第10話 別離
〈1〉
セバスチャン・ロドリゲスは苦々しい気分でヴァルハラに向かう船に乗っている。
オルソンは取り引きには応じなかった。頼みの綱のエイミーの意識も戻らない。
どこかの工房かファクトリーで働ければいいが、マイティロックが盗まれたものだと判明した以上、それを成果物とする事もできない。
学歴は役に立たないどころかオルソンとゼミが同じだったというだけで泥棒扱いだ。
――だが俺にはまだ切り札が残されている――
エイミーがウロボロスの端末から手に入れた羅生門だ。
2.0も欲しい所だったがまだポラと子龍の共同研究も進んでいない段階だから仕方がない。
羅生門は一流チーム相手には売れないだろうがBクラスのチームは欲しがるだろうし、スパーリングにも使用できるものだ。
更に羅生門には既に流水明鏡剣がインストールされている。
商品サンプルとして申し分ないだろう。
ヴァルハラに戻るのは賭けにはなるが、相応の値段で売りつけてさっさと逃げ出しても構わないのだ。
――ヴァルハラで働いていたら心身が持たないしな――
リベルタのどこかで整備工場を作って細々と暮らしてもいい。
だが、それをするとしても先立つものが必要だ。
その為には手に入れた羅生門を換金しなくてはならないのだ。
――俺は必ず生き延びて見せる――
〈2〉
ヴァルハラ公安局公安部の執務室にいた木戸が異変に気付いた時は手遅れだった。
突然部長室の前の秘書室のドアが破られ、血の滴る長刀を手にしたメルキオル・クラウスが姿を現したのだ。
「木戸、帝はご立腹だ」
黒いコートを返り血で濡らしたメルキオルが氷碧色の色素の薄い瞳で木戸を見据えて来る。
その一言を言う為に岸がメルキオルを寄越したとは思えない。
「この私が帝の不興を買うなどあり得ん事だ」
木戸は背後にかけてあった刀を手に取る。
木戸は忌島に伝わる獄屠殺人剣の剣士の末裔だ。こと剣術において他人に劣るとは考えていない。
「だがつまらぬ濡れ衣を着せられて首を差し出すほど従順でもないのだよ」
木戸はデスクを思い切り蹴とばす。
デスクがメルキオルに向かって床を転がる。
木戸は刀を鞘に収めたまま床を蹴る。
メルキオルが長刀でデスクを一刀両断する。
――抜刀!――
木戸は居合で刀を抜き放つ。
信じられない反応速度でメルキオルが木戸の斬撃を躱して側面に回り込む。
メルキオルの振り降ろした刀をギリギリの所で受け止める。
腕が痺れ、刀が手から落ちそうになる。
木戸は刹那の判断でメルキオルの長刀の背を右手で掴む。
――まともに斬り合ったら三合と持たん――
仮に剣技で互角に持ち込めたとしても刀が持たないだろう。
木戸はメルキオルに向かって右足を振りぬく。
足が届くより早くメルキオルの稲妻のような蹴りが木戸の腹に打ち込まれる。
一撃で全身の力が抜け、握力が失われそうになる。
――右手を離したら全て終わりだ――
「メルキオル、貴様がバイオロイド養成所に出入りしている事は知っている」
「それがどうした」
虫でも見るかのような無感動さでメルキオルが言う。
「お前は強すぎる。誰もお前の相手はできん。だからそれ以上の戦闘経験を積む事もできん。ただ一人を除いてはな。だから不毛な殺し合いをさせる」
言いながら木戸はメルキオルの腰に目を向ける。
岸が持たせた銃がメルキオルのホルスターに収まっている。
「これがあれば勝てると思っているのか?」
メルキオルが無造作に銃を抜いて木戸に向かって放る。
「まさか。この距離では引き金を引く前に貴様に輪切りにされるだろう。私はそこまで愚かではないよ」
木戸は内心で舌打ちする。
――見抜かれたか――
今更銃に手を伸ばした所で斬り殺されるのがおちだ。
「ヘクター・ケッセルリンクは生きている」
木戸はメルキオルに向かって言う。
「ヘクターは死んだ」
「貴様は殺したと思い込んでいるだけだ。ネット上には今でもヘクターのログが現れては消えている」
木戸は床に転がっている端末に顎を向ける。
「コクピットにいたヘクターを殺したのは貴様だ。この世で唯一の好敵手を卑劣な手口で殺したのはな。しかしヘクターはどこかで生きている」
「嘘ではないようだな」
刀を握る手から力が抜かれたのを確認して木戸は右手を離す。
「ヘクターは神出鬼没だ。こちらからは探る事ができん。だがアルカディアに行けば何らかの痕跡を見つける事はできるだろう」
スーツの襟を正して木戸は言う。
「ラピュセルは起動しなかった」
長刀を鞘に収めてメルキオルが言う。
「あれは我々の科学力でどうにかなるものではない」
「勘違いするな。我々の科学力でも動かせなかったのだ」
メルキオルが訂正する。メルキオルの言う我々とは誰の事だろうか。Dr東條でない事は確かだろう。
「動かぬものは仕方があるまい。しかしヘクターは必ず古巣と連絡を取ろうとするはずだ」
木戸は両手を上げて端末に近づく。
メルキオルが顎をしゃくるのを確認して端末を起動させる。
パスワードを入力して履歴を表示させる。
「ヘクターの妻カーラ・アーシェスのログは不自然に途切れている」
カーラはフレートライナーのライダーだが、一年の半分は生存確認も取れない状態だ。
「コールドスリープか……どういうつもりだ?」
メルキオルが低く呟く。
「先日カーラのログが復活した。次のグランプリに備える為だろう。参戦すれば何か得るものもあるかも知れん」
木戸は言う。賭けでしかない。カーラが出ている試合はこれまでに幾らでもあった。
しかしヘクターは姿を見せていない。
「何らかの接点があれば出現する可能性もあるという事か」
メルキオルが銀色の長髪を揺らして銃を拾い上げる。
「貴様にヘクターと戦う以上の目的があるなら協力する事も考えるぞ」
木戸はメルキオルに向かって言う。
「貴様に一体何ができる?」
凍り付くような一瞥を投げかけてメルキオルが執務室を出ていく。
――取り合えず一命は取り留めたか……――
手にしていた端末が着信を告げる。
発信者はリチャード・岸になっている。
「公安局公安部部長木戸です」
木戸が言うと端末の向こうから低い笑い声が聞こえて来る。
『メルキオルに気に入られたようだな。大いに結構』
――こちらは死ぬ思いだったのだ――
否、少しでも対応を誤っていたら間違いなく殺されていただろう。
『集金ご苦労。俺に代わって金を集めてくれた事は褒めてやろう』
本当は殺して奪うつもりだったのだろう。
楽市銀行とVCBを合併させる計画は岸に筒抜けだったという事だろうか。
「いえ。もう少し時間を頂ければ更に買い増して御覧にいれます」
木戸が言うと岸が鼻で笑う。
『何だ。命拾いをしたというのに自分から捨てようというのか?』
「ロベール・ギスカールがいるのはヴァルハラです」
木戸は頭を巡らせる。楽市銀行を叩く事は公安局の力でもできる事だし、それ以前に岸はその気があればメルキオルを送り込んで殺戮の嵐を起こす事ができる。
狙うべきは楽市銀行の後ろにいるロベール・ギスカールだ。
――共闘する気でいたがこうなっては仕方がない――
『グルメロワーヌの走狗一人俺が処理できないとでも思っているのか?』
「殺した所で物流が途切れればヴァルハラは早晩飢える事になります。要はギスカールから金を取り返し円をドルに取り込めればいいのです」
『余興というものは大事だぞ? ヤツを捕らえて人質にするだけでグルメロワーヌは唯々諾々と従うのだぞ』
――ロベール・ギスカールはそこまでの人物だったろうか?――
「この場にギスカールを呼びます。その上でランナーバトルを持ちかけます」
『ほう』
岸が興味深そうに話の先を促す。
「ギスカールに命が狙われていると伝えます。その上でドルを要求します。私とランナーバトルをして勝てば私の保有するドルはギスカールのもの、敗北すれば私のものだと」
『お前が敗北した時はどうするのだ?』
「私の命は今日失われたと思っています。その時は帝のみ旨のままに」
木戸が言うと岸が笑い声を立てる。
『面白い。駒の分際でこの俺にお前に賭けろと言うのか』
「今更惜しむものもありません」
『命くらい惜しんで見せろ。きれいごとだけのハッタリほど嘘くさいものはないからな』
岸が言葉を切る。
『せいぜい俺を楽しませてみせろ』
一方的に通話が切られると同時に木戸は膝から崩れ落ちる。
メルキオルに続いて何とか岸に殺される事だけは避ける事ができた。
――恨むなギスカール。俺が生き残るためだ――
どんな手段を使っても勝たなくてはならない。
否、その姿をこそ岸は見たがっているに違いないのだ。
〈3〉
バレンシア朱雀ウロボロスエンターテイメント本社会議室。
UMS新社長ソ・ミニョンは幹部たちを前に緊張している。自分もウロボロスエンターテイメントの常務になったのだから同格なのだが、その実感がない。
「……ウロボロスファクトリーの正式な発足に伴い、UMS社長ヴァンサン・バスチエ氏はファクトリーの社長に移籍、UMS新社長として元マネージメント企画3課のソ・ミニョン主任を迎える事となりました。企画3課は実質的なUMSのマネージメントを請け負っていた為、円滑な運営が望めるものと考えています」
言ったへウォンがミニョンに挨拶を促す。
「UMS社長に就任しましたソ・ミニョンです。実務については今後覚えていきたいと考えています。ですがそれ以前の問題としてUMSの運用効率の悪さを指摘させて頂きたいと思います」
ミニョンは端末に映像を投影させる。
「龍山グランプリ以来一か月半UMSは何ら活動を行っていません。一つのグランプリで動く資金を考えればそうそう試合ができるものでもありません。しかし、UMSのバカンスは長すぎると私は考えています」
「それは俺も思っていた。タレントは分刻みのスケジュールなのにUMSの連中と来たら試合以外で動いている所を見た事がない」
ダミアンが言う。
「本来であれば整備クルーは機体の整備訓練を行っていますし、ライダーもトレーニングを行っています。しかし現状では機体がないもんでその……」
歯切れ悪くバスチエが言う。
「正に問題はそこです。今回はランナー新造という話ですが、試合で機体を損傷してしばらく身動きが取れないという事も少なくない。そこで私はUMSを分割して二軍を作る事を提案します」
ミニョンが言うとへウォンが頷く。
ミニョンは用意した資料を表示させる。
「チームシューティングスターには二軍としてジュラシックスが存在します。仕組みとしては育成選手をジュラシックスで運用し、そこからリクルートするという流れですが、動きの無い選手を敢えてジュラシックスで運用するという事もあります。これによりシューティングスターはブランド力と稼働率の双方を高い水準で保っています」
チームシューティングスターは育成選手と二軍であるジュラシックスを持っている事が強味だ。
シューティングスターとして身動きができない時期に選手とランナーをジュラシックスで運用する事により、一定の稼働率を保ってもいる。
「ライダーには治安維持出動の要請もある。何もしてない訳じゃない」
バスチエの反論はミニョンの予測の範囲だ。
「もちろんです。しかし現状はどうです? 会長にもロビンにも機体がない。現状治安維持活動ができるのはアナベルのナイトライダーとイェジの千本桜だけです」
「会長は会長だし、ロビンも修行中だろう」
バスチエが苦い口調で言うが彼は既にファクトリーの社長でUMSの社長ではない。
「イェジは何をしているのですか? ロビンもウロボロスのライダーになる事を表明してしまっています。プロレス企画をこれ以上続ける事は双方に傷を残します。少なくともこの二人を遊ばせておく理由はありません」
ミニョンが言うとバスチエ以外の幹部が頷く。
「WRAがサンタマージョ白虎の治安維持に乗り出すという噂があります。ここにロビンとイェジを治安維持要員として投入すれば宣伝としても使えます」
「あんな治安の悪い所に送り込んで万が一の事があったらどうするんだ?」
バスチエが顔を顰めて言う。
「バスチエ社長は先ほど治安維持要員だと自ら仰ったではありませんか? Sクラスのライダーが治安維持をBクラス以下のライダーに丸投げしている現状で、Sクラスライダーの社会的責任はどうなります? 弱い者に危険を強いて自らは安全な場所で試合だけしていればいいのですか?」
ミニョンが言うとバスチエが周囲の幹部の顔を見回す。
「新社長は話が分かる。ニュースでランナーが映れば宣伝としても申し分ない。これまでこんな当たり前の事に気付かなかったのはどうしてかな」
ダミアンが賛成して言う。
「これも修行と考えればいいでしょう。しかしランナーはどうするのです?」
副社長のアンドレイが言う。
「イェジの千本桜は現状で量産品のヴァンピールの改装品、ロビンにも量産機を与えてカウルだけそれらしくすればいいでしょう。更に二軍と育成選手獲得の為に新たにメリクリウスを立ち上げます」
映像を表示させてミニョンはどうだとばかりに言う。
「メリクリウスというのはウロボロスの二軍で治安維持活動に注力すると?」
元上司のロゼッタ・ヴァネッリ社長が言う。
「そうです。ウロボロスはエンタメ企業でありながらファクトリーを発足させました。潤沢なメカニックの獲得と整備能力の維持に実戦以上のものがあるでしょうか? そしてそれはウロボロスがエンタメに留まらない社会的な役割を果たす企業であるとコミットする事になるのです」
ミニョンは訴える。UMSが財政難だったのはランナバウトしかして来なかったからだ。
WRAの警備事業を請け負えばそれなりの収入にはなるだろうし、犯人逮捕や災害出動でランナーがニュースに映ればそれだけで企業イメージと広告収入につながるのだ。
しかもメリクリウスのライダーはSクラスである必要はないのだし、育成選手を発掘する良い機会になるだろう。
「二か月後のエキシビジョンまでに形にはできそうなの?」
へウォンが言う。
「形にします。エキシビジョンに参加するのはロビンだけなのでイェジをサンタマージョ白虎に送る事に問題はありません。千本桜は龍山グランプリでT-LEXを破るという快挙を成し遂げていますし宣材として申し分ありません」
「確かにライダーを歌劇から選ぶという時代ではないのかもありませんね」
専務のマリアが言う。
「しかしそれで会長は納得するのか?」
バスチエが言う。
「アナベルだって結局は天衣星辰剣の剣士じゃないだろう? 何万人もオーディションをして一人しか出てこないような人材に頼るのも結構だが、いざって事もあるしランナバウト専属の人材を集めて育てておいた方がいいんじゃないのか?」
エージェンシーの社長という事もあるのだろうがダミアンが言う。
「ロビンを育成すると言っておいて、イェジを後継者にした事は天衣星辰剣としては正しいかもしれません。しかし、そのロビンはタレントからライダーへの転身とプレイスタイルの為にプロレスに入門という遠回りになっています。ランナバウトが一定独立してくれていたならロビンという人材を迷走させる事も無かったはずです。彼は単独でアイドルや役者として活躍する充分な才能があったのですから」
ミュージックのローシェが言う。
「ソ新社長の案に賛成です。タレントがタレント業に専念し、ライダーがランナバウトに専念すればいい。会長がタレントから後継者や剣士を出すのだと言ってもその人材が出て来た時にリクルートすればいいので、タレントに剣術やランナバウトをさせる必要はないはずです」
ウロボロス歌劇のリージヤが言う。
「それでいいなら最初からそうしてるんだ。俺は剣士をライダーにするって言うからそのつもりで四十年もランナバウトをやって来てだな。今更その必要はねぇって言われても……」
バスチエはどうにも納得が行かない様子だ。
「時代が変わっているんだ。もう不動雷迅剣もないし、ホウライのマリーだって剣士じゃない。三大流派の時代は終わっているんだ」
アンドレイが言う。
「当然の事ではありますがメリクリウスには独自の財政基盤を作ってもらう必要があります。その目途はついているんですね」
「ウロボロス単体では稼げないと考えた結果です」
ミニョンはへウォンに答えて言う。
「バスチエ社長次第という事ですね。私は良い案だと思いますが具体的に問題点を挙げてもらえますか?」
へウォンがバスチエに向かって言う。
「ランナバウト用の機体を使う訳じゃないんだろう? 相手はルールを守って来るヤツばっかじゃないはずだ。選手の事を考えたら……」
「本来はそういった危険な仕事をする事を前提としてライダーには準警察権という強い権限がある訳ですよね? ライダーがランナバウトだけをするのであれば人々に尊敬される事もなくなっていくのではないですか?」
へウォンが言うとバスチエが塩を振られた青菜のように萎れる。
「おたくらの言ってる事は真っ当なんだって頭じゃ分かってる。でも納得できねぇんだ」
バスチエが席を立つ。
「このまま出ていけばこの案は可決という事になりますよ」
「俺がしたいのは感情の整理で、案そのものに反対してぇ訳じゃねぇんだ」
バスチエがへウォンに答えて会議室を出ていく。
「反対意見が無いのであればソ社長の案を可決とします」
へウォンの言葉に反対する者はいない。
――っしゃああああああっ!――
ミニョンは内心でガッツポーズを取る。
「それではソ社長、計画を進めて下さい」
「はい!」
ミニョンはへウォンに答える。ウロボロスエンターテイメントの役員たちの賛同を得たこの事業を失敗させる事はできない。
メリクリウスが軌道に乗ればUMSは財政難で喘ぐ必要はなくなる。
――他のチームが参入していない今こそ事業の好機――
待っていろカーニバル、UMSは金と力の双方を揃えて参戦して見せる!
〈4〉
ファビオは人の気配のする深夜のキッチンに足を踏み入れる。
黒いフードの男がデリバリーのジャージャー麺を口から半分出したまま顔を向けて来る。
「イェジじゃなくて残念だったな」
オルソンが麺を嚙み切って飲みこむ。
「僕はそんなんじゃない」
「お前イェジの好意利用してるだけじゃねぇか。どこの悲劇のヒーローだよ」
ファビオはオルソンの正面に座って言う。
「だから僕は……」
「お前、本当にイェジを何とも思ってねぇのかよ」
「いや……それは……」
「好意には気付いてたよな? そうでなきゃプライベートな事なんて相談しねぇ。イェジがエイミーからお前を奪ってくれるって期待してたのか? そんなご都合主義があるかよ」
ファビオが言うとオルソンの顔色が変わる。
「ご都合主義なんて……確かに僕はイェジに甘えてたよ。でも……」
「でも、何なんだよ」
「ごめん。何を言っても言い訳にしかならない。僕はエイミーとの事を清算できなくて」
ジャージャー麵に目を落としながらオルソンが言う。
「お前最低野郎だな。それって結局エイミーを傷つけ続けるって事だよな。本当は愛してないけど責任とって偉い俺を演じ続けるんだろ? 弱みのある依存するしかない女は萎縮して何も言えねぇ。自己満足もそこまで行くと吐き気がするぜ」
「じゃあどうすればいいって言うんだ! 子供までいて無責任でいられるか!」
「どんな瞬間にも「実は愛してねぇけどな」ってカギカッコをつけられたんじゃたまんねぇんだよ!」
ファビオはテーブルを殴りつける。
「俺の父親は俺が生まれたばっかの頃に母さんを捨てて出てった。どんな野郎かは知らねぇ。狂った母さんは兄貴を親父だと思って、兄貴は家を出ていった。その次は俺を兄貴だと思った。親父がいればいいと思ったと思うか? 違うね。誰も俺を愛さないなら誰もいねぇ方がマシなんだよ。それに気付けたのは最近の事だ。母さんを憎めなかった俺には兄貴を憎む事しかできなかったからな。でもそれは過ちだったんだ」
「父親がいれば君も救われた所があったんじゃないか?」
「テメェは俺の話を聞いてんのか? 形ばっかりの家族なんていらねぇって話なんだよ。お前みてぇな親父がいたと思うとゾッとするぜ。金がそこそこあって家事もそこそこやる理想の父親。でもそいつは俺の事をこれっぽっちも愛してなくて、いい父親を演じる事で自己陶酔してやがる。そんな野郎はいつかボロを出す事になる。その時傷つくのは誰だ!? お前はその時、自分は可愛そうだと悲劇のヒーローになるのか!?」
ファビオの言葉にオルソンが握りしめた両手を震わせる。
「……最低だな」
「このままだとな」
ファビオはオルソンからジャージャー麺を取り上げる。
「俺はお前から奪う事に躊躇なんてこれっぽっちもねぇ。それでもお前は偽善を続けられんのか? 周りの人間を傷つける嘘だらけの偽善を」
ファビオはジャージャー麵を一気にすする。冷えているせいもあるだろうが甘いのかなんなのか分からない脂っこい料理だ。
「……このまま進むのが一番悪いって事は分かった」
オルソンがマスクをしながら言う。
「君は……もし父親に会ったらどうする?」
「他人のフリだ。俺は親父の事は何も知らないんだしな。何を話せってんだ」
「……君は強いな」
「少しは強くなったんだろうし、この先弱くなる事もあんだろ。ただ、今の自分を愛せないような自分でいたくねぇってだけだ」
ファビオが言うとオルソンがゆっくりと席を立つ。
「エイミーに会って来るよ。どんな形であれ清算しなきゃならない」
「俺は行けなんて一言も言ってねぇからな。お前がお前で決めた事なんだからな。俺のせいにすんじゃねぇぞ」
キッチンを出ていくオルソンをファビオは見送る。
エイミーと別れればオルソンとイェジの間に壁はなくなる。
――これで対等だ。オルソン――
やせ我慢して何が悪い。俺は元々目立ちたがりのええかっこしいだからタレントやってんだ。
〈5〉
エイミーが目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
周囲を見回し、点滴の刺された腕を見て自殺しようとした事を思い出す。
――今回は本気だった――
誰にも邪魔されないように部屋のドアを縛っておいたがどうやって室内に入ったのだろう。
――何故生きてるのか分からない――
今生きているのが不思議なら、生きる理由を見失ってもいた。
仕事ができる訳じゃない。
オルソンに寄生してその先どうなるのだろう。
――オルソンの事が好き――
その気持ちに嘘はなかったと思う。彼の役に立てればと本気で思った。
遮那王のプレゼンは本気だった。
私たちという言葉を使ったのはオルソンを誰にも渡したくなかったからだ。
オルソンと初めて出会ったのは大学の講堂だった。
否、初めて接したのは躁病の薬を飲みすぎて倒れた時だった。
誰にも見つからないように階段の影に逃げ込んだ先で人目を避けていたオルソンと出会ったのだ。
その秘密を共有して生きて来た。
マイティロックを持ってヴァルハラに渡ったのは病気だと知っている全ての人から離れたかったからだ。
自分一人でもオルソンなしでもできるのだと証明したかった。
それはオルソンが自分の病気を知っていたからだ。
私はオルソンを守る人間になりたかった。
――力さえあればそれが叶うと思った――
しかしヴァルハラは狂気の国だった。
ものの一か月と経たないうちに病気が悪化してこじれ始めた。
鬱でふさぎ込む日と躁で騒ぐ日が交互に訪れ、自分ではコントロールできなくなっていった。
人が恐ろしいというオルソンの気持ちが本当に分かるようになったのはその頃だ。
オルソンの痛みを理解し、自分たちは痛みを分かち合えるのだと思った。
支え合って生きていけるのだと思った。
――でも違ったんだ――
オルソンは新しい人生を歩み始めていた。
――私はそれに気付かなかった――
それを認める事ができなかった。まだオルソンの人生に居場所があると思っていた。
――でもオルソンの心は離れるばかり――
子供ができたと伝える事さえできなかった。それだけがオルソンと自分をつなぐ唯一のものだと知りながら。
エイミーは下腹部に手を当てる。
大量の薬を飲んで自殺で相当血も流れたはずなのに生きる事を止めようとはしないらしい。
静かに病室のドアが開いて黒ずくめの男が姿を現す。
――オルソン――
意識を取り戻したばかりだというのに何という偶然だろう。
「エイミー?」
オルソンの言葉に涙が頬を伝う。
――オルソンがやって来た理由が分かるから――
せめて最後くらいはきれいなままで。
「何日風呂に入っていないのかしら? あなたが来る前にナースコールを押しておくんだったわ」
「それだと僕が入れない」
オルソンの言葉にエイミーは笑みを返す。
「だって私の人生だもの。あなたの席はもう埋まったから」
「エイミー?」
エイミーは下腹部を撫でる。
「私が死んでもおかしくなかったはずなのに生きてるのよね。すごい生き意地だと思わない? このしぶとい人間が将来どうなるか見てみたいの」
「僕は君とは……」
「悪いわね。私の助手席はこの子で埋まったの」
「君は病気だ。その子を育てられるのか?」
オルソンが責めるような口調で言う。
「一度死線を乗り越えたのよ。この子はきっと何度でも超える。あなたよりいい男になるわ」
「君は正常じゃない」
オルソンの言葉にエイミーは笑って点滴を指さす。
「正常になるだけの薬は入ってるわ」
オルソンが気まずそうに視線を落とす。
「私が幸せにする誰かはあなたではなくこの子だったって事。だからこの話はこれで終わりなの」
「この話?」
「あなたが私に気を使うのも、私があなたを頼るのも終わり。私たちは別の人生を生きていくの」
言う間にも涙が溢れだしてくる。
「エイミー……この言葉が適切かどうか分からないけど……ありがとう」
「分かったならもう行って」
エイミーが言うとオルソンが背を向ける。
「君には幸せになって欲しい。これは本心だ」
オルソンが病室を出ていく。
――もう涙は流すまい――
この子に見せる背がいつでも強く大きなものであるように。
―――この子に恥じるような生き方だけはするまい――
病気があろうと私はもう一度立ち上がってみせる。
〈6〉
「ロベール、私がランナーバトルで勝ったら楽市銀行を渡してもらおう」
ヴァルハラのホテルで木戸の来訪を受けたリッシモンは言葉の裏を読む。
木戸の言葉を額面通りに受け取るなら、木戸の資本金と楽市銀行を合わせれば新銀行の資本比率は木戸が一位となり岸を上回る。
――だがそれだけか?――
木戸とルクレールは同盟関係にあるのだから資本を一本化する必要はない。
楽市銀行と木戸では力が拮抗しているのだから、ルクレールとしては木戸にイニシアチブを渡すメリットがない。
――これは木戸の動機によるものか?――
岸を追い落とすなら現状維持で充分だ。それが楽市銀行をわが物としようとしているという事は……。
「それだと僕がそのランナーバトルに勝っても何のメリットもないね」
「私のドルでは不足だと言うのか?」
「木戸さんとは既に同盟関係にあるからさ。帝と話をするよりあなたとの方が話がしやすい」
「実は私のドルは帝に渡っている」
木戸の言葉にリッシモンは面食らう。この強欲な男が素直に金を岸に渡したというのだろうか。
「楽市銀行の持ち分を奪わなければ私の命は無い。ルクレールがヴァルハラで商売する以上私というチャンネルは残しておいた方がいいだろう」
木戸がソファーに深くを腰を下ろしたまま言う。
木戸は動きを岸に感づかれ、恐らく「物理的に」金を奪われたのだろう。
そして「手段を選ばず」金を奪う事を命じられた。
「僕としてはバイオロイドは手に入ったし一応の目的は達したと思っているよ」
本来のロベール・ギスカールの目的はそれだ。
――生かさず殺さずの物資を流しておかなければ難民は増える一方だしな――
難民たちが結束して岸に反乱を起こしてくれでもすればいいのだが、そういった気配すら感じられない。
ヴァルハラでは力こそ正義である以上、自分が力を握ろうとは思っても、握った時の為に力を打倒しようとは思わないのかも知れない。
金や権力、法や暴力というものが万能薬のような唯一絶対の「力」として認識されている。
ならばそれに近づく事、あわよくばそれを奪うことを考えてもその「力」そのものを破壊しようとはしないだろう。
――リベルタの価値観とは相容れないわけだ――
「そう言うな。リベルタはドル取引を禁じている。円取り引きでお前も相当儲けているだろう」
――木戸に乗ろうが乗るまいが楽市銀行は奪われるだろう――
岸が直接的に動くか、木戸が間接的に動くかの違いだ。
「楽市銀行の保有するドルは全て木戸さんに預けましょう。ただし円の発行権はこちらに渡してもらいます」
リッシモンの言葉に木戸が思案顔になる。
元々自分が突きつけている条件が大きすぎる自覚はあるのだろう。
「そうなるとリベルタの物資を扱えるのはルクレールだけという事になる」
「これまでと状況は変わりません。岸が奪えと言ったのはドルと楽市銀行との合併時の資本金でしょう? 木戸さんが騙される可能性もあるのでは?」
リッシモンはコーヒーを傾けながら言う。
「円の発行権が事前に移されていたか……それだと今後楽市楽座がリベルタと取り引きする場合は……」
「円を貸し付けます」
「しかしそれだと帝が納得するまい」
「ですが通貨がドルに一本化されれば我々も経済同盟の縛りでヴァルハラに対する輸出が困難になります。仮にヴァルハラの通貨の名前が円になった所で結論は同じです」
リッシモンの言葉に木戸が低く唸る。
「最低でも私の顔を立ててもらわねば困る。ランナーバトルでは負けてくれ」
「勝負は水物では?」
「ならば何故興行主は破産せんのだ。仕組むのであれば最大の利益を考えるべきではないのかね」
木戸は頭を切り替えたようだ。
「あなたはランナーバトルで勝利する。しかし円の発行権は既に盗まれていた」
「貴様も岸に劣らん悪党だな」
ソファーから立ち上がって木戸が言う。
「負けるにしても帝に見抜かれるような負け方をしてくれるなよ」
「それは木戸さんが得意とする所でしょう」
リッシモンが言うと木戸が口元に笑みを浮かべる。
「貴様がヴァルハラ人であったならな。真の盟友になれたかも知れんものを」
言い残して木戸がホテルの部屋から出ていく。
――岸が動いたか……――
ヴァルハラに長居するのは危険かも知れない。
――ジョナサンに楽市銀行を上手く丸め込ませるか――
取るものを取ったらヴァルハラからはさっさと退散した方が良さそうだった。
〈7〉
WRA総裁カン・へウォンは最大の関心ごとである人事に心を砕いていた。
ウロボロスエンターテイメントだけで骨が砕けそうだが、WRAも再建しなくてはならないのだ。
副総裁はフィリップ・デュノワで役員会は一致を見た。
急進派のへウォンと慎重派のフィリップであればバランスが取れるからだ。
驚くべき事にWRAには本部と呼ばれるものが無い。
ウロボロスがランナバウトグランプリを開きたいと州の事務所に申請すれば通ってしまうような状況なのだ。
全ての州が縦割りで統括する組織がどこにもない。
年金組合と共済組合は横の繋がりがあるが帳簿は適当で使い物にならない。
そもそもの業務の大半が警察のアウトソージングで、警察がそれなりにしっかりしていればWRA自体がしっかりする必要がないという事情も大きい。
各州の支部の支部長を説得して中央組織を作る事を納得させ、データを提出させた。
総務、広報、人事、財務、法務、営業、企画、捜査、警備と決めるべきポストは多い。
警備の下になる特務部隊のSMSだけが黒鉄衆で確定している。
無数の願書と推薦書を処理していくのは苦行に近いが問題児を抱え込む事だけは避けなくてはならない。
へウォンは一通の願書に目を止める。
元VCB議長で投資銀行の社長ステラ・ヴァン・パーレスだ。
――ヴァルハラで大成功している人物がWRAに何の用だろう?――
へウォンはステラに通信を開く。
ややあって端末の向こうに壮年の女性が姿を現す。
「ウロボロス……WRA総裁カン・へウォンです。ステラ・ヴァン・パーレスさんでお間違いないですか?」
これが本物のステラならVCB創立の功労者、現在の金融に最も精通している人物であるはずだ。
「パレス投資信託のヴァン・パーレスです。初めましてですね」
ステラが温厚な表情を浮かべて言う。
「WRAに願書を提出されていますがお間違いないですか?」
へウォンは訊ねる。元ヨークスター中央銀行出身のへウォンからすると元上司という事になる。
「ええ。あなたはウロボロスに行って頭角を現したようね」
ウロボロスエンターテイメントの社長としての知名度だろうがステラに言われると嫌な汗が出て来る。
「環境に恵まれただけです。今回はWRAの職員募集ですが志望動機を伺えますか?」
「動機は二つです。一つは私を採用すればフリーダムからの人材が入る敷居が下がります」
動機というよりメリットのような気がするがステラの言う通りだ。
「もう一つですがVWCの暴走を止める為です」
「VWCの暴走と言うと?」
心当たりが多すぎてどれの事か分からない。とはいえステラが言うとなると金融方面である事に違いはない。
「ヴァルハラ及びフリーダムは株を始めとする金融商品の販売を開始しました。これが社会を破壊するものだという認識はありますか?」
「スタートアップが資金を得やすいというメリットがある半面、経営が投資家に握られてしまいます。それが商品化される事で富める者に富が集中します。経済は数学のように見えますが実は心理的な影響が大きいと私は考えます。仮にリチャード・岸が購入した株があるならフリーダムでは絶対値崩れしない株だと見なされます。仮に経営実態の会社であっても株の所有者によってその価値が左右されるという事は、金融が実体経済に対して優位になったと見る事ができます。結果、貧富の格差が固定化されその実自由とは縁遠い社会を生んでしまいます」
金が金を生み、一つの所に収斂していく。
――リチャード・岸の元に――
今いくらヴァルハラのインフレが危機的だと言っても、岸はグロリー、アルザス、ヨークスターの中央銀行の資本金の50%以上を保有しているのだ。
岸にこのハイパーインフレを止める気があるならそれは可能なはずなのだ。
――難民をリベルタに対する武器として使う為か――
その人間兵器は命令されている訳でもないのに実際に機能している。
「あなたの見解は概ね私と合っているわ。私たちはフリーダム加盟国にその危険性を伝え、ヴァルハラからの離脱を促さなくてはならない」
「可能なのですか? 難民を称する転売屋の所業を見るに市民の心に根ざしたものを変えるのは容易ではないように思えるのですが」
「私たちには不可能かもしれません。まずはリベルタに対するこの金融の波及を止めなくてはなりません。その点であなたが難民の受け入れに制限を設けた事は正しい判断であったと思います」
「金融の波及を止めると言ってもWRAは金融ではなくランナーと警察のアウトソージングが仕事です」
「現在リベルタには六つの巨大企業があります。しかし、真の意味でグローバルな組織というものが存在しません」
「確かにWRAはリベルタのみならずヴァルハラ以外のフリーダムにも存在しますね」
へウォンは盤上の駒を見るような気分で言う。
「WRAはフリーダム諸国を包括する事で2.0を超える巨大な同盟の素養を秘めています」
「フリーダムでWRAがどれだけ活動できるかにもかかっていますが、グローバルなプラットフォームとして機能する事は事実でしょう」
ただしそれを動かすのは難しいとへウォンは感じる。
リベルタは通貨の移動を基本的に禁止し為替取り引きを認めていない。
それはヘルを唯一の通貨として認識しているからだ。
WRAでドルやグローといった通貨を使えるようになれば、なし崩し的にリベルタが浸食されてしまう事もあり得るのではないだろうか。
「グルメロワーヌはヨークスターの農業メジャーの資本の過半数を擁しているにも関わらず実力を行使できていません。これはヨークスターが異なる国家だからというだけの理由ではありません」
「つまりはヨークスター連邦を一つの国家としてリベルタも対応しなくてはならない……しかしリベルタは国家ではない。WRAを通じて国家を作るつもりですか?」
「どんなに高邁な理想を奉じてもそれを実行する力が無くてはならない。あなたも構想くらいはしているんでしょう?」
「確かにリベルタ共和国として構想はあります。ただし現実にするとなると諸州の反発は大きなものになるでしょう」
2.0の議題に出た事まではステラには明かせない。
とはいえ国家に対抗する為に一時的な措置として国家を作るというのは処方箋として悪いものではない。
「良くも悪くもVCB初代議長の私は嫌われています。これ以上恨みを買った所で怖いものはありません」
ステラの構想はへウォンの方向性と一致する。
VWCを熟知しているという点では対フリーダムで大きな戦力になると言えるだろう。
――キャリアは私より上だから戦力って言うのもおこがましいんだけど――
「志望動機は分かりました。反対にVCBを退職した理由を伺えますか?」
「岸に愛想が尽きたからよ」
あまりに分かりやすい退職動機にへウォンは笑い声を漏らす。
「希望するポストはありますか? 今ならより取り見取りですよ」
「財務を預かろうかしら。ヴァルハラの人間を信じられるならだけど」
「私もヨークスター出身ですよ」
へウォンは笑みを浮かべて言うとエア握手をする。財務の椅子は埋まった。
――残りの椅子を埋めて早く稼働に持って行かないと――
サンタマージョ白虎の状況は待ったなしだし……
UMSのミニョンも警備の仕事を受注しようと手ぐすねを引いて待っているのだ。
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