天空の音・上昇音階2 おまえら全員が敵
――・―― K
昼休みの職員室にオレはいた。
「君は夏休みはこのセミナーに参加しなさい」
あごに黒ヒゲを生やした教師がオレに三つ折りパンフレットを手渡してくる。音楽教師の
「なんですかコレ」
オレは戸山の黒々としたヒゲとパンフレットを見比べた。ジャズバンドでサックスを吹くというウワサの音楽教師は、ミュージシャン気取りでヒゲをたくわえている。だがやせて骨ばった戸山にはまったく似合わない。バンドマンというより食い詰めた貧相な海賊に見える。
「君は音高へ行くんだろう?」
「いやまだ何も考えてないです」
たしかにウチの
「君はほかの子とは違うから。きちんと音楽を学ぶべきだ。音大へ行きなさい、その前にまず音高だ。このセミナーに行くといい」
戸山がオレに手渡してきたのが、音高、音楽を専門に教える高校のパンフレットだった。夏休みに見どころのある中学生を集めて楽器の吹き方を教えてくれるらしい。
自慢するわけじゃないけど、たしかにオレはトランペットがうまかった。
小学五年でトランペットに出会って以来、毎日吹いていた。吹いて吹いて吹きまくった。そのせいなのか、元々素質があったのかは知らないけれど、オレはメキメキと上達していった。そのうち地元で有名になって、天才小学生みたいなガキを集めたテレビ番組に毎週出ていたこともある。番組が面白いようにウケたおかげで、いつの間にかオレの顔と名前は全国でも知られるようになった。
だからといってトランペットで身を立てるつもりはなかった。そもそも中一で将来の職業を決めるヤツなんて、ほとんどいないだろ? それでも去年のオレはまだ子どもだったから、教師のいうことは素直に信じた。それがまず間違い。
次の間違いは、戸山のこの一言だ。
「今日から君がペットのトップだから」
トランペットパートのトップ、つまりソロパートを含む第一トランペットをやれと戸山はいっている。すでにトップの席には三年生の松尾先輩が座っていた。オレはてっきり松尾先輩と並んで二人で吹くのだろうなと思ったから、納得してうなずいたんだ、そのときは。
まさか松尾先輩をセカンドに降格させて、オレがトップになるとは思わなかった。オレもびっくりしたけど、松尾先輩はもっと驚いたはずだ。
―― ――・ G
職員室での出来事を思い出すたびに、あのときに戻ってやり直せたらと考える。考えながら、自分の心の弱さが情けなくなる。もういいだろうと思った。後悔ばかりの生活はもういいと思ったし、楽器に息を吹き込むのももう充分だと思った。
すっかり滅入った気分を振り払うようにオレはトランペットを唇にあて、ダースベイダーのテーマを吹き鳴らす。
それが儀式開始の合図だ。
高らかに鳴り響くトランペット。
ゴンドラの窓は開け放ってある。
つややかな金管の音色が不気味な旋律を紡ぎだし、下界のヤツラをまとめて包み込む。
いい気分だ。
これから起こる奇跡の幕開けにふさわしい。
オレは高圧的かつ勇壮なメロディを吹き鳴らしながら、さらに去年の記憶をたどった。
――・―― K
メンツをつぶされた松尾先輩、いや先輩だけじゃない
これが運動部なら体育館の裏に呼びだされるのだろうけど、それで解決するならそっちの方がよかったと思う。文化部はもっと陰湿だから。殴られたアザならいつかは消えるが、心についたアザはなかなか消えないものだ。
オレが使う楽譜を捨てられるのは序の口で、小学校から愛用してきたトランペットのマウスピースを隠されたりもした。そのときはプラスチック製の練習用マウスピースを使って急場をしのいだものだ。
さっき敵は男子上級生といったのは、女子の先輩たちはオレに味方してくれたからだ。松尾先輩たちのイジメを快く思っていなかったんだろうな、同情して隠されたマウスピースを探してくれたのはフルート女子の先輩だった。
ところがある日を境に、全員がオレの敵になった。
理由は単純明快。オレが松尾先輩の前歯を折ったからだ。練習中の先輩が吹いているトランペットのベルを、オレが振り回した譜面台でたたいたら歯が折れた。それだけの話だ。もちろん一番悪いのは、先輩のイジメに我慢できなくなったオレ。たび重なる嫌がらせにカッとなった結果、トランぺッターにとって大切な前歯が折れ、音高進学を狙っていた松尾先輩の希望もそこでポッキリと折れた。取り返しのつかない過ちだったことは理解している。充分すぎるぐらいにわかっているけど、どうしたらいいのかだけがわからなかった。だからオレはじっと下を向いて黙っていた。
いまでも口の周りを赤く血で染めた松尾先輩の顔を思い出す。吹部のみんながオレに向ける視線は白かったけれど。
―― ――・ G
観覧車のゴンドラはよどむことなく頂点をめざして昇ってゆく。
儀式を続けよう。
曲は「ワルキューレの騎行」だ。
遥かなる天上の高みへ届けと、トランペットを吹き鳴らす。
大気を切り裂き空をどよもし、
雲間をぬって翔ける馬で走り来るは
ワーグナーの勇壮なメロディはあの日のことを思い出させた。
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