天空の音 ~Chu Ni Habatake~
柴田 恭太朗
天空の音・上昇音階 聖なる青き血
円筒キャップをはずしてリップクリームを塗る。
冬は唇がひび割れるから。
ひび割れれば血がにじむ。
オレの血が。
高貴な血が。
聖なる青き血は一滴たりとも無為に失われてはならない。
だからゆっくりと、ていねいにリップクリームを塗る。
観覧車はすぐ目の前。
天を仰ぐ。
透きとおった空の青さと太陽に、目が細くなる。
オレは聖なる儀式の執行者。
ゴンドラに乗らねばならぬ。
行列が動いた。
オレは持ち手のついた横長のハードケースを提げて、前の男女に続いて半歩すすむ。ギャル語でしゃべり続ける長い髪の女。女の頭に手を回し引き寄せる男。見ちゃいられない。人前でいちゃつくコイツらには、オレが手にしたケースに入っているもののことなど想像もつくまい。見た目はチャチだから。しかし、重要なのは中身。これから行う儀式に欠くことのできない黄金の祭具が入っている。オレにしか扱えない光り輝く魔法のアイテム。ケースの見た目がチープなのは、中身を敵に悟らせないため。用意周到な迷彩だ。
オレが行列の先頭に立つと、さっそく敵が姿を現した。
――使い魔だ。
遊園地の係員に扮した使い魔が不審げな視線を向けてくる。
「きみ、今日学校は?」
「創立記念日」
何度も練習してきたウソだ。オレはよどみなくスラスラと言い放つ。いつどこで問われても瞬時に答えられるように。だがどうして遊園地の係員風情が、補導員みたいな質問をする? オレが子どもに見えるのか? 中学二年ともなれば立派な大人。確かに小学生のノリのまま育ったガキっぽいヤツもいるにはいるが、オレは違う。聖なる青き血のなせるわざで、心の仕上がり方がまったく違うのだ。
――オレに少しでも触れてみろ。お前の体は一片すら残さず
オレは使い魔を眼で威嚇しながら観覧車のゲートを押し通る。これ見よがしに胸を張って堂々と。
ゲートを通ったオレが乗り込んだゴンドラには窓がなかった。
窓がないからといって、外が見えないわけでもない。天井から足元の床まですべて透明なアクリル素材でできているから、そもそも窓という概念がないのだ。いってみればゴンドラ全体が外界に向けて開いた窓。足元から地上がそのまま透けて見とおせるから、高所恐怖症のヤツには絶対に無理なしろものだ。
オレを包み込んだ透明なゴンドラはゆっくりと、着実に上昇してゆく。パイプオルガンのメロディが聞こえてくる。そよ風に乗って運ばれてきたポップコーン売りの屋台が奏でる音楽。楽しげでいてどこか音程のはずれたオルガン。神経に障って気持ちが悪い。オレは音程に敏感なのだ、やめてほしい。
人間は特定の高度で恐ろしさを感じるという。高所恐怖症かどうかは関係ない。今、オレはその高度へ向かっているから身構えている。ゴンドラは地上から伸びる背の高い針葉樹に近づき、横並びとなり、ぐんぐんと追い越してゆくところだ。
下界の人の顔が見える高さ、このあたりが一番怖い。遊園地で遊ぶ親子連れが、大学生たちが、カラフルな風船の束を握りしめたピエロが、いっせいに地上からオレを見上げているような気がする。いや、現にゴンドラに向けて伸ばした腕でオレを指さしている。大きな口を開けて笑っているじゃないか。あざ笑う声まで聞こえてくる。
だから言っただろう。観覧車はこの高さが一番怖い。
オレは下界から視線をそらし、眼を固くつぶった。暑い時期でもないのにこめかみから冷や汗がしたたり落ちる。
もういい頃合いだ。
ここまで昇れば大丈夫。
すでに地上の雑音はない。
ノイズは遊園地の周囲に広がる緑の森に溶け込んだか、
あるいは深い青空に吸われていったのか。
聞こえてくるのは――天空の音――だけ。
それは風の音ともまた違う、透明な静寂。観覧車を駆動する歯車の低い振動が通奏低音となって、磨かれた大気のただ中へと垂直に伸びている。魚を釣るテグスのようにピンと張り詰めた一本の線が天界目指して貫きとおっているのだ。自然と人工物のみごとなブレンド。天空の音は心地よく耳から染みてきて、アクリルのゴンドラに投げだした体のすみずみまで満たしてゆく。
オレはゆっくりとまぶたを開く。
透明なゴンドラの床に置いたハードケースは、まるで宙に浮かんでいるように見える。
ケースのロックをパチンと小気味よい音をたててはね上げ、フタを開けた。
青いベルベット地にピタリと収められた黄金の祭具、オレはうやうやしく手を添え、祭具を取り出す。
その姿は神々しくも美しい。
天からオレに授けられた楽器、それがトランペットだ。
透明なゴンドラを通した太陽の光に輝く黄金のベル。
天界と地上の全事象は金色のベルに映り込んでいる。トランペットの表面に映る世界はみな歪んでいる。それが正しい姿だ。この世にゆがんでいないものなど、ただのひとつも存在しないのだから。
オレは愛用のマウスピースを楽器に差し込み、ゆっくりと息を吹き込んだ。楽器を温めるためだ。金管楽器は十分に温めて管を膨張させねば、楽器は鳴らない。
冷たいマウスピースに唇をつけ、肺いっぱいの息を通しているうちにあの出来事を思い出す。
きっかけは一年の一学期だ。
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