」

 凍えた心が溶けてゆく音がする。遙香は涙で潤んだ瞳に、誠を映した。

「ありがとう……。わたし、あなたに逢えて、ほんとうによかった……」

 微笑む遙香。閉じた目からは、ぼろりと大粒の涙がこぼれ落ちる。そんな彼女を前にして、誠は胸が熱くなるのを感じた。

 いますぐ、抱きしめたい。しかし、堪える。遙香に触れるには、まだまだ自分は「男」が足りない。そう思う誠であった。


 それから数日、数ヶ月。春はとっくに過ぎて、夏の盛りがやってこうようという頃。柳川中学は、来たる体育祭に向けての準備に奔走していた。

 1年から3年のA組、1から3年までのB組……という組分け対抗での決戦。あそこのクラスには負けぬと燃えるのは、どの組も同じだ。

 そして、それぞれの組には男女のリーダーが配置される。2年A組には、誠と有紗がその役割を担った。

 遙香を巡って、静かに火花を散らしていた二人だ。そんな二人が、どうして手を組み、肩を組み、組を率いるリーダーとなったのか。

 もともと人の前に立ち、先導するのが好きな有紗。リーダーの選出の際、誰よりも早く手を上げた。しかし、そこで、男子のリーダーに誠が立候補したとき、彼女はその手を下げようかと思い悩んだ。

 だが、ここで身を引いていいのか。自らに問う、有紗。ここで手を下ろすことは、誠から逃げるということになるのでは、と思った。

 このとき、すでに誠と遙香が「ただの知り合い」ではないことは周知の事実だった。もし、ここで有紗がまだ遙香に対して敵意を抱いていたのなら、やっぱりやめる! と、不機嫌そうに手を下ろしただろう。

 だが、有紗はそうしなかった。あくまでも誠ととは協力関係にあると示すことによって、彼女なりの遙香への贖罪とすることに決めたのだ。

 そしてそれは、誠との決別も意味する。

 誠も、有紗の変化に気づかない男ではない。

「がんばろうな」

 手を差し伸べる誠。自分を避けていた有紗が、もう一度ひとりの仲間として隣に立ってくれることが、とても嬉しかった。しかし、

「そういうの、やめときなよ」

じっと睨みあげ、ため息をつくようにして言う。

「あんたが思うより、女の子って面倒くさいんだから」

 ふいっと顔を背けて、離れてしまう。

 結果、二人はとても良い相棒となっていた。主導するのは有紗。そのサポートを誠が背負う形だ。まぁ、何も知らないクラスメイトからすれば、当然の成り行きではあるのだが……。

 しかし、ここで事件が起こる。いよいよやってきた、体育祭の開会式のことであった。

 組全校生徒が見守るその中。他のリーダーとともに校長に宣誓を述べようと、歩き出したそのとき、誠が倒れた。

 あまりにも不意の出来事に、その場の誰もが声を失う。隣を歩いていた有紗も、振り返るまで誠が倒れていることに気づかなかった。

 雲一つない快晴。

 盛夏の空の下。

 誠はそのまま目を覚ますことはなかった。


 体育祭が終わり、A組の優勝が祝われたそのころ、誠の体は手術台の上にいた。目を閉じた彼の頭は、さまざまな医療器具を手にした医者たちによって、開いたり、閉じられたり。

 大がかりな手術だった。終わったのは深夜0時を過ぎようとしたころ。その間、ずっと手術室の外で待っていた少女がいた。

 遙香だ。

 誠が病院に担ぎ込まれてからずっと、外の待合の椅子に座っている。

 座って、ただ祈っていた。

 ——どうか……神様お願いします……。一ノ瀬くんを……誠くんを救って下さい……!

 遙香は祈り続けた。重ねた手を額にあて、目を閉じて。その頬を、涙が一滴伝っていく。

 ——どうか……どうか……お父さん……お願い……!

 その病院は、遙香の父である久遠隆二くどおりゅうじが経営する大病院だった。

 手術室には、隆二が立っている。


 朝が来た。

 白いベッドの上には、頭に包帯を巻いた誠が寝かされている。その傍らには遙香の姿。そっと、彼の手を握ったまま、彼女もまた眠りについていた。

 夏の朝日が、若い恋人たちを照らしている。

 その様子を見つめる人影がふたつ。

 白衣を着た、ひげ面の男。縁のないメガネの奥には、鋭さのある目。ぴんと伸びた背筋が、高い背丈をより強調している。

 そんな隆二の隣には、助手の女性がひとり。

 非対称の短めの髪を、ほんのりと赤く染めた妙齢の美人。彼女の表情は、隆二と比べるとかなり険しい。

 なぜか。

 助手の女性は言う。

「認知コイルは予定通り正常域に達しています。脳波も異常ありません」

「それはよかった」

 女性は隆二を横目でちらりと見上げて、言った。

「先生……本当のこと、言わなくていいんですか?」

「……本当のこととは?」

「一ノ瀬誠のことです……」

 女性の目は、遙香と誠を映している。

「なぜ言う必要がある?」

「それは……。彼女は真実を知りません。このままあの、一ノ瀬誠……いや、佐野裕太と交流を続ければ……」

「続ければ、どうなると言うのかね? 見なさい、遙香の顔を。ああ……ルナに……母と似て優しい子に育ってくれた……。彼女が、真実を知ってどうなる? 一ノ瀬誠が、かつては佐野裕太という孤児だったこと。彼の脳を手術し、遙香に好意を持つようにプログラムしていたこと。これらの真実が、今の遙香に必要かね? ……計画は成功だ。遙香は苦難を無事に乗り越えることができた。愛を知ることができた。助手の君なら、共に喜んでくれると想ったのだが……」

「ですが、先生——」

「真実は」

 すがることばは、遮られる。

「いつも他の事実より重要だとは限らないのだよ」

 隆二はそう言うと、踵を返す。もう話は終わりだと背中で語った。

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