第2話 嵐の予感

〈1〉

  


 激しい雨が海面を叩き、雷光と雷鳴が止むことなく続いている。

 荒波の中で小さな漁船が洗濯機に放り込まれたように揺れている。

 セバスチャン・ロドリゲスは舵を握りながら頭から毛布をかぶったエイミー・アッシュベリーを一瞥する。

 ――こんな筈じゃなかった――

 リベルタ大陸を出た時は希望に満ち溢れていた。

 マイティロックを完成させた時、自分たちに不可能はないのだと思っていた。

 設計をしたのはオルソンだが、実際に部品を発注し、組み立て、テストを重ね、完成させたのはゼミの仲間たちだ。

 ――俺たちはあの時が一番光り輝いていた―― 

 マイティロックにVWCから一億ドルのオファーが来た時には断る理由が無かった。

 マイティロックは量産され、様々にカスタムされ、世界中のドラグーンライダーの畏怖と恐怖の的になった。

 マイティロックは最も愛されるアーマーになったと言っても過言ではない。

 ――でも俺たちは――

 マイティロック以上のランナーを開発する事ができなかった。

 設計者のオルソンがいないのだから当然だったのか?

 そんなはずがないと思っていた。オルソンは引きこもりで人前に出るだけで発作を起こす究極のコミュ障だった。

 ゼミの中でも浮いているというレベルでは無かった。

 唯一接点があるのがエイミーだったし、エイミー以外とは話をしようともしなかった。

 そんなヤツに負ける訳がないとゼミの人間はみんな心のどこかで思っていた。

 だからオルソン抜きでVWCに行く事に誰も反対しなかった。

 ――でもVWC俺たちが思っていたのとは全く別の世界だった――

 金払いが良かったのは契約金だけだった。

 ランナーの開発部門に配属されたゼミ生たちを待っていたのは過酷で非合理的な拷問にも似た日々だった。

 新人なのだから一番最初に職場に入って掃除をして温度調節を済ませておけ、から始まり、朝の朝礼の態度が悪い、社訓を読み上げる声が小さい等々。

 暇な管理職が一日中徘徊しており、プロでもないのに何かと説教しようとする。

 昼食をサボりだと言って憚らず、とにもかくにも席を離れる事を許さない。

 進捗が遅いと言っては毎日毎日長時間かけて延々と責め立てる。

 リモートワークをしたいと言えば通勤も仕事のうちという訳の分からない理論を持ち出す。

 他人を監視して文句を言い続ける暇があるならお前らが働けと言いたいが、一つでも弁解しようものなら一千倍になって返ってくる。

 それでも「マイティウイング」と「マイティキッド」を完成させたのは褒められてしかるべき事だったろう。

 しかし、マイティウイングとマイティキッドはマイティロックのようなベストセラーにはならなかった。

 激しい叱責とも拷問ともつかない日々が続き、一人、また一人と精神を病んでいった。

 そして遂にリーダーだったエイミーも倒れた。

 ――逃げるしかない――

 蘇利耶ヴァルハラにいては心を病んだ上、スラムに叩き落とされる事になる。

 後からどんな難癖をつけられるか分からないが命あってこそだ。

 セバスチャンは船の舵を握りリベルタ大陸を目指す。

 ――蘇利耶ヴァルハラを離れて再起するにはリベルタ大陸に行くしかない―― 

 そしてそこにはかつてマイティロックを設計した天才、オルソンがいるのだ。



 〈2〉



 健康的に日焼けした肌に掘りの深い顔立ち、切れ長の目に光るのは氷碧色の瞳。

 後ろに撫でつけた艶やかな黒髪とその精悍な顔立ちを体現するかのような逞しい肢体。

 ――なんてカッコいいんだろう――

 ロビンはリングの上で練習しているジェーンを見て溜息をつく。

 身長も高いしお姫様だっこされたら天にも上る気分だろう。

 ――実際に抱えられた時は投げ飛ばされる時なんだけど――

「おいロビン何ボサッとしてんの? ミチエーリ玄武グランプリで私ら再デビューするんだから」

 ハンナが声をかけて来る。

「いや、ちょっと考え事」

 ジェーンの事を考えていたなどと言える訳がない。

「気ぃ抜いてると大怪我するよ。私がケブラドーラからヌカドーラ、食らったあんたがティヘラからコンヒーロってのが見せ場になるんだから」

 ハンナがバックブリーカーでロビンを抱え上げ、関節を痛めつけた所で身体を逆さに抱えてヌカドーラ――パワーボム――で落とす。ロビンはダメージを食らいながらジャンプしてハンナの頭を挟んでティヘラで肩の上に乗り、この場合はフランケンシュタイナーで投げ飛ばす。

 プロレスの試合なら五分はかけるかも知れない一連の動きを一分に収めなくてはならない。

 ――最近サイクロンの人にただのレスラーとして扱われている気がする―― 

 現実問題としてタッグマッチをする時にサイクロンだけでは一名足りていないのだから、ミチエーリ玄武での興行でロビンの参加は必須と言える。

 もちろんそうしなければ企画としても成り立たない。

 ロビンは変則的な浴びせ蹴りのパターダでハンナをダウンさせる。

 起き上がらせてロープに振り、反動で戻って来たハンナをクロチート、ボディスラムで投げ飛ばそうとした所をラソ、アックスボンバーで逆にダウンさせられる。

 そこからハンナがケブラドーラからヌカドーラ、ロビンはティヘラで投げ飛ばす。

 ロビンがトップロープから飛んでプランチャで体当たりしようとしたのをハンナが受け止めてクロチートで投げ飛ばし、ダウンしたロビンを垂直式ブレーンバスターで投げる。

 一連の動きをするだけで肌に汗が浮かぶ。

 ハンナの身長は181センチ、体重は84キロ。

 対するロビンの身長は173センチ、体重は61キロだ。

 十分間見せ場だけで繋ぐというのは三十分の試合をするよりよほどきつい。

 同じ動きを繰り返し、自然に身体が動くようにするのはダンスと変わらない。

 ただ身体への負荷が大きくかなり痛いだけだ。

 ゴングが鳴り休憩になる。

 ロビンはミネラルウォーターのボトルをハンナに差し出す。

「ありがと。私らだいぶ動きが滑らかになってきたよね」

 隣のリングではジェーンが喉を鳴らしてミネラルウォーターを飲んでいる。

「ハンナさんのお陰ですよ」

「当たり前じゃん。私はこう見えてもベテランなんだから」

 入門してから二か月だがハンナは服のサイズで言うなら2サイズはダウンしている。

 ガチムチという訳ではないが筋肉系のモデルと並べても遜色ないだろう。

 ブラッドのトレーニングの成果が出ているのはいいが、ロビンも筋肉で服のサイズが一サイズアップした。

 お気に入りのブラウスに腕が通らなくなったり、スキニージーンズに足が通らなくなったりという悲しい副作用があるがミチエーリ玄武での興行を成功させる為には仕方がない事だ。

「あ、お迎えの時間だわ」

 ハンナが時計に目を向けて言う。

「じゃあ僕が迎えに行って来ます」

 ロビンはリングから飛び降りる。

 ハンナが保育園に迎えに行くよりロビンが遮那王で行った方が早いしヨナも喜ぶ。

「悪いねぇ」

 ハンナが言う。

「お前、ロビンをパシってんじゃねぇよ」

 ヒルダがハンナに向かって言う。

「新人は少しいびられるくらいがちょうどいいんだって。私らが入門した時も雑用とか色々やらされたじゃん」

「時代は変わってると思うぜ? パシってたらミニョンさんに何か言われるかも知れないし、またSNSが炎上するぞ」

「ヒールなんだから炎上してるくらいが丁度いいんじゃない。それにロビンがヨナを気に入ってるんだから……」

 遮那王がビルの前につける。

 玄関から外に出たロビンは遮那王のコクピットに跨る。

「ライド・オン! 遮那王!」

 勝手知ったる道を遮那王が駆ける。

 イェジはヴァンピールを改良した千本桜で一足先にデビューした。

 羨ましくないと言えば嘘になるが、仮にロビンが参戦していたとしても勝てたとは思えない。

 ――僕は今自分が置かれた場所でベストを尽くす―― 

 プロレスというスタイルを選んだのはロビンなのだし、日々練習も積んでいる。

 できる技も増えているし、ランナーのパワーなら相手と呼吸を合わせなくても投げ飛ばしたり関節を固めたりする事ができるだろう。

 ――僕はデビューでイェジをぶっちぎる―― 

 ライダーとしてのデビューとはサイクロンとの別れを意味している。

 ――ジェーンさんは見納めか……――

 自分の感情が恋なのか憧れなのか分からない。

 保育園の前に遮那王を停めてヨナが出て来るのを待つ。

 子供たちが喜ぶように遮那王はタイヤではなく四本足の犬のような形態にしている。

「ロビンだぁ!」

 子供たちが遮那王の周りに集まって上ったり座ったりして遊び始める。

「ただいまぁ~」

 保育園から出て来たヨナをロビンは抱え上げる。

 身内のように思っているからかも知れないがヨナが一番かわいいと思う。

 ロビンはヨナをチャイルドシートに座らせると遮那王を走らせる。

「今日ね、お絵描きがあったの」

「ふぅん。何を書いたの?」

 ロビンはチラとヨナに目を向ける。

「うちにはお母さんが二人いるって絵を描いたの」

 ヨナの言葉にロビンは心がほぐれるのを感じる。

 後一か月しかいられないと言ったらヨナは理解できるだろうか。

 ――僕がいなくなったらヨナはどう思うんだろう――  

 まだたった二か月しか一緒に過ごしていない。相手は二歳児で大きくなればロビンの事など思い出しはしないだろう。

 ――……僕はヨナが大切なんだよな――

 それが無責任な第三者の感情なのか本物の感情なのかロビンには分からなかった。



〈3〉



 ファビオはルートルの会議室で迷宮少年のデビューイベントの企画会議に出ている。

 迷宮少年は男性メンバー、ファビオ、セルジュ、ドヒョン、ロビンの四名。女性メンバー、アヴリル、ジス、エリザベッタ、オリガ、イェジの五名となった。

 デビュー曲も振り付けも決まって練習も始まっている。

「君たちの方からアイデアがあれば聞いてみたいけど」

 迷宮少年のマネージャーに正式に就任したハン・ジウが言う。

「演出はお任せしたいと思います。ただメンバーも参加している事ですし何らかの形でUMSを応援したいとは思っています」

 ジスが代表して意見を述べる。

「この間の慰労会みたいな企画ではなくて?」

 ジウが問いかける。

「俺は羅生門でデビューしたい」

 ファビオは温めていたアイデアを口にする。

「あなたはアイドルとしてデビューするのよ?」

「歩かせるだけです。機体にメンバーを乗せてステージに出ればインパクトがあるでしょう?」  

 それがUMSに連帯を示す事になる。コアなファンなら羅生門と千本桜が競ったりスパーリングした事を知っている。

「今の羅生門は人相が悪すぎる。カウルだけでもライブバージョンとかにできないか?」

 生真面目な様子でセルジュが言う。

 ジウが苦笑を浮かべる。

「一応舞台監督には伝えてみるけどあんまり期待しないで欲しいわ。他にアイデアのある人はいるかしら?」

 ファンとの交流企画の内容やサプライズで行われるゲームなどのアイデアがメンバーから出される。

 ――俺は羅生門に花道を作ってやらなきゃならない――

 羅生門は自分にとって少年時代の終わりを告げるものだったと思う。

 兄を恨み、思い違いをした自分にただ寄り添ってくれた機械。

 そして鬱積した思いを発散させ光の差す方へ導いてくれた愛機。

 ――羅生門とイェジが俺に前を向く方法を教えてくれた―― 

「あんた自分のデビューでUMSの応援なんてそんな殊勝だったっけ」

 会議が解散した所でアヴリルが声がかけてくる。

「UMSって言うか……お前は仲間だから言っとくけど俺はイェジを仲間とは思えねぇ……その、惚れてんだ」

 ファビオが言うとアヴリルが笑みを浮かべる。

「良かったぁ。相手が私じゃなくて。あんた面倒くさそうだから。で、イェジには告ったの?」

「考えた事もねぇって言われたよ」

 ファビオが言うとアヴリルが笑い声を立てる。

「そりゃ考えた事も無かったでしょ。でもファンが知ったら暴動もんよ」

「イェジはほとんどアスリートみたいなモンだしそんなに反発無いんじゃねぇか?」 

 イェジはそれほど好感度の低い子ではないはずだ。

「甘い! あんたはファンをナメてる! 夕食をカップラーメンで済ませ、副業をして推しにあらん限りの労力と財力を注ぎ込む。彼氏に使う金がなくても推しには使うのがファンってモンなのよ」

 アヴリルの言葉にファビオは頭を掻く。

「アイドルっていうのは覚めない夢を見せる存在なのよ。それがデビューするかしないかで彼女ができましたって、そんな生々しさが感じられるのはアイドルじゃない」

 分かってはいる。そう教育されて来たしファンを見ていればそうなると頭では理解ている。

 それでもイェジと相思相愛になりたいし祝福されたいと思うのだ。

「付き合えたとしても極秘か……」

「苦労するわよ。まぁ、三十路になればその辺りは自由がきいてくるだろうけど、その時まで続いているかどうかよね」

「そういうお前は誰かを好きになったりしないのか?」

「私は私を愛してるから」

 さも当たり前といった様子でアヴリルが言う。

「お前に聞いた俺がバカだったよ」

「あんたはやることなす事バカだけど、一生懸命やるから清々しいのよ。普通に生きている人ってどっかに安全ピンがあって、あんたほど何かに打ち込んだり熱中できる訳じゃない。だから、途方もない事をやろうとしたりやったりするあんたは失敗しても愛されるのよ」  

「それって俺を応援してくれるって事なのか?」

 ファビオが言うとアヴリルが真剣な表情を浮かべる。

「ルートルがバレンシア朱雀に戻るまで一か月。そこで私たちはデビューするんだし、そこから先はイェジは迷宮少年とUMSのライダーでそれこそ自分の時間なんて持てなくなる。チャンスがあるのは残り一か月よ」

 アヴリルに言われてファビオはドキリとする。いつまでもイェジが傍にいるような気がしていたが、一か月後には近いようで別々の人生を歩き出す事になるのだ。

 しかもデビューイベントの追い込みで心身共に余裕が無い。

 更にファビオは迷宮少年男子のエースなのだ。失敗は絶対に許されない。

 ――でも……俺はイェジがいるから頑張れる――

 イェジにスポンサーをつける為にも羅生門の企画は通って欲しい所だった。



〈4〉


 窓から差し込む黄金色の朝日を見ながらミニョンはデスクに並んだ栄養ドリンクの林をぼんやりと眺める。

 ――最後に部屋に帰ったのって何日前だっけ?――

 サイクロンのビルにシャワーも洗濯機もある事からミニョンは自宅には帰っていない。

「ソ主任、本社から2,0協定の草案が来ています」

 新人のコ・オンジョが端末を操作して言う。

 若さというものはいいと思う。ミニョンも歳という程ではないが、オンジョほどのパワフルさがある訳ではない。

「確認するわ。グルメロワーヌとヒュンソと……成龍公司からも条件案は出てるのよね」

 成龍公司は子龍を流通に乗せるべく早々に協調路線を受け入れた。

 ヒュンソはフルスペックのポラを提供するチームは選ばせろ、新型機を用意しろというのが条件。

 グルメロワーヌは広く浅くが条件だが、食料庫の言う事で発言力は大きい。

 ウロボロスは提携先でのサブスクリプションの低価格化とチケット販売や物販の割引が迫られている。

 更にフレートライナーを保有するメルカッツェは半導体分野でヒュンソ、重工業分野での成龍公司とのシェア見直しを求めているし、海上権益を握るホウライの親会社ポセイドンは海運で成龍公司、海産物でグルメロワーヌとの権益のすり合わせを求めている。

六つの大企業の利害が入り混じるのだから話は簡単ではない。

 宣伝広告という部分ではウロボロスが最大の力を誇るが、で、あればこそこの協議において審判の役割を求められる。

「いっそグルメロワーヌが俺が法だ! 俺に従えって言ってくれれば楽なんですよ。そうすれば残りの五社は利害の対立を忘れて大同盟を組むでしょうから。そこにグルメロワーヌを組み込んだ方が早いです」

 オンジョが頭に冷却ジェルを押し当てながら言う。

 確かにその発想は面白いが2.0を言い出したアルセーヌ・リッシモンはそれを見越しているから低姿勢に徹しているのだろう。

 グルメロワーヌはVWC包囲網になればヨークスター太陰の海産物をポセイドンに投げ与えてもいいのだし、魚は主食に成りえないのだからグルメロワーヌの地位は揺るがない。

 VWC包囲網が動き始めればヨークスター太陰からの物流が加速してポセイドンと成龍公司は喧嘩している場合ではなくなる。

 ヒュンソとメルカッツェはヨークスター太陰を中心に攻勢を仕掛けウロボロスのソフトパワーがそれを後押しする。

 ――VWC包囲網が発動すれば2.0交渉も楽なんだけど――

 だが、2.0も成功できないようでVWC包囲網などという大同盟を成立させられる訳がない。

 もちろん大同盟はリベルタ大陸単位で行われるものだから2.0のように企業レベルでどうにかなる問題ではない。

 朝も早いと言うのに端末がアンドリューからの着信を告げる。

『グルメロワーヌとの交渉はどうなっている?』

「グルメロワーヌの交渉相手はポセイドンですよ」

 2.0の中心はグルメロワーヌだがウロボロスのメインの交渉相手はヒュンソグループだ。

『それなんだがグルメロワーヌが東リベルタの黒鉄屋というのを使ってポセイドンを牽制しているようだ』

「これから同盟を組もうとしているのに戦争してどうするんですか。それに黒鉄屋って何ですか?」

 ミニョンにはグルメロワーヌの考えている事が分からない。

『グルメロワーヌ担当はお前だ。状況を把握して本社に報告しろ』

 アンドリューからの通信が切れる。

「゛あ゛あ゛あぁぁぁ~」

 ミニョンの口から言葉にならない声が漏れる。

「ソ主任大丈夫ですか?」

 オンジョが声をかけて来る。

「とりあえずグルメロワーヌ……リッシモンに連絡」

 ミニョンが言うとオンジョがリッシモンをコールする。

 ミニョンはリッシモンが苦手だ。グルメロワーヌの窓口と言うと気さくな様子で出て来るのだが、実際にはリベルタ最大の権力者と言っても過言ではないのだ。

 お前は大御所らしく料亭に籠って出て来るなと言いたいがどこにでも湧いて出るのがリッシモンだ。

『やあ、朝早くから元気だね』

 バンダナを巻いて鍬を持ったリッシモンが端末越しに姿を現す。

 誰が元気なものか。誰のお陰で朝っぱらから仕事をさせられていると思っているのか。

 本社から10分のマンションが待っていなければ身を削って働いていない。

「おはようございます。早速ですが用件に入らせて頂きます。ポセイドンとの交渉で黒鉄屋という企業を使っているのは事実ですか?」

『うん。成龍公司の船団を使って漁業をさせてポセイドンに圧力をかけてる。最終的には船団はポセイドンに売るんだけどね』

 さらっと重大な事を言うのがこの男の恐ろしい所だ。

「ポセイドンに圧力というのは?」

『漁業の権益でポセイドンが欲張っているからね。シェアを脅かす第三者を作ってやったって訳だよ。実際ヨークスター太陰に進出すれば今のポセイドンのキャパじゃ追いつかない。グルメロワーヌは自前の高品質な海産物を手放したくないしね』

 ――欲張っているのはどっちだ――

「で、黒鉄屋って言うのは何なんです?」

『グルメロワーヌが保有する外貨を運用する投資銀行だよ。リベルタ大陸は同盟の条件としてヘル通貨以外使わない。交易もヘル通貨を貸し付けて行う訳だから同盟は他州の通貨を使う必要はない。ただ、通貨発行圏では流通に異なる通貨が使われて為替が変動し続ける。そこで資産運用して利益をあげる事を目的として作ったのが黒鉄屋だよ』

 ――この人は尻の毛までむしる気か――

『元々黒鉄屋は黒鉄衆の運転資金を作る為に作ったんだ。グルメロワーヌには使うあてのない外貨があったからダメ元で運用してみたら意外に上手く行ってね』

 ――あなたの動きで通貨が乱高下するんだからほとんどインサイダー取引ですよね――

『どうだい、ウロボロスなんてやめて黒鉄屋の社長でもやってみないかい?』

 悪魔の囁きだ。しかし……

「私はウロボロスが好きでウロボロスで働く事に誇りを持っていますから」

『それはいい事だ。黒鉄屋は二年もすれば無くなる企業だしね』

 リッシモンの言葉にミニョンはヒヤリとする。もし黒鉄屋の社長になると言っていたらどうなっていたのだろうか。

『黒鉄衆は岸を倒せば使命を終える。黒鉄衆を維持する為の黒鉄屋は必要なくなるし、全てが上手く行けば通貨はヘルに統一されて為替で儲ける投資銀行なんて存在意義を失う』

 リッシモンはミニョンの先見の明を見ようとしたのだろうか。

「つまりはどの道解散する企業だから間接的に海上権益をポセイドンに売って貸し借りをチャラにできれば儲けものという事ですか?」

『そうそう。ウロボロスの社員は話が早くて助かるよ』

 ――岸とリッシモンとどっちが悪党か分からなくなるわ――

 だがリッシモンという人物が出て来なければ世界はVWCが法となる暗黒の世界になっているのだ。

 ――世界は毒をもって毒を制しているのかもしれない―― 

「とにかくあなたの計画と黒鉄屋については本社に連絡します」

『今黒鉄屋の漁業に投資しておけばポセイドンに売却する時にいい金になるよ』

 リッシモンの言葉にミニョンの心が揺らぐ。ポセイドンは黒鉄屋の漁業部門を買収すればヨークスター太陰の漁業をも握る事になる。

 ポセイドンは海上権益を主張する為にも取り引きに応じるだろう。

 ――このトレードに乗ればマンションが買える――

 通勤10分の一等地の億ションが買える……。

「ウロボロスの社員はインサイダー取り引きはしないんです」

 ミニョンは葛藤を押し殺して言う。

『いい事だよ。僕は金の亡者とは交渉する気がないからね』

 ミニョンの背筋を氷塊が滑り落ちる。

 ――この人、他人を試しすぎだ――

『プランBとしてウロボロスに黒鉄屋の漁業売却をリークして欲しい。グルメロワーヌが購入すればポセイドンは手が出せなくなるからね』

 なるほどそれはポセイドンに対する強力な牽制球になるだろう。

 ポセイドンが黒鉄屋の漁業で妥協できなければ得られるはずだった権益すら喪失してしまうという事だ。

 それでいて経済同盟からは逃れる事ができない。

「ポセイドンには賢明な判断を望みたいですね。これ以上交渉がこじれるのは双方にとって不利益ですから」

 ポセイドンが漁業でグルメロワーヌと折り合いをつけても海運では成龍公司とロジティクスを巡って争う事になる。

 ――傑華青龍とフェーデアルカ貴人にいる社員は大変だろうなぁ――

 と、ミニョンは本来本社に上げるべき案件ではあるが一つの事を思いついた。

「今年のクリスマスにウロボロスで迷宮少年というユニットがデビューします。2.0のXデーはクリスマスという事でいかがでしょうか? その時点で妥結できない案件については今後協議を行わないというのは」  

『僕は……グルメロワーヌは構わないよ。どの道その辺で期限を切らないと大同盟は成功しないんだし』

「それは何故ですか?」

『クリスマスには今年の収穫量が出るだろう? 不作だったと言わなければヨークスター太陰の食料メジャーを買う大義名分が無いし岸に不審がられるだろう』

 言われてみればその通りだ。

 それをこれまで言い出さなかったのは今回の取り引きでは調停役に近いウロボロスに言わせたかったからだろう。

「本社に上げて声明を出します。2.0は迷宮少年と共に誕生します」

 先に広告を打ってしまえば残る五社も従わざるを得ないだろう。

 ウロボロスにはそれくらいのイニシアチブがある。

 ――それにしてもリッシモンには翻弄されてばっかりだわ――



〈5〉



 オルソンは自室のソファーで懐かしい顔を前に戸惑いを感じている。

 ひどい病にかかったかのようにやつれた顔をしたエイミーとセバスチャン。

 とりあえず風呂に入れて服を貸したが状況がまるで分からない。

「オルソン、ごめんなさい」

 エイミーが消沈した様子で言う。

「君たちがVWCに行った事ならもう怒ってないよ」

 ウロボロスという居場所ができたのだしそれなりに仕事もある。 

 近々独立させられると聞くと不安だが、他のチームのランナーを作りたいという欲求はある。

「俺たち……その、オルソンを見くびってたんだ。病気がこんなに辛いって知らなくて」

 セバスチャンが涙を流しながら言う。

 病気にはなった人間にしか分からない苦しみがある。

 ――どんなに親身になる健常者も本当の苦しみは分からない―― 

「健康な人がコミュニケーション能力で人間の能力を判断する事くらい僕も知ってる。君たちが特別だったとは思わないよ」

 今でこそ衣食住に困らずに生活できているが、少し前まではキャンピングカーで放浪していたのだ。

 そんな日々に会った人々はオルソンとオルソンの病気を理解しようとはしなかった。

 ――へウォン社長が初めて僕を助けてくれた――

 あの日の事は忘れる事ができない。世間知らずで発作を起こした自分を介抱し、安心してランナーを設計できる環境を整えてくれたのだ。

 ――多少騒がしくはあるけど――

 イェジやバスチエもやってくるしいい意味で息抜きにもなっている。

「厚かましいのは分かってる。私たちを助手として雇ってくれない?」

 エイミーの言葉にオルソンは理解が追いつかない。

 オルソンには助手を雇うほど仕事が来ている訳ではない。

「とりあえず衣食住だけ何とかしてくれ。俺たちもエンジニアだ。手伝える事はあるはずだ」

 セバスチャンが言う。

 オルソンの脳裏をキャンピングカー生活の日々が過る。

 病気の人間が怯えながら生きていく苦しさは嫌というほど知っている。

 今でこそ安全な場所にいて人にも恵まれているからいいが、一歩違っていたら人生がどうなっていたか分からない。

「しばらくここに居れるようにバスチエさんに訊いてみるよ」

 オルソンは言う。食事は自分が作ればいいのだし、元々二人前を作っているのだから今更四人に増えた所で手間は変わらない。

「ありがとうオルソン。この恩は必ず返すから」 

「別にいいよ。金を貸す時はあげるつもりって言うだろ? 好意なんて貸し借りするもんじゃないよ」

 エイミーに答えてオルソンは言う。当面の安全を保障してそれなりの仕事をすれば落着きを取り戻すだろう。

 二人とも無能なエンジニアではないのだし、どこかで幸せにやっていけるはずだ。

「オルソン、今手がけている仕事はあるのか?」

「遮那王って新型機を構想中で、ヒュンソと子龍が組んだ2.0ってシステムが導入される。まずは2.0を現行のウロボロス機に乗せて様子を見ないとね」

「ヒュンソと子龍が組むなんてすごいじゃない。エンジニアも来るんでしょ?」

「そうなるだろうね。機械だけ送って欲しい所だけどシステム周りは専門じゃないし」

 オルソンはエイミーに答えて言う。

「オルソン知らない人と話すの苦手だったわよね。これからは私たちがやってあげるから」

 エイミーの言葉にオルソンは内心で溜息をつく。どんな病気かまでは分からないが鬱や躁鬱病ならコミュニケーションに支障をきたすだろう。

 ――任せきりという訳にも行かないけど―― 

 病人を放り出す訳にも行かないし、置いておく以上本人たちが納得する程度の仕事を与えて社会復帰に繋げるのが同じ苦しんだ人間としてできる事だった。 



〈6〉



 ロワーヌ天后の収穫高は例年の7割に届かない見込み。

 不作の情報がそれとなくメディアに出回っている。

 リッシモンは小型のトラクターを押しながらニュースを確認している。

 ――さすがウロボロス――

 今年のリベルタは食料不足にはならないが輸出は困難。

 ただしブドウは例年に比べて品質が良くワインに期待が持てる。

 マイナスの情報とプラスの情報が組み合わされ、ヨークスター太陰の食料メジャーがグルメロワーヌの買収を考えないレベルに抑えられている。

 ――だが現実では豊作だ――

 リッシモンが十年間かけた機械化と効率化は農家の負担を減らし、生産の向上に寄与する事になった。

 余程の天候不順がないかぎり当面不作という事はないだろう。

 アリアは農業用ランナーに脱穀のアタッチメントを付けて猛烈な勢いで作業を進めている。

 作物という物理的な裏付けはある。資金もある。動機もある。

 リッシモンはグルメロワーヌ代表のフィリップに連絡を取る。

『アルセーヌ、ロワーヌ天后は不作で困っているそうだ』

「本当に困ったね。どこかから食料を買わないと」

 リッシモンは棒読み口調で言う。

『で、ヨークスター太陰に買収を仕掛けるのか? どこの企業を買収するんだ?』

「ゼネラルエンジニアリング」

 ゼネラルエンジニアリングは家電製品からランナーまで手がける工業メーカーだ。

『待て。穀物メジャーから陥落させるんじゃないのか?』

「食料みたいな直接的なものに手を出したら岸が勘づく。それにゼネラルエンジニアリングは食料メジャーに多額の出資をしている」

 ヨークスター太陰はグルメロワーヌへの依存から逃れ、通貨発行圏の生産州となる事で大規模な工業化を余儀なくされた。

 食料生産を担う企業は農地拡大生産量増大の為に大量のランナーの導入を余儀なくされたが、農業用ランナーを生産した大企業は無償で提供した訳ではない。

 自由主義経済と言っておきながら、現実は蘇利耶ヴァルハラや州政府が音頭を取ってゼネラルエンジニアリングのような大企業と食料メジャーの経済的共存を強めたのだ。

 結果としてヨークスター太陰の食料メジャーの資本の35%はゼネラルエンジニアリングに握られたままになっている。

『ゼネラルエンジニアリングはヨークスター太陰最大の工業メーカーだぞ?』

「フィリップは頭の中をアップデートした方がいい。工業化は何年も前に終わっているし、工場のラインでは閑古鳥が鳴いている。今のゼネラルエンジニアリングは投資と投資のリターンで食ってるんだ」

『確認中だがグルメロワーヌで買える規模じゃないぞ?』

 フィリップが言うのももっともだ。

「ここで僕らの同盟が生きてくるんだ。成龍公司とメルカッツェが買うというならゼネラルエンジニアリングの組合は仕事ができるし不当解雇もないから賛成するだろう?」

『成龍公司とメルカッツェは損をするんじゃないか?』

「敵対的買収を仕掛けながら農業メジャーに対する権益を吐き出させるんだ。取るものだけ取ったら後は引き上げて構わない。僕らは小口の投資家の持ち分を買い取って最終的に農業メジャーの資本の過半数を目指す」

『蘇利耶ヴァルハラは防衛に動くだろう。そう簡単に行かないんじゃないか?』

「それは前に話した通りだ。農業に買いが集中すればヨークスター太陰の食料価格は高騰する。大量生産できても売れないんじゃ宝の持ち腐れだ。食料価格の高騰はインフレを招くから、蘇利耶ヴァルハラでは商品が目の前にあっても買えないような悲惨な状況が生まれる事になる。そうなれば農業メジャーを売るか、通貨を切り上げるかの二択だ」

『通貨が切り上がれば相対的に価格が下がって我々でも買いやすい金額になるという訳か?』

 フィリップが半分ほど納得した様子で言う。

「全てが上手く行きさえすればね。これは同盟を信頼しないと成立しない取り引きだ。誰かが裏切れば成功しない」

『蘇利耶ヴァルハラが市民を見殺しにするという道は?』

「実はその可能性が大きいんじゃないかと思ってる。でも通貨発行圏でハイパーインフレが続けば信用通貨はヘルだけになるだろう? 最終目的は世界をヘルで統一して50年前の状態に戻す事なんだから」

 結局の所はそれだ。岸が現れる前の世界に戻す事がリッシモンの最終目的だ。

 蘇利耶ヴァルハラを滅ぼそうとか通貨発行圏を苦しめようというのは二義的な問題に過ぎない。

『お前の話を聞いていると不可能はないように思えるよ』

「農家が自分の力を過小評価しすぎなんだよ」

『じゃあグルメロワーヌは農業メジャーの小口投資家から攻略するって事でいいんだな?』  

「先に黒鉄屋で仕掛けるよ。ヘルはなるべく渡したくない。放出する時は貸し付ける時だ」

 言ってリッシモンは通信を切る。

 これでグルメロワーヌは臨戦態勢だし、成龍公司とメルカッツェが動けばVWCは想定外の企業を攻撃されて混乱に陥るだろう。

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