第3話 蘇利耶ヴァルハラの帝
〈1〉
窓一つないバスケットコート二つ分はあるコンクリート打ちっぱなしの部屋の真ん中に事務机が一つだけ置かれている。
蛍光灯の淡い光の中で、事務用より少しだけ値段の高そうな椅子に能面のような顔をした喪服の男が座っている。
蘇利耶ヴァルハラ公安局公安部課長木戸小五郎はユグラドシルのリチャード・岸の部屋に呼び出されている。
岸の背後には二体のバイオロイドがいるだけで部屋の中には人間らしい空気がまるでない。
「呼び出された理由は分かっているか?」
事務机に片肘をついた岸が傲然とした口調で言う。
「龍山グランプリ一回戦敗退の件でしょうか」
Dr東條に口添えを頼んだが効いていないのだろうか。
「勝利など水物だ。必勝のチームなどというものが存在したら賭けにならんだろう?」
指先でサイコロを弄びながら岸が言う。
岸は生粋のギャンブラーだ。VWCは元々ライダーとランナーの格付けとして誕生した。
その格付け会社が賭博を行うようになり、そのチップを貨幣として使い始めた。
それがドルだ。
賭博でヘルを失い身を持ち崩した人々はドルを使うしか無かった。
やがて岸はドルを発行する中央銀行を設立、ヘル経済との対立姿勢を鮮明にした。
最初はグロリー騰蛇に経済的攻撃を仕掛けて中央銀行を置かせる事を飲ませた。
以来自由主義経済圏は拡大を続けている。
だが、それはギャンブルのように危うい判断の連続だった。
否、岸にとって世界も金も人間もギャンブルの駒なのだ。
「お前には黒鉄衆の内偵を命じておいたな」
「はっ」
木戸は頭を上げようとする。
「図が高い」
岸が言うとバイオロイドが木戸の膝を打ち据える。
前のめりに倒れた木戸は土下座の姿勢になる。
「グルメロワーヌのアルセーヌ・リッシモンが後見人となっています。その……帝のお命を狙っていると言って憚らない連中でございまして」
「そのような事聞くまでもないわ。リッシモンは何を仕掛けようとしている?」
「リベルタ大陸の経済同盟を画策しております」
木戸が言うとしばらくの間が開いた。
「貴様、俺を馬鹿にしているのか? そんな事は子供にも分かる。ヤツの狙いは何だ?」
リッシモンはバイオロイド養成所に出没しアリア・ディザスターを奪った。
黒鉄衆を炊きつけて島から出す事に成功した。リベルタ大陸の経済同盟を作ろうとしている。
全てのベクトルはVWCへの敵対という方向に向いている。
しかしそんな事は岸は百も承知だろう。
「分からぬなら良い。俺と遊んで行かぬか?」
岸が引き出しから花札を取り出す。勝利すればこの部屋から出られるが敗北すれば生きて出る事はできないと評判の品だ。
木戸は両手で端末を操作しながら必死でリッシモンの動きの裏を探る。
成龍公司とメルカッツェがゼネラルエンジニアリングに買収を仕掛けている。
しかしゼネラルエンジニアリングは既に空洞化しており買収されたとしても、蘇利耶ヴァルハラとしては大規模なリストラに成功という事になるだろう。
――何故ゼネラルエンジニアリングなんだ……――
しかも動いているのはグルメロワーヌではない。
木戸は企業の時価総額を凝視する。何か動きに一貫性があるはずだ。
ゼネラルエンジニアリングは買収を受けて値上がりしているが一時的なものに過ぎない。
と、木戸は農業メジャーの小口投資家が買収されているのに気付いた。
――小口など全て買収した所で15%がいい所だろう――
農業の雄グルメロワーヌにとっては少しばかり経営に口を出せるだけで足しにもならないだろう。
――待てよ――
ゼネラルエンジニアリングはヨークスター太陰近代化で農業メジャーに資本金替わりに大量のランナーを卸していたのではなかったか。
――ゼネラルエンジニアリングの農業メジャーへの資本比率は35%!――
陥落すれば農業メジャーの資本の50%がグルメロワーヌのものになる。
役員会議では多数決制度が取られている為、事実上グルメロワーヌが経営権を握る事になる。
蘇利耶ヴァルハラにも残りの5割を買い占めるだけの経済力はない。
「陛下、リッシモンはゼネラルエンジニアリングを通じて農業メジャーを買収する気です」
「農家の考えそうな事だ。面白くもない」
岸が花札を引き出しに戻す。どうやら死は免れたらしい。
「で、何とする?」
「まずはゼネラルエンジニアリングを防衛し、買収を防ぎます」
「中央銀行で金を刷り、先のない企業に投げ与え、権利ばかり主張する労働者どもに慈悲をかけるのか? わが身が可愛ければ己で何とかしろと伝えろ」
「しかし我が国の食料はヨークスター太陰に依存しております。市民が飢えれば……」
ただでさえヴァルハラのスラムは年々拡大し治安は悪化の一途を辿っている。
ヨークスター太陰の賭博都市大東亜の周囲にも人工島を埋めつくすスラムが広がっている。
「市民が飢えると不都合でもあるのか? 弱きものは淘汰されるのが蘇利耶ヴァルハラの掟だ。同じことを何度も言わせるな」
「市民が飢えれば暴動を起こす可能性があります。なにとぞご再考を」
「その時の為のバイオロイドだ。掟に従えぬ者は処分するまで。蘇利耶ヴァルハラのやり方に異論を唱える者に市民の価値など存在せん」
「しかしそれでは我が国には想像もつかない傷が残る事になります」
「それがどうした? 後学の為に教えてやろう。その市民とやらが傷を負った時、我々自由主義経済圏の通貨価値はどうなる?」
岸の言葉に木戸は戦慄する。市民が飢えても反乱者がバイオロイドに虐殺されようと……
「通貨は守られます」
「分かれば良い。貴様はリッシモンを葬る策を考えて参れ。リベルタ大陸の連中に金の味を教えれば遅かれ早かれ自由主義経済圏に加わり、我ら蘇利耶ヴァルハラの掟に従わなくてはならなくなる」
木戸は岸に平服する。岸は木戸の考えの及ぶ人間ではない。
――人は駒、駒に血肉は不要――
人を駒として自由に扱う事が自由主義の肝というものだ。
――俺はリッシモンを恐れるばかり自分を見失いかけていたのか――
木戸は土下座したまま入口のドアまで戻る。
「木戸小五郎、必ずや陛下の御前にリッシモンを跪かせて御覧に入れます」
「止まれ。貴様木戸と言ったな?」
言われて木戸は初めて岸に名前を呼ばれた事に気付く。
「今の役職は課長か……今日からお前は部長だ。あと東條にも目を光らせておけ。あれは石の裏で策動するのが好きなワラジムシの一種だからな」
「ははあっ!」
木戸は額をコンクリートの床に叩きつける。
公安部部長となれば権勢の振るい放題、予算も使い放題だ。
リッシモンは理想などというものを掲げる限り必ずや非情な現実、木戸の前に敗北する事になるだろう。
――所詮この世は弱肉強食よ――
木戸は内心で舌なめずりして呑気な笑顔のリッシモンの顔を思い出した。
〈2〉
バレンシア朱雀のウロボロスエンターテイメントの会議室には役員が顔を揃えている。
バスチエはキャリアと一緒に移動している為に帰還まで後二週間はかかる。
――超特急を使ってくれれば二日で帰って来れるんだけど――
社長だけバレンシア朱雀に戻っても仕方がないと考えているのだろう。
実際バスチエだけやってきても会議に出席させるくらいしかさせる事がない。
「2.0の話は説明するまでもありません。各自資料を参照されて来たものだと考えています」
へウォンは前置きとして言う。これだけ企業と社会が慌ただしく動く中で知らないというのであれば役員としてどころか社会人としての資質が欠けているという他ないだろう。
「我が社の経済同盟への参加は不可避です。その上でサブスクリプションやチケットの割引きが交渉材料である事は言うまでもありません。しかし、低価格化に伴う収益減はコンテンツの劣化を伴います。その点について皆さんの意見を聞かせて下さい」
へウォンの言葉に役員たちの表情が引き締まる。
舞台の予算を減らした、ドラマの製作費をカットした、それで品質が劣化するならウロボロスの名に値しない事は誰もが理解している。
「ウロボロスミュージックのローシェ・フランセンです。我々のサービスでは無料サービスでは曲の間にCMが入るようになっています。価格を下げるのであれば広告収入を考えるべきではないでしょうか?」
ローシェの言う事には一理あるが致命的な欠陥がある。
「ウロボロスピクチャーズのシビル・バルビエです。映像の合間にCMが入るのは視聴者にとって大きなストレスになります。没入感も失われるために作品の評価を大きく棄損する事になります。やるのであればPPL(間接広告)を用いるべきです」
間接広告はドラマや映画の作中でスポンサーの商品を使うというもので、アイドルがSNSにブランドの衣服を着て写真をUPするのも同じ効果を狙ったものだ。
「ウロボロス歌劇のリージヤ・レオノヴァです。間接広告はその時は良くとも時代を超えた普遍的な作品には不向きです。しかも舞台芸術で商品を出したとしても大きなものでない限り顧客の目には映りません」
リージヤの指摘は的確だ。間接広告は数年後に顧客が映像を見て笑える程度のものであればまだ許容範囲だが、著作権や肖像権で映像にモザイクを入れなくてはならなくなる事もある。そうなれば顧客は興覚めだ。
「我が社はこれまで対価に見合ったコンテンツを顧客に提供する事でウロボロスというブランドを守ってきました。低価格や広告で品質を落とす事は許容できません」
専務のマリア・ルカレッリが言うがそれでは何を持って他社と渡り合うと言うのか、同盟が続く以上長期的な視野で行えるものでなくてはならないのだ。
「マーケティングのロゼッタ・ヴァネッリです。ここは敢えて高価格のプレミアムプランと同盟企業に対するCM作成で答えるべきであると考えます」
さすがは虎の子のマーケティングだ。へウォンは前のめりになって耳を傾ける。
「まずプレミアムプランは同盟企業をモデルにしたPPLに特化した番組と位置づけます。例えばヒュンソのポラのユーザーであれば現実のヒュンソをモデルにしたドラマを見る事ができます。これは一般のユーザーでは視聴できず、ポラユーザー以外が見る為には追加購入やプレミアムプランへの加入が必須となります」
そう来たかとへウォンは思う。PPLに全振りしたドラマなら監督や俳優のファンでなければ敢えて観ようとはしないだろう。しかし、ネタにはなるしドラマをコンプリートしたいという顧客に対しての効果は絶大だ。
「このプレミアムプランを15秒から30秒に凝縮したCM動画を同盟企業に対して提供します。これにより企業はウロボロスの作った高品質なCMを使用できるだけでなく、CMを見た顧客がプレミアムプランの映像作品や楽曲を購入する事も想定されます」
ヴァネッリが実際に映像を映し出しながら言う。
有名な役者が15秒出てくるだけでどんなドラマなのか気になってくる。
それがPPLのネタ映画だと分かっていてもだ。
「ヴァネッリ社長の案に私は賛成します。意義のある役員はいますか?」
へウォンの言葉に異議を唱える者はいない。ウロボロスエンターテイメントは駆け引きの場に於いて低価格という守りではなく、付加価値という攻めで挑む事になる。
「次の議題です。UMSのランナーが旧式である事は既に確認されてきました。2.0に対応する為にもアップデートが必要です。現在ロビン・リュフト選手に遮那王が作られていますが、ヤン・イェジ選手の千本桜はG&T社の出資を巡って足踏み状態、更にクリスチャン・シュヴァリエ選手のセラフィムの損傷は重大で修理するだけでも多額の費用がかかると想定されます。経営者としては旧式のランナーを壊されて修理用を垂れ流すくらいなら新規で建造すべきだと考えます」
へウォンの言葉に議場がざわめく。
セラフィムを新しくするならばルビコンやナイトライダーも新しくしようという話になる。
会長の機体という事でセラフィムについては特別予算を組めたとしても、他の機体については予算を別途獲得しなくてはならない。
『UMSのヴァンサン・バスチエです。何とか本社で新造してもらう事はできませんか?』
バスチエが言うと、
「できません」
マリアが即座に却下する。
「G&T社については現場からの発案なのですがヤン・イェジ選手を迷宮少年の九番目のメンバーとするという事で広告料の獲得を目指しています」
ヴァネッリが現状報告する。
「四年間かけた企画がG&T社の歓心を買う為に利用されるというのは納得しかねます」
ローシェが反対意見を述べる。デビュー曲を販売する事になるミュージックとしては受け入れがたい事だろう。
『そうは言っても迷宮少年の連中はランナーの訓練をしてたし、イェジやロビンに仲間意識もある。自然な事なら任せるべきなんじゃないか?』
バスチエが言う。
「迷宮少年が関与する事でG&T社の財布の紐が緩む可能性はあるの?」
へウォンは尋ねる。可能性の有無で結果は大きく変わる。
「極論を言ってしまえばライブでファビオが使用する羅生門には費用を出すでしょう。G&T社がこれまで予算を割いてきたのは迷宮少年に対してであって、UMSに対してではないのです」
ヴァネッリの言葉にへウォンは頷く。迷宮少年サバイバルの三か月のスポンサーだったがそれ以上のものにはなりえないらしい。
元々ファストファッションのメーカーにモータースポーツのスポンサーをしろという事に無理があったのかもしれない。
「G&T社については白紙とします。迷宮少年のサバイバルツアー費用が出た事で良しとしましょう。マーケティングは新規のスポンサー獲得にミッションを切り替えて下さい」
へウォンが言うとヴァネッリが承諾する。
「会長の機体に関しては本社が特別予算を組む事も検討しなくてはなりません。しかし、ランナバウトがチーム戦である以上、一人が勝てばそれでいいという訳にはなりません。私は現在UMSの専属マイスターであるオルソン・カロルを独立させようと考えています。子会社化する事で他のチームの機体を受注できるようになれば稼働率が上がり、収益も比例して上がります」
へウォンは資料を提示して言う。
「2.0になる事で各チームが機体の刷新をはかる事は容易に想像がつきます。現在最も高名なマイスターはノーラ・ブレンディですが、ヨークスター太陰への2.0の技術流出を同盟が認めるかどうかは不明です。次いでマシンメーカーのメルカッツェ、デビルキッチンの機体で有名なヴィオネット・カイエン氏、引退して十年ですがオーギュスト・ル・ヴェリエ氏がいます。ここにオルソン・カロルを加えたいと考えています」
へウォンの言葉に役員たちが低く唸る。
オルソンの実績はマイティロックと千本桜だけだ。
しかしマイティロックはVWCの量産機だし、千本桜はあくまでヴァンピールを改修したものに過ぎない。
その千本桜の戦績は一勝二敗で相手を考えるなら善戦と言うべきだが、投資家の背中を押すには弱すぎる。
「オルソン・カロルの子会社を立ち上げたとして仕事が来るのですか? マイスターを名乗りたいだけの連中ならいくらでもいます」
副社長のアンドレイ・張が言う。
「何はともあれ宣伝材料になるランナーを完成させてもらわないと何とも言えません」
ヴァネッリも及び腰だ。
「仮にウロボロスファクトリーとしましょう。この会社が更にヴィオネット・カイエン氏を招き、デビルキッチンとホウライの機体を受注するとしたらどうです?」
へウォンの言葉にうめき声とも唸り声ともつかない声が響く。
「その為の宣材としてなら現行のランナー刷新と千本桜の費用を追加で捻出できるのではないですか?」
ロビンの遮那王に上乗せするなら概算一千億を超える大型の出費になる。
「ランナーは毎年作り変えるものでもないですし継続して収入を得る事が難しいと考えますが……」
マリアが言うがそんな事は百も承知だ。
「それはカイエン氏にとっても同じ事です。2.0で同じスタートラインに立つ以上、今後繁忙期と閑散期は重なると予想されます。仮にファクトリーを立ち上げてもマイスター一人では捌き切れません」
へウォンの言葉に沈黙が下りる。
らしくない積極財政を口にしている事は承知している。
しかし、ここでランナバウト界のシェアを掴んでおけば今後自前のランナーが用意できないと泣き言を言う必要がなくなるのだ。
「今後PPLの映像作品を作るだけで一本30億と考えても百五十億以上の予算が必要となります」
ヴァネッリは苦い声だ。
『Bクラスランナー一機と同じ予算だ。ファクトリーが予備部品や整備まで請け負うなら一機当たり400億の売り上げにはなる』
バスチエが珍しく役に立つ事を言う。
「何としても会長の機体は作りたい。叶うならば会長が自ら選ばれたマイスター、オルソン・カロルの機体に乗せてやりたいとは思う」
元から会長派のアンドレイが言う。
「要はオルソンに実績がない事が一番の原因である訳ですよね?」
マリアが問題の核心の一つを突いて言う。
――ならば……――
「オルソンには遮那王を完成させてもらい、カイエン氏にはギャラクシーの機体を作ってもらいます。そこで一対一のデュエルでエキシビジョンマッチを行うというのはどうでしょう? 2.0同士が戦う初のランナバウトとなれば耳目が集まるでしょう」
へウォンは言う。カイエンを引きこめればどちらが勝っても仕事は来る。
遮那王は既に予算計上されているのだし、どの道作る事になるギャラクシーの一機は宣伝費用だと思えばいい。
そこでロビンが活躍して今後UMSの機体に新しいスポンサーがつくなら大歓迎だ。
「まずはUMSの機体を一気に作るのではなく、敢えてギャラクシーの機体を一機仕上げる事で宣伝効果を優先するという事ですね。エキシビジョンなら悪くないと思います」
マリアが折れた様子で言う。多少の無理でも押してみるものだ。
「それにしても社長らしくない積極姿勢ですね」
くだけた様子で重鎮のアンドレイが言う。
「冷静に考えて中途半端なランナーで今回みたいに負けて戻られたら勝てない上に修理費用は出ていくって負のスパイラルになる事が見えてるからよ。それに今回は2.0って新技術が導入されるんだし、どの道どのチームも機体を刷新しなきゃならない。それなら先手を打って勝ちを稼いで優良なスポンサーを掴んだ方が得策でしょう?」
へウォンの言葉に一同が納得した表情を浮かべる。
「これまでの貯金を吐き出す事になりますよ」
マリアの言葉にへウォンは頭を振る。
「勝負のしどころを間違えたくないのよ。だからってPPLも手を抜かないで。ウロボロスは世界最大のエンタメ企業なんだから」
へウォンはウロボロスの誇りを胸に言う。
本当は一気に機体を刷新したいがそれはオルソンの実力が認められてスポンサーがつけばこそだ。
――頼んだわよ。オルソン――
ベテランのヴィオネット・カイエンが加わればファクトリ―はブレンディ工房に並ぶものになるだろう。
――後はカイエンをどう口説き落とすかね……――
カイエンは犬好きが高じてドッグ系と言われる犬をモチーフとしたランナーを作っている。
その最高峰がデビルキッチンのブラックドッグ、ケルベロス、ジェヴォーダンだ。
ジェヴォーダンは厳密には狼だがどれも伝説や神話上の犬がモチーフだ。
ウロボロスとギャラクシーのエキシビジョンが上手く行けばウロボロスファクトリーは軌道に乗り、ランナーを建造する為のスポンサーも同時に集まるはずだった。
〈3〉
VCB(蘇利耶ヴァルハラ中央銀行)議長アーヴィン・オーウェンは静寂に包まれたオフィスを眺めている。
金融取引の心臓部であるこのフロア一つだけで216名のスタッフが働いている。
前議長ステラ・ヴァン・パーレスが一身上の都合と言って退社して以来、オーウェンが議長としてVCBを取り仕切っている。
「諸君、現在リベルタの経済同盟がゼネラルエンジニアリングを狙っているが本丸はグルメロワーヌによる食料資源の独占だ。現状では蘇利耶ヴァルハラとヨークスター太陰は防衛の姿勢を見せていない。事態がこのまま推移するならヘルの安定資産としての価値は高まる。手段を問わずにヘルを獲得し外貨保有高を高めろ。それが明日のVCBを守る事にも繋がる。我々は勝算の無い戦いはしない。以上だ」
オーウェンの言葉に社員たちが敬意にも似た表情を送って来る。
VCBができた頃、金融と言えば流通の道具でしかなかった。
金が金を生む事はなく、せいぜいがものの価値を計るものだった。
だが、独自通貨ドルを発行したリチャード・岸が中央銀行システムを運用した事で状況は一変した。
VWCはドルを用いてヘル通貨に対し高いレートで物品を金と交換し、金に対する信頼を世界に広めた。
グロリー騰蛇、アルザス太裳、ヨークスター太陰が中央銀行システムを採用し、ベスタル大陸はほぼ陥落した言っていい。
当時、オーウェンはヨークスターの大学で心理学を研究していた。
そもそも蘇利耶ヴァルハラが出現するまで経済学という分野が存在しなかったのだ。
物流と心理学を駆使して、師匠筋に当たるステラと手探りながら金融の運用を考えた。
「投機筋がグルメロワーヌの動きに気付き始めたようです」
オーウェンの後輩に当たるクララ・ルブランが声をかけて来る。
クララはオーウェンの四年後輩で、ヨークスターに新設された経済学部を卒業した片腕だ。
「信用売りを仕掛けろ。どの道ゼネラルエンジニアリングはリベルタの手に渡る。VCBの動きを見て投機家が買いに走った所で売り払え」
オーウェンは二手、三手先を考えている。
工業のゼネラルエンジニアリングと農業メジャーを奪われるヨークスター太陰はヘル通貨圏に一気に近づき、相対的にイースの価値は下がるだろう。
どうせ避けられないのであるならこの状況からいかに金を生み出すかを考えるべきだ。
オーウェンはリベルタのリッシモンのように世界の人々を守りたい訳ではない。
金を使って金を生む事でしか生きて行けない者がいる。
水の無い地域があれば、ドルが現れる前なら世界の人々が良心で水を提供しただろう。
しかし、その間、難民は飢えており、何ら生産的活動をしていない。
一方的に受益する事は、善としては正しいかもしれない。
しかし、砂漠で動けない人間に水を支援したとして、難民に何ができるだろう。
蘇利耶ヴァルハラを始め、貧民窟の人間は何ら生産手段を有していないのだ。
一方、金融を仲介すれば、水のある地域が水を提供するのではなく、金を借りる事で輸送手段を自ら用意するだろう。
難民を工場なり、缶詰工場なりに放り込む事も出来る。
一見難民は不幸かも知れないが、投資家たちはそれ以前に生きる為の投資を行っているのだ。
――全ての人間が価値観を共有する方法は金しか存在しない――
オーウェンはそもそもベスタル大陸を旅するサーカスで生まれた。
テントを張って芸をすれば地域の人々は様々な特産品や食糧を持ってくる。
もちろん食糧も提供される。
しかし、集落が無かったり、人口が少なかったり、客足が悪いと食べるものにも事欠く事になる。
サーカスの団員は予防措置として手に入れた食料品などを、安定資産である貴金属として保有していた。
しかし、干ばつがあれば金を積み上げようが、水や食糧の方が遥かに高い価値を持つ事になる。
しかもサーカスという業種は定住する事が難しい。
手品でも同じ事が言えるが、同じ芸を二度も三度もやったら客足は途絶える。
各地を回り、数年ぶりに見るから客も楽しいのであって、一か所でやっていたらあっという間に食い詰める事になる。
ウロボロスのように大都市でホールを持てれば客も呼べるが、飽きられるという問題は常に付きまとい、ショーをする人間の身体能力には限界がある。
そんなチキンレースをしていられないと考え、親とは違う道を選んだ。
蘇利耶ヴァルハラという組織は気に入らないが、金融には無限の可能性がある。
――俺は世界に革命を起こしつつあるんだ――
オーウェンはめまぐるしく変わる数字の羅列を追う。
その数字には金塊を遥かに超える価値が存在するのだ。
〈4〉
深夜、トレーニングを終えたイェジはキッチンに足を向けた。
迷宮少年のレッスンに加わらなくなった分、ランナーのシミュレーションと天衣星辰剣の練習に打ち込んでいる。
「オルソン、晩ごはんできた~?」
キッチンに入ったイェジが言うと見慣れない男女の姿があった。
「ノックもせずに何かしら」
女が美味しくなさそうな料理を作りながら言う。
「あれ? オルソンに会いに来たんだけど」
「オルソンは対人恐怖症なの。話なら私が聞くわ」
女がイェジに向き直る。
「えっと、いつも一緒にご飯を食べてるんだけど……」
「オルソンに付き合ってくれてありがとう。私が来たからにはもう必要ないわ」
女がさも当たり前の口調で言う。
「あの……あなたは誰ですか?」
「エイミー・アッシュベリー。こっちはセバスチャン・ロドリゲス。オルソンとは大学の同じゼミでこれから一緒に働く事になるわ」
友好の欠片も見せずにエイミーが言う。
――すっげーやな女――
「これまで迷惑かけただろう? もう心配いらないからな」
セバスチャンが言う。
――私はオルソンに会いに来たのに――
「オルソンはどこにいるの?」
「オルソンは部屋から出ないのよ」
エイミーが何を馬鹿なことをと言わんばかりに言う。
違う。オルソンは買い物にも行くし、夜中に隠れて身体を鍛えたりしている。
イェジはエイミーに背を向ける。直接オルソンに話をしなければ納得いかない。
「どこへ行くつもり? オルソンと話をするなら私を通してもらわないと」
「はっ、はぁ? あんた何様?」
イェジは声を上げる。オルソンとの付き合いが長い訳ではないが、こんな嫌味な人間を間に挟むような間柄ではない。
「私たちとオルソンはチームよ。あなたこそ何者なの?」
「私はウロボロスのライダー、ヤン・イェジよ」
「ライダーなら体調管理も仕事のうちじゃないのか? こんな時間に出歩いていいのか?」
セバスチャンが嫌味を言ってくる。ライダーとして練習してお腹がすいたからやって来たのだ。
オルソンの食事を食べさせない方がライダーの健康に悪いではないか。
――オルソンは何でこんな人たちと仕事をするの?――
キッチンを出たイェジはオルソンの自室に向かう。
「オルソン、キッチンに変な人たちがいて会わせないって言ってるんだけど」
ドアを叩いてイェジは言う。
「今仕事の補佐を頼んでいるんだ。そっとしておいてもらえないかな」
ドアの向こうから声が聞こえて来る。
――補佐って――
「オルソン食事は自分で作らないの?」
「彼らが作ってくれるからね」
「オルソン部屋から出ないの?」
「身の回りの事は彼らがやってくれるからね」
オルソンが機械的にイェジに答える。
「オルソン料理好きじゃん。夜中にウロウロするのも好きじゃん」
「夜中に動くのが好きなんじゃなくて人を避けてるだけだよ」
――いや、それは知ってるんだけど――
そういう事ではない。オルソンはどうしてエイミーに何もかも任せて引っ込んでしまったのか。
「オルソン、どうしてあの二人と仕事をするの?」
「僕は病気持ちだからね。健常者には分からない事もあるよ」
「私は平気じゃん。私までのけ者にする事ないじゃん」
イェジが言うと背後から足音が近づいて来た。
料理のトレーを持ったエイミーとセバスチャンだ。
「あなた、そんな所で何をしているのかしら?」
「私はオルソンと話をしてるんだ」
イェジはエイミーを睨んで言う。
「もうその必要はないって事がどうして分からないのかしら。オルソンへの話なら私が聞くわ」
エイミーが溜息をついて言う。
「あんたオルソンの何なのよ!」
「同じ事を二度も三度も説明させないで頂戴」
「ライダーなら寝るのも仕事だろう? さっさと自室へ帰れ」
エイミーに続いてセバスチャンが言う。
――むっ……ムカつくぅ~――
「おっ、オルソン!」
イェジがドアを叩こうとするとセバスチャンが腕を掴む。
「子供とはいえライダーなら少しは聞き分けろ」
セバスチャンの言葉にイェジは言い返す言葉が出てこない。
「帰る!」
イェジはドアに背を向けてキッチンに向かう。
棚の中にはまだラーメンが残っているはずだった。
〈5〉
ヴィオネット・カイエンは二頭のボルゾイを連れてロワーヌ天后の田舎道を歩いている。
32才、アレックスのブラックドッグを作ってから十年の月日が経とうとしている。
暮らし向きは悪くない。
アレックスの活躍もあってブラックドックの市販モデルのライセンス契約をメルカッツェと結んでいる。
ドッグ系というジャンルを生み出したのは他でもない、カイエンだ。
モーガンのケルベロスを作り、最近ではジャンヌのジェヴォーダンも作った。
自宅のログハウスに戻ると端末に着信が残されている。
『ウロボロスエンターテイメントのカン・へウォンです。カイエン氏にお話があって連絡させて頂きました。改めてご連絡させて頂きます』
ハーブティーを淹れながらヴィオネットは用件を考える。
ウロボロスがマイスターに連絡を取って来たという事はランナーを設計して欲しいという事だろうか。
しかしセラフィムはル・ヴェリエ氏の作だしナイトライダーはブレンディ工房製だ。
ヴィオネットはUMSのホームページを確認する。
イェジという新人が新たにライダーになっている。ランナーは千本桜という名前で一見新型機だが、中身はヴァンピールだ。
――でも、このカスタムをしたマイスターもいるって事なのよね――
ヴィオネットは長い黒髪を指先で弄びながら考える。
カスタムを指揮したマイスターの腕は確かなものだろう。それだけの人間と契約していながら仕事を依頼したりするだろうか。
ヴィオネットはハーブティーを一口飲んでから端末でリダイヤルする。
『ウロボロスエンターテイメント社長室オットー・ノイマンです』
「連絡を頂いていたヴィオネット・カイエンです」
『すぐに社長にお繋ぎ致します』
ヴィオネットはホームページを確認する。カン・へウォンはウロボロスエンターテイメントの社長であったらしい。
『ウロボロスエンターテイメント社長カン・へウォンです。折り返しのご連絡ありがとうございます』
「用件というのは新しいランナーを作って欲しいという事かしら?」
ヴィオネットは切り出す。社交辞令は好きではない。
『我が社は新たに競技用ランナーを製造する工房、ウロボロスファクトリーを設立します。設立に辺り是非カイエン氏をお迎えしたいと考えています』
「私は今の生活に満足しています。ウロボロスで働くつもりはありません」
会社勤めをする気ならメルカッツェから十年も前に話が来ている。
それを断ったのは人間関係が煩わしいからだ。
世間の喧噪から離れてこそ設計に没頭できる。人々が思い描くセレブの都会暮らしより田舎の小路を散策する方がカイエンにとっては贅沢なのだ。
『2.0の新規格の事はご存じかと思います。これから各チームが一斉に新型機の建造を開始します。我が社がファクトリーを立ち上げても捌き切れる数ではないでしょう』
「その時には私にも依頼があるはずです。ウロボロスを通す理由がありません」
『我が社はカイエン氏に望む作業環境と充分な報酬を約束します』
「ウロボロスには優秀なマイスターがいるのではないですか?」
千本桜を思い出しながらカイエンは言う。
『はい。ただ率直に申し上げるなら我が社のオルソン一人では作業が追いつきません』
「私は世間の喧噪が嫌だから静かな暮らしを選んでいるんです」
『カイエン氏のお気持ちは尊重します。しかしこれから連日のように私のような連絡が入る事になるでしょう。それに一々応対する事を考えればマイスターとしての仕事に専念された方が落着きある生活を送れるのではないですか?』
へウォンに言われて市販版のブラックドッグを作った時の事を思い出す。
ブラックドッグにほれ込んだメルカッツェの営業社員が連日家を訪れて何とか作らせてくれと懇願して来たのだ。
2.0が発足すればリベルタの全チームが同じように動く可能性がある。
ウロボロスが最初というだけで、純粋にマイスターとしての依頼から工房の主任のような仕事まで次々と押し寄せる事だろう。
――あー、めんど――
二匹の犬、フレキとゲリと一緒に朝晩散歩ができれば人生満足なのだ。
とはいえそこそこにランナーを作らなければ生きていけない。
デビルキッチンの機体を作っているから、そのうちブラックドッグとケルベロスの改良なり新型なりの話は入るだろう。
デビルキッチンの専属なのだと断る事はできる。
しかし、厳密には専属という訳ではないし、アレックスに人払いをさせているという面が大きい。
「私はロワーヌ天后から動きたくないですし、今の生活を変えたくありません」
『現在我が社には大学を卒業したばかりのオルソン・カロルというマイスターがいます。彼には先輩として導く人材が必要なのです。もちろんカイエン氏にバレンシア朱雀に来てもらう必要はありません』
ヴィオネットは千本桜の映像を眺める。良い改修だとは思うがまだ荒い。
――まぁ私が最初に作ったブラックドッグ一世もそんなもんだったか――
マイスターは基本的に孤独なものだ。誰一人理解者のいない隔絶された空間で己と向き合って、わが身をすり下ろすようにして作品を作り上げる。
メルカッツェが大手でありながら突出した機体を作れないのはマイスターにその環境を与えていないからだ。
「それだと半分名義貸しのようですね」
『ファクトリーにはカイエン氏の意見を最大限に取り入れる事を約束します。対外的な交渉についても専門のスタッフが対応します』
「……私には犬の散歩があるのです」
それが大切だ。フレキとゲリの散歩ルートは決まっている。
時折野生に帰って道を外れる事はあるが基本的には同じだ。
『カイエン氏から仮にでも条件があるならお伺いできますか?』
「そういう話ならメルカッツェからあったんです。まだ立ち上げてもいない会社に言われても説得力がないと思いませんか?」
『それをカイエン氏にお願いしたいのです』
――う~ん、面倒くさい――
2.0とは余計な技術が出現したものだ。この先似たような話が毎日のように舞い込むのだろう。
「お気持ちだけありがたく受け取っておきます」
ヴィオネットは通信を切る。悪い話ではないし悪い相手ではないが自分の生活サイクルや生活リズムというものを変えられたくないのだ。
――離島を買って暮らしたいわ――
煩わしい喧噪から離れてフレキとゲリと一緒に静かに暮らすのだ。
〈6〉
「代表、ランチでもご一緒しませんか?」
練習の休憩の合間に意を決したロビンはジェーンに向かって言う。
「あ? おいアグネス、ロビンが飯を食おうって……」
ジェーンがアグネスに声をかけようとする。
「いえ、二人で食事をしませんか?」
心臓が喉から飛び出しそうだ。しかし何もしなければジェーンとの距離は縮まない。
ジェーンが困った顔で低い唸り声を上げる。
そんなに嫌な事を言ってしまっただろうか?
「その……何だ。私は男とは飯を食いたくないんだ」
ジェーンの一言が雷のようにロビンを貫く。
――こ、これは……――
ロビンには分かる。ロビンだから分かる。
――ジェーンは女性しか好きにならない……――
「前は仕事だって割り切って飲み会にも行ったけど……お前なら分かるだろ?」
言うだけ言ってジェーンが練習に戻ってしまう。
ロビンも相手が男なら余程親しくない限り食事などできない。
――ああ、僕が女の身体なら――
こんなに簡単に拒絶される事は無かったはずだ。
人は外見で判断するなと言うが理想論だ。少なくともジェンダーについては互いの性指向に合っているかどうかは判断基準にするはずだ。
ジムのルームランナーで走る足がいつもより重く感じる。
「ロビン、あんたたるんでるんじゃないの?」
ブラッドが声をかけてくる。
ロビンは泣きたい気分でブラッドの顔を見上げる。
「僕は一か月でスキニーが履けなくなったんですよぉ」
「カッコ良くなって来たじゃない」
ブラッドが笑みを浮かべて言う。
「日に日に男になっていく気がするんです。プロレスをするんだから筋肉をつけないといけないのは分かるんですが……」
「女性の身体とは筋肉のつきかたが違うし、鍛えれば鍛えるほど差は大きくなるわよね」
ブラッドが血も涙もない事を言う。
「僕は男になりたくないんです」
「なりたくないも何も身体は男でしょ? それとも性適合手術をするの?」
ブラッドの言葉にロビンは口を噤む。性適合手術をしてファンが離れたら?
ジェーンに見向きもされなかったら? 天災で医療が満足に受けられない時にホルモン注射はどうするのか?
そもそもおしゃれをしたり恋愛がしたいから女性の身体が欲しいのか?
「……そこまでではないです」
性適合手術を受けたからといって純粋な女になる訳ではないし、ジェーンから見て他の女性より魅力的かというと望み薄だろう。
――適合手術でも完全な女になる訳じゃないもんな――
整形を駆使しても頭の大きさや骨格は変えられるものではないし、顔を変えるだけでもファンが減る可能性は大きい。
「何で今更そんな事で悩んでるの?」
「振られる前に振られたからです」
ロビンが言うとブラッドが笑い声を立てる。
「そんな事日常茶飯事じゃない。一々凹んでたら身が持たないわよ」
ブラッドが言うがゲイのブラッドの方がパートナーを見つけられる可能性は大きいだろう。
「この人好きだなぁ~って思う事って滅多にないじゃないですか?」
「私はよくあるわよ」
――僕は相談相手を間違えているのだろうか――
「恋愛も仕事も失敗した数だけ充実したものが得られるようになるのよ」
ブラッドがウインクするがそう滅多に恋をしないから凹み方も大きいのだ。
ロビンが悩んでいるとゴングが鳴った。
リングに戻ってショーの練習をしなくてはならない。
「おい、ロビン、練習だぞ」
ヒルダが声をかけて来る。
――隣のリングではジェーンが練習するんだよな――
ロビンが男性を好きにならないようにジェーンも男性を好きにならない。
理想の女性のジェーンがロビンを愛する事はない。
――これがあと一か月も続くのか……――
〈7〉
「蘇利耶ヴァルハラは市民の救済を行わない」
オフィスを訪れた木戸の言葉にオーウェンは目を見開く。
「食料がグルメロワーヌに奪われれば国民が飢える。民を飢えさせて国も何もないだろう」
グルメロワーヌに農業メジャーが買収される所までは想定済だ。
しかし、どこかで安全弁を働かせるものだと思っていた。
「最低限の食料はグロリー騰蛇経由で入って来る。我々が飢える事はない。コストカットだと思えば良いのだよ」
「しかしいざという時の生産力が失われます。実体経済の後ろ盾無しに金融経済を成り立たせる事はできません」
オーウェンは食い下がる。
「それをするのがVCBの仕事だろう」
「一時的に通貨価値を上げる事ができても、売るものも買えるものも無ければ価値は暴落します」
金利の引き上げで一時的にドルの価値を上げる事はできる。
しかし、国債の償還が来れば支払額の増える蘇利耶ヴァルハラは債務不履行に陥る。
債務不履行になればVCBは資金回収ができず破綻する。
「一時的にでも可能ならやりたまえ。ドルの価値は遠からず上昇する」
木戸が自信に満ちた口調で言う。
「何の裏付けもなしに言われても困ります。そもそもVCBは政府から独立した機関です」
その為の中央銀行制度であるはずだ。
「資本金を出したのも資本比率が最大なのも帝だ。VCBはオーナーに逆らうのか?」
木戸の言葉にオーウォンは奥歯を噛みしめる。
中央銀行制度の最大の弱点はオーナーが存在するという事だ。
銀行は銀行であって政府のような自治を持つ訳ではないのだ。
「利上げをした所で償還となれば債務不履行です。破綻すると分かっていて施策を実行する事はできません」
オーウェンが言うと木戸が大げさに溜息をつく。
「いいだろう。我々の計画を教えてやろう」
木戸の計画を聞いたオーウェンは全身の血の気が引くのを感じた。
――リチャード・岸を止めなくては!――
金融経済は人類の革命だと思った。未来の幕開けだと信じた。
しかしそこに待ち受けていたのは……。
〈8〉
「VCBは蘇利耶ヴァルハラから独立した銀行だ! 蘇利耶ヴァルハラに指示されるのは到底認められん! 貨幣の発行権はVCBのものであり、蘇利耶ヴァルハラの介入は銀行法と行政法双方に抵触する!」
オーウェンはユグラドシルにあるリチャード・岸の執務室を訪れている。
コンクリート打ちっぱなしの無機質な正方形の中、スチールの事務机と椅子がある。
このような異様な部屋にいるから精神が歪むのだと言ってやりたい所だ。
「法がどうした? VCBが俺の所有物である事を忘れたか」
虫けらを見るような視線と傲然とした声で岸が言う。
室内にはA級特装を着たバイオロイドが二名、機械のような無表情で立っている。
「フェーデアルカのような曖昧ではない、明確なルールが存在するのが蘇利耶ヴァルハラでは無いのか! 法も金も無視するなら蘇利耶ヴァルハラは何を持って自らの正当性を訴えるのだ!」
オーウェンは叫ぶが、岸の表情は蝋人形のようにぴくりとも動かない。
「ゲームにはルールがあるから面白いのだ。一方的に嬲るだけではスリルに欠ける」
「貴様にとって世界はポーカーテーブルだとでも言うのか! 人間の営みを、命を何だと思っている!」
オーウェンは腸が煮えくり返るのを感じる。
金が人々を助けると思った。法が人々の公平性を担保するのだと思った。
「確かにお前の言う通りこの世界はポーカーテーブル、人はチップだ。そのチップがプレイヤーに意見できると思っているのか?」
オーウェンは拳を握りしめる。暴力に訴えれば殺される。
今でさえ殺されていないのが不思議なくらいなのだ。
――まさか……ステラ前議長にも同じ事が――
あり得ない話ではない。この暴君は金と法の素晴らしさを語るが、本人には守る気など微塵も無いのだ。
「故意に難民を生み出してリベルタ大陸を崩壊させるというのは本気なのか?」
食料が不足し、ものが買えなくなれば自由主義経済圏の人間は難民となってリベルタ大陸へと逃亡する。
リベルタ大陸は難民を保護しているが、一気に難民が増大すればキャパシティを超える。
更に岸は難民たちにあるアプリを持たせている。
それは不用品交換のアプリだが、ポイントがつく他、差額のありそうなものはポイントで交換できる。
だが、このポイントはドルと紐づいており、このアプリを通して難民たちはリベルタ大陸で楽に「ヘル」儲けができるようになる。
端末操作だけで金が儲かるのだから難民たちは真面目に働こうとなどしないだろうし、楽に金儲けができるとなればリベルタ大陸の人々もアプリを積極的に利用するようになるだろう。
リベルタ大陸の人間が自由主義経済圏の通貨を警戒していたとしても、アプリにより商品は州境を超えて次々に流れ込み、ヘル通貨は知らないうちに自由主義経済圏に流れ出す事になる。
このアプリがリベルタ大陸で普及すれば人々は我知らずにドルを使う事になるのだ。
「このアプリを普及させる為にどれだけの難民が、死人が出ると思っているんだ」
オーウェンは岸に向かって言う。
「駒の有効活用だという事が何故分からん。経済は最小限の手駒でどれだけ多くの駒を奪うかを競うものだ。それが金であろうと人であろうと同じ事だ。それが分からぬなら貴様の駒としての価値もそれまでという事だ」
傲然とした様子で岸が言う。
「だが、不粋な真似は好かん。俺とゲームをして勝てたら生かして帰してやろう」
岸が引き出しから小ぶりなトランプのようなものを取り出す。
「これは花札と言う。絵柄の組み合わせで得点が決まる。トランプのようなものだと思えばいい」
岸が言うとバイオロイドの一人が向い合せに椅子を置く。
逃亡すると思っているのか、背後に立つバイオロイドが刀を抜く。
「ルールの説明は?」
オーウェンは岸の真似をして八枚の札を確認する。
「死刑囚に死に方を教える阿呆がどこにいる? 分をわきまえろ」
相変わらずの表情でオープンになった札と自分の札を合わせる。
似たような絵柄を合わせると良いらしい。
岸は傲然としているものの完璧なポーカーフェイスだ。
ルールを覚える前に敗北する可能性が高い。
ポーカーのように捨てるのではなく蓄積されていくのがゲームルールのようだ。
絵はシンプルなものの方が価値が低く、凝ったものの方が価値が高い。
だが、どの絵がハイレートなのか、ポーカーのように特定の組み合わせがあるのかどうか分からない。
オーウェンが最初から持っていたのはシンプルな絵柄のカードだけだ。
ルールが分からず、岸が似たような絵で、凝ったものを集めている以上、邪魔をするしかないだろう。
幸いポーカーでいう所のダブルでは得点にならないらしい。
オーウェンは淡々と岸の邪魔をし続ける。
十枚シンプルなカードが揃う。
岸の手が止まる。
「こいこいはせんのか?」
意味は分からないが、それがポーカーのレイズに相当するならしない方が得策だろう。
「しません。ゲームオーバーです」
「つまらん。貴様の勝利だ。帰れ」
気分を害した風も無く岸が言う。
意味が分からないなりに勝負に勝つ事が出来たらしい。
――いや、知らなかったから勝てたのか――
オーウェンは速足になる足を抑えるようにしてユグラドシルを後にする。
金融だ法だ、人類の未来だなどと思って来たが……。
――VCBなどもうたくさんだ――
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