空飛ぶユートピア。
後藤文章
対人戦闘用学生服
春。桜並木美しい、
ゆえに、いま、幸平は孤独である。
人見知り……といえば人見知りであるが、誰かと話すのは苦ではない。自らが先んじて話しかけられるほど外交的ではないという具合。
一限目の休み時間。周囲がそれぞれの知人友人と会話を弾ませているなか、幸平はひとり、黒板をじっと見つめていた。何も好きでそんなマネをする男ではない。ただ「誰かに話しかける」ということが、できないだけだ。
そこに、
「あの……」
声をかけてきた少年。背が低く、小太り。メガネをかけ、顔中にそばかすを散らした彼は、おそるおそるという様子で幸平を覗きこむ。
「は、はじめまして……。ぼく、あの……太田っていうんだけど」
「ああっ、はい! えっと……おおた……くん」
「そう……。あの、その……」
「おれ……三宅って」
「あっ、みやけくん……」
「そう……」
「あの……ごめん……。突然声かけちゃって……」
「いやっ! そんな……別にいいよ……」
「なんだか……その、知り合いがいなくて、さ……」
「あっ、やっ、おっ、おれも! おれもなんだよ……。なんか……気まずいよな」
「そうだね……。三宅くんって、中学は……」
「ヤナチュー」
「ヤナチューって、ここの……」
「そうなんだけど、みんな東京とかの高校に行っちゃって……」
「へえぇ……。ぼくは東京から来て……」
と、いう具合。たどたどしくも会話を続けていると、お互いが状況を同じくしていることがわかり、意気投合。寂しさ抱えた見ず知らずの少年たちは、こうして友人と呼び合う仲になったわけである。
しかし、この
「おい! 太田ぁ!」
およそ三ヶ月後、朝一番の授業が終わった教室にて、
この、頭髪を金と黒で縦に割った個性的な髪型の男。柳川中学では札付きの不良で有名であり、もちろん幸平も知らないわけではなく、知り合いなわけがない。誠司にしてみれば、彼など同じ中学の出身かどうかなども知らないぐらいだ
そんな誠司に目をつけられた真澄は、
「な、なに……二階くん……」
と、すっかり怖気づいている。こうした者は、誠司のようなならず者にとっては格好の獲物となり得るわけで、
「なに? じゃねぇだろバカ! なんですかだろ?」
「な……なんですか……」
「ちょっと来いよ……。はやく! おせえんだよ全部!」
「ご、ごめん……」
「はい、これ」
「な、なに、これ……」
「見りゃ分かるだろうが、宿題だよ。今日の3限に出すやつ!」
「これを……」
「おい……全部言わなきゃわかんねぇのかよこのデブ! おいデブ! おいっ! これ、やっとけってことだよ!」
「やっとけって……」
ノートを持たされて、あたふた動揺する真澄。しかし、彼を助ける者はおらず、逆に誠司の後ろから取り巻きたちが、おれも、おれもと宿題を押しつけにくる始末。
「こ、こんなに出来ないよ……」
今にも泣き出しそうな真澄。その様子に誠司はカッとくる。椅子から腰を上げたかと思うと、胸倉をガシッと掴み、その鼻筋にパカンッ! と頭突きを一発。
「いっ……!」
ぐらりと体勢を後ろに崩し、尻餅をつく。真澄の鼻からはどくどくと赤い血が流れ出てきた。
「ごちゃごちゃ言ってんじゃんねぇぞブタ! てめぇ、三限までにやってなかったら殺すからな」
そう吐き捨てて、真澄の胸を一蹴り。ゲラゲラと笑いながら取り巻きたちと教室を出て行った。
落としたノートに囲まれ、鼻血でシャツを汚す真澄の姿を、幸平は黙って見つめることしかできなかった。
——まっすん……ごめんな……。
心の内で頭を下げる。幸平は、誠司の凶暴さを知っている。女子であろうと教師であろうと、カチンときたらバチンと手が出る男だ。それなのに顔は良く、妙に人好きするらしく、他府県の不良ともつるんでいるのを伝え聞く。
かといって、幸平はこのまま親友を放っておけるほど冷めた男ではない。鼻孔にティッシュを詰めながらベソかく真澄を見つめ、彼は決心する。
その後毎日、誠司による真澄へのイジメは続いた。だが、あるとき、
「おい! 二階!」
と、怒鳴る声が、体育館の裏で響く。
「……あん?」
振り返る誠司。その手は真澄の胸倉を掴んでいた。今にも殴りつけそうな気配。そこを止めに入ったのが幸平だった。
その日、誠司は一人。いつもの取り巻きはいない。幸平はこの機会をずっと狙っていたのだ。
——ケンカなんか小学校以来してないけど、一対一ならばまだ勝機はあるはず!
しかし、現実とは常日頃から残酷なもので……。
「おい、もう終わりかよザコ」
飛びついた幸平の腹に膝蹴り。次いで顎を肘でもってカチ上げられ、あっという間に勝負はついてしまった。
さて。
それからというもの、イジメの標的は真澄から幸平へと変わってしまった。
宿題をさせられるのは当たり前。罵詈雑言も当たり前。すれ違うだけで腹を殴られ、背中を蹴られ。何か言おうものなら頭突きを食らい、帰り道まで付け狙われ、側溝にずどんと落とされることもしばしば。
そんな、幸平を前にして真澄は、
「………………」
ただ、黙するのみ。こっちを見ようともしない。
幸平は項垂れた。誠司たちによる暴力の嵐よりも、親友の真澄が自分を無視していることが——彼が自分を裏切ったことが、何よりも堪えた。
帰り道。夕日に染まるその道の真ん中にて、深いため息をつく。
「はあぁ……」
と、そんな幸平の背後から、声をかける者がいる。
「コーヘー? どうした、どうした、そんな有様で。泥だらけに傷だらけ。高校デビューというヤツか? ずいぶんわんぱくになったものじゃないか」
「河井戸さん……。高校に入って『よし! 元気に外でどろんこ遊びだ!』ってなるヤツがいると思うか?」
呆れて振り返った幸平の目に、ぼさっとした白髪頭の老人が映る。ぎょろりとした目の下には深い隈をつくり、ぼろきれのような白衣を着ている。
ぺらぺらぺらぺら早口でまくしたてるこの男の名は、
「すまないなコーヘー……。どうしても一つふざけてみたくなったのだ。そうしてないとな、泣いてしまいそうで……」
「な、なんで河井戸さんが泣くんだよ」
「だって、コーヘー! 君、イジメられているんだろう? ここ最近、ボロ雑巾のようになって帰ってくる。誰だ! 誰がやったんだ!」
「いやいや、落ち着いてよ河井戸さん……。別にその……イジメられているわけじゃ……」
「イジメられていない? そんなわけあるか! イジメを受けた君みたいな少年はな、みなそう言って、大人たちを巻き込まないようにしようとする! 『ぼくらの問題』かなんだか知らないがな。辛いのなら辛いというべきだ……。大人とはなコーヘー。そのために、君たちの側にいるんだ……。さぁ、話したまえ。えぇ? 何があったんだい?」
幸平は河井戸へ振り返る。彼の目は確かに潤んでおり、心配そうに眉をハの字に曲げている。
「ふっ」
と、思わず噴きだしてしまった。表裏のないこの好々爺に隠し事など無用だと思い出したからだ。幸平と、河井戸はかなり長い付き合いになる。
共働きで夕方過ぎまで家をあけることの多い幸平の両親。ゆえに、彼は学校から帰ってくるといつも一人だった。そんなとき、幼い彼の寂しさを癒したのが河井戸である。
河井戸は、自作の「発明品」とやらを幸平に見せると、その使い心地や感想などをしつこく求めた。思ったことをそのまま述べると、喜んだり悲しんだり。喜怒哀楽をその身全てで表現した。そういう性格である。
なんだかこの人面白い……。そう感じるようになったころにはもう、幸平は寂しくなかった。だが、まぁ、両親にしてみると、息子が常々不審者として掲示板に張り出される奇怪な老人と話しているのは、いい気がしない。それどころか、愛息の身の安全のために、許しておけない。
そのため、幸平と河井戸はひっそりと交流を続けていた。それは不思議なスリルがあり、彼らの縁を永く繋げていく一助となった。
「ありがとう……」
幸平はぽそりと河井戸に礼を言うと、かくかくしかじか、事の経緯とその有様を語った。
ふんふん相槌を打ちながら、耳をそばだてていた河井戸は、
「うーん……」
と、唸ったまま黙り込んでしまった。腕を組み、目を閉じた河井戸に幸平が、
「どうしたの?」
「コーヘー……。君はとても運がいい」
「運がいい? いいわけあるかよ……。友達を助けたのに、そいつに裏切られて、ボッコボコのケチョンケチョンにやられてるんだぞ!」
「まぁ、まぁ、怒るなコーヘー。とりあえず、家に来なさい。とっておきの発明品がある」
「発明品? もういいよ、そんな……」
「いいや! 来るんだコーヘー! きっと君を助ける大きな力になるはずだ」
そうしてやってきた住宅団地。正武団地と呼ばれるこの一角で、ひっそり河井戸は住んでいる。部屋番号は501。研究室、実験室、発明部屋、クリエイトスポットなど様々な名があった。
「で? いったいその発明品ってどこにあるの?」
消毒アルコールのような匂いが充満する部屋。床に散乱したゴミを踏まないようにそろりそろりと歩く幸平の前で、河井戸はガサゴソと何かを漁っている。
「これだ!」
河井戸が手にした何かをバッと広げた瞬間、ほこりが上がる。思わず目を閉じ咳きこむ幸平。そんな彼が次に見たのは、何の変哲も無い学生服だった。
「なにこれ?」
「学生服さ。ちょうど君の高校と同じデザインにしてある」
「同じデザインって、何でうちの制服持ってんの? 盗んできたとか?」
「バカを言え。作ったのだよ。しかも、ただの制服ではない……」
にやりと不敵に笑う河井戸。爛々とした瞳がより鋭く光る。
「その名も! 対人戦闘用学生服だ!」
対人戦闘用学生服。河井戸が仕立てたそれは、学生服仕様のパワードスーツである。着た者の戦闘力を格段に跳ね上げ、あらゆる危機からその身を守る術を手軽に実現した画期的な発明品……らしい。
「これを着たら、その二階か三階かわからんやつなんか敵じゃないぞ?」
「いやいや、こんなの着ただけで強くなれるなんて……」
「信じられないとでも? ならば早速着てみるべきだ! さぁ、早く!」
言われるがまま着替えさせられた幸平。制服からまったく同じ制服に着替えるなんて、馬鹿らしいことをさせられていると思っていると、
「とりゃあぁっ!」
突然、幸平の顔に河井戸の拳。声を出す間もなく、鼻っ柱を殴られた。
かと思いきや、かくんと左に首が傾き、拳は幸平の肩の上を通過。河井戸の懐深くに足を踏み入れると、その鳩尾にずしんと思い一撃が放たれた。
「ごふっ……!」
目をかっ開き、膝をつく河井戸。慌てて幸平が駆け寄った。
「だっ、大丈夫? 河井戸さん!」
「だい……だいじょう……ぶだ……。はぁ……はぁ……どうだい分かったろう……。この対人戦闘用学生服の力が……」
幸平が身につけたそれは、彼よりも早く河井戸の攻撃に反応。放たれた拳を避けるよう、そして追撃するように布地が動いたのだった。
「すごい……」
両手のひらを見下ろし、幸平は呟く。河井戸の言うとおり、これなら誠司たちを打倒することができる。
「いやはや……。もとは君を守るために作ったのだがな……」
「おれを守るため?」
「君だけじゃない。この町の学生諸君全てだ。最近は物騒だからな……。ついこの前にも、ここらで不審者が——」
「おい! ホネ野郎! 飯食ってんのかよ!」
「しけたツラしやがって、ぶっ殺すぞ!」
「こっちこいよ! 遊んでやっからよ!」
胸の空くような晴天。その下で本日も幸平に罵声が降りかかる。声の主はもちろん誠司と、その取り巻きたち。いつもは何となく「やめてよ~」と笑って済ませているが、今日は違う。
ギロリと睨みつけると、鼻を鳴らしてそっぽを向いてやる。胸を張って教室へと歩く幸平の背中に、呆ける誠司たち。
「なんだあいつ?」
誠司の胸中は怒りで満たされ、すぐに後をつける。背後から肩をガッと掴むと、
「ツラかせよ」
と、取り巻きたちと幸平を囲み、そのまま体育館裏へと連れ去ってしまう。
本来であれば、恐怖と焦りからパニックになるところではあるが、この状況は幸平にとっても好都合だった。人目があると、この学生服の性能をいかんなく発揮することは難しい。
「なんのマネだよお前」
ドスを利かせた声でつめ寄る誠司。だが、幸平はそんな彼から目を離さずに、
「マネ……? なんのことだよ。あのさぁ、授業がはじまっちゃうから、もういい?」
呆れたように笑いを含めた幸平のその態度。誠司の拳を飛ばす理由としては、あまりにも充分すぎた。
グッと踏み込んだ誠司。勢いそのままに右拳を幸平の鼻っ柱に放つ。しかし、その一撃は空を斬る。驚く間もなく、自身の腹に伝わった衝撃に、
「ぐはぁあっ!」
と、痛々しく呼気を吐き出す。
唖然とする取り巻きたち。なんせ目の前であの幸平があの誠司の右ストレートを軽く避け、そのまま腹へ一撃を食らわせたのだから。
「何見てんだよ」
幸平が嗤う。足下には誠司がうずくまっている。一体何が起こっているのか理解するよりもまず、反射的に反撃へと入る取り巻きたち。
「この野郎!」
と、殴りかかる者の腕をとり、逆手にきめる。足を狙う者あれば、サッと避け、逆に膝の側面を蹴りつける。掴みかかってくる者には、顎を肘でカチ上げてやる。
とにかく速く、繰り出される一撃はずしりと重い。喧嘩には自身があった誠司ではるが、こうされては自らに謙虚になりそう。だが、プライドがそうはさせない。
「てめぇっ! ふざけやがって……!」
髪を掴む。そのまま頭突きに持っていこうとする最中、幸平の左ストレートが顎を捕らえた。
ぐらりと揺らぐ視界。その中で四方から襲いかかる取り巻きたちを、コテンパンにしていく幸平が映る。
——ふざけやがって……!
薄れゆく意識の中、誠司はそう喘いだ。
体育館裏で五人の男子生徒たちが乱闘。うち四人が打撲や裂傷を負い、残りの一人は病院に担ぎ込まれる騒ぎとなってしまった。
このニュースは柳川高校中を瞬く間に駆け巡る。誰と誰がやりあったのか。あの二階だ……。相手は三宅というらしい……。一体誰だ三宅って……。
そんな声を聞いて驚いたのが、真澄だ。
「コーヘー……」
騒々しい教室で、一人呟く。自分を守ってくれた親友が、かつて自分を脅かしていた存在と対決した。彼の勇気に心を振るわされると同時に、グサリと刺されたような痛みを覚える。
——ぼくは何をやってるんだ……。コーヘーは勇気を出して立ち向かったのに、勇気を出してぼくを守ってくれたのに……。見捨てた……。ぼくは、コーヘーを見捨てたんだ……。
突っ伏す真澄。あふれ出る涙が机を濡らした。
一方で、幸平。白い天井を見上げ、全身を走る激痛に顔をゆがめている。五人のうちの一人というのは、彼のことを指していたわけで。
無理もない。喧嘩などほとんどしない幸平の体を、喧嘩どころか抜群の戦闘能力を持った学生服が、ぐんぐん強制的に動かしたのだから。
全身の十六カ所を捻挫。強く殴ったり、蹴ったりしたために皮膚も破ける始末。全治二週間という怪我を負った幸平のもとに、見舞いが来た。
「大丈夫か? コーヘー……」
河井戸である。
「ああ、体中のあちこちが痛くて痛くて夜も眠れないぐらいだけど、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないじゃないか! ああ、ごめんよ……私のせいだ……。あんなもので仕返しさせようなんて……」
「謝らなくていいよ河井戸さん……。ねぇ、そんな顔しないで? 闘いははじまったばかりなんだから」
「闘い?」
「そう……。二階たちは必ず仕返ししてくる。それを打ち負かすのには、やっぱりアレが必要だ。怪我が治ったら、トレーニングするつもりだよ。アレを使いこなすためにね」
「そ、そんな……! いいのかコーヘー! 辛い道のりだぞ……?」
「心配ないさ。男に二言はない。おれはやるよ。こいつには敵わない! って思わせなくちゃいけないんだよ。絶対にね」
たった一度の闘いが、あの内気で平和主義な幸平を、変えてしまったようだ。
怪我から復帰してしばらくしたころ、幸平の前に真澄が現れた。二限目の授業が始まる少し前。廊下をひとりで歩いていると、
「コーヘー……」
泣きそうな顔で突っ立っているかつての親友。久しぶりに口をきいたが、そこから得られるのは感慨ではなく、絶望に近い哀しみ。
「どいて。授業、はじまっちゃうから」
幸平の声は冷たく響いた。真澄は痛む胸に顔をしかめるが、ぐっと声を絞り出す。
「よかった……怪我治って……。ほんとによかった……」
「……それだけ? じゃあ、遅れるから。おれ、行くね」
「ま、待って!」
通り過ぎた幸平の背中に、手をのばす。もう、ほとんど泣き声だった。言いたいことが心の内で溢れるだけ溢れかえってことばにならない。喉元でつっかえて声にならない。だが、ただひとつ、ぽつりと、降り出した雨の如くこぼれ落ちたものがあった。
「ごめん……」
そのことばに、幸平の足が止まる。
「ごめん……。ごめんね……。無視して……見捨てて、ごめん……」
幸平は目を閉じた。歯を食いしばった。手の平に爪が食いこむほどぎゅっと握り、心に浮かんだ感情を抑えた。
ダッと駈け出す幸平。真澄が呼ぶ声に耳を塞ぎ、一目散に走った。
はじめて会ったときのこと。話し合い、笑い合った日々のこと。それらすべてが脳裏に甦った。嬉しかったからだ。謝ってくれたこと、いや、そもそも声をかけてくれたことが嬉しかったからだ。
しかし、認めるわけにはいかなかった。幸平は真澄を許すことが出来るほど、彼をもう一度親友と呼べるほど、まだ勇気のある男にはなれていない。
その日の放課後、帰り支度をする幸平に、誠司たちが声をかけた。
「おい、三宅……。再来週の日曜、6時、五月川の土手に来い」
「……なんで?」
「うるせぇ。来なきゃあのデブ殺すからな」
言うだけ言って去っていく。幸平は、深くため息をつくと、カバンを背負って教室を出た。
向かう先は、正武団地にある小さな公園。スポットライトのように夕日があたるそこで、制服姿で汗を流す幸平。そばには河井戸。
「はぁっ! ふんっ! はぁ……はぁ……。ふんっ! はっ!」
「どうしたコーヘー! 息が切れてきたぞ!」
「はぁっ! たぁっ!」
河井戸の両手に付けたミットに、幸平が拳を撃ちこんでいる。いや、ミットを付けた河井戸が放つ攻撃を、その拳をもって受けている。
次いで、河井戸は地面に置いてあった竹刀を拾うと、幸平に向かって突く、薙ぐ、斬りつける。
「ふっ! はっ! くっ! ふんっ!」
繰り出される攻撃の数々を避けていく。こうしたトレーニングを幸平は毎日続けていた。雨の日も、風の日も、絶やすことなく。いつ、また、誠司たちが襲ってくるかわからないからだ。
——よーし……かなり使いこなせてきたな……!
幸平は自らの体とこの学生服の相性がよくなってきていることを実感していた。なんなら前に着ていた制服より着心地がいい。
再来週。その日が誠司たちとの決着の日になるだろう。幸平の眼差しは闘志に燃えていた。
——このまま行けば必ず勝てる! おれに負けたあいつらはきっと、大人しくなるだろう。そうすればまっすんも……。
そう思った刹那、幸平の脳裏に親友の笑顔が去来。誠司たちに真澄を人質にとられていることを思い出した。
——別に、あいつは関係ないじゃないか!
そう思い直し、幸平は首を振った。
来たる決着の当日。事件は起こる。
河井戸宅にて、幸平は下着姿になっていた。着ていたあの学生服は、河井戸がくまなく点検している。その目は、いやに厳しい。
「ねぇ、どうしたの?」
幸平が訊ねると、おもむろに河井戸が振り返ってひとこと。
「壊れている……」
「……え?」
「壊れているんだ……。こいつはもう、ただの学生服になってしまった……」
項垂れる河井戸。絶句するのは幸平。
そう簡単に受け入れられる事態ではない。今朝方からなんだか服が重いなと感じ、こうして授業終わりに河井戸に見せてみると、なんとびっくり、壊れていると言うではないか。
「え? え? ちょっとまって、え? 壊れてる? 壊れてるってなに? え? どういう意味? なに、何が壊れてるの?」
「落ち着け幸平。もう一度言うぞ? この対人戦闘用学生服は、度重なる激しい使用によって故障した。人間で例えれば、オーバーユースによる怪我というやつだ。毎日のように戦闘に明け暮れていたら……まぁ、壊れるのも無理はない……」
「無理はない……じゃないよ! 今日だよ? 今日! 二階たちと決着をつけないといけないってときに、壊れちゃうなんて……」
そんなことあってたまるか! ということばが出てくる前に、幸平は思った。果たして、この特殊な制服を使って勝ったとして、それは本当に勝利と言えるのだろうか。
それは、ボクシングの試合で当然のように蹴りを放つのと同等の行為なのではないだろうか。勝ちさえすればいい。勝つためなら手段は選ばない。そう、自分は考えていたのではないだろうか……。
「そうか……」
幸平は呟いた。
「ど、どうした幸平……突然落ち着いて……」
「いいよ、河井戸さん。仕方ないよ。起こるべくして起こったんだ」
「起こるべくって……いったいどういう……」
「正々堂々戦おうとしなかった罰だってことだよ……。もうすぐ時間だ。行ってくる」
幸平は制服を着ると、外へ出て行った。
五月川の土手。到着したころには、すでに誠司たちがいた。その後ろ、離れたところで取り巻き二人が見ている。
「遅かったじゃねぇか」
誠司が言う。
「まさか、そっちが時間通りに来るなんてね。いつも遅刻して来るくせに」
「お前に関係ねぇだろうが。あのときは油断したが今日は違ぇ。一対一でやりあおうぜ。ぶっ潰してやる」
誠司は腰を落とし、今にも飛びかからん気配だ。彼はなにかと格好をつけたくなる性格であり、敵としてしっかり認めた相手は、自分の力だけで倒すという意気をもっている。
よかった、と幸平は思った。誠司の正々堂々とした態度を前に、このまま卑怯な戦法を使って彼に挑むことにならなくて済むと。
——こうなったら、勝っても負けてもどっちだっていい……。自分の力で、勝負してやる!
幸平は上着を脱いだ。それだけでない。おもむろにズボンも脱ぎ出す。着ていた制服を全て脱いで、裸一貫。呆気にとられる誠司たち。
「……ふざけてんのか、お前」
「いや、大真面目さ。おれも、お前と同じ、自分自身の力だけで、やりあおうってことだ!」
先にしかけたのは幸平。駈け出すその勢いのままに足蹴を放つ。それをあえて受けた誠司はその顔へ向けて拳を放った。
本来なら、この一撃で決着はつく。しかし、なんと、幸平は避けた。しかも、隙ができた誠司の腹に拳を一発うずめる。
「ぐっ……!」
歯を食いしばる誠司。真下にある幸平の頭に、互いに握りしめた拳を落とす。
ガクンと視界が揺れるが、意識が飛ぶことはない。幸平がさらに肘鉄を誠司の腿に突き刺した。
なんだか、いい勝負である。ひょろ長で痩せっぽっちの幸平が、腕っ節の強さで子分を従えるあの誠司と同等、いや、むしろ圧している勢いで勝負を進めていた。
なぜか。
それは、あの制服にある。あの使いづらい対人戦闘用学生服なる学生服。あれを体に馴染ませるために積み重ねたトレーニングが、その戦術が、文字通り体に馴染み、幸平の戦闘力をはね上げたのだ。
「くそがっ!」
叫ぶ誠司。幸平に体当たりして胴を抱えこむと、その脇腹を激しく殴打。だが、すぐに首に腕を回され締めつけられる。
視界がぼやけていく。このまま落されるわけにはいかないと、
「おらぁあっ!」
誠司が幸平を抱えたまま大きく右に振るう。体勢を崩したところを馬乗りなろうとするが、それもほんの一瞬。脇腹に横蹴りを食らい、肋が軋んだ。
と、そこに誠司たちの取り巻きが飛びかかってきた。このままでは、誠司が危ないと思ったのだろう。一対一の真剣勝負から、多勢無勢の状況となったが、
「やめろぉおっ!」
端々が震えた怒声とともに、飛びこんできたもう一つの影。その正体に思わず幸平が声を上げる。
「まっすん!」
真澄だった。彼は幸平が誠司たちに呼び出されていることを知っていた。下校する幸平の後をつけ、河井戸とともに追いかけてきたのだ。
「コーヘー、負けるなぁ! そんな卑怯者たちに負ける君じゃないだろう!」
河井戸が土手向こうから声援を送る。
真澄が、取り巻きたちにたこ殴りにされながらも、彼らを幸平から引き離そうともがく。幸平はそれに応えるよう奮戦。誠司は取り巻きたちの助けが恥ずかしく、惨めで、情けなく……。誰にも気づかれることなく、泣いていた。
夕焼けが燃え尽きようとする空の下で、勝敗は決した。誠司が取り巻きたちを殴り飛ばし、退散。幸平と、真澄の勝利だ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
大の字になって荒く息をする二人。このまま眠ってしまいそうになるほど、疲れ果てていた。だが、どうしても伝えたいことが、幸平にはある。
「ごめん」
それが、どうしても真澄に言いたかった。頭を下げる彼を許せず、避けてしまったこと。ずっと、ずっと、謝りたかった。
「ねぇ、コーヘー……」
真澄が言う。情けないほど泣き声だ。それがなんだか懐かしくて、幸平の目にも涙がにじむ。
「もういちど……友達になってくれる?」
真澄のことばに、幸平は静かに頷いた。
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