天空の音・下降音階 妖精の降臨
いつの間に現れたのだろう、ゴンドラの中に薄いドレスをまとった少女が座っていた。彼女は、はごろものような肌が透けて見える薄い生地、春風を思い起こさせる布を身にまとっている。布地のゆるやかなドレープを追って足元を見ると、少女は靴をはいていなかった。絵本で描かれる妖精のように、つま先とかかとがほんのりピンクに色づいた色白の素足が清楚で、それが目にはいったオレの心臓はドクンと派手に脈を打った。
「ハダシだ」
オレは見たそのままを口にする。
「そうよ。ハダカで来ればよかった?」
可憐なニンフが面白そうにいう。彼女は予想もしていなかった言葉をオレにほうり投げてきた。まっ白でスピードのある直球。どう受けとめたらいいものやら、オレはドギマギする。薄布から透けて見える彼女のなめらかな白い肩のラインがまぶしくて、思わず目を外へそらした。
ゴンドラの外に広がっているのはカラフルな原色に彩られた遊園地と、遠く濃緑に沈んだ山々の連なり。現実が苔のように地上のパノラマにへばりついている。オレはそれを一回、二回としつこく確認して心を鎮めた。
「どうして、ここに?」
「キミが呼んだから来たんじゃない」
少女はさもおかしそうに腹に手を当て、体を折って笑う。彼女の笑い声はトランペットが奏でる「ラ」の音に似ていた。あるいは口角のあがった口許がラの形に似ていたせいかもしれない。妖精の朗笑は底抜けに明るく爽やかで、いつまでも耳にしていたい心地よさがある。
「そうだっけ、呼んだかな」
どのメロディが効いたんだろうか。オレは答えのでそうにない問題を考えこんでいた。ショートヘアの妖精の顔を見ていると、クラスの女子に似た子がいたような気がしたが、どうしても名前を思い出せない。
「呼んだわよ。さ、こんなことに時間を使っていいの? ゴンドラはもう半分回ったよ」
「いったい何をどうすれば」
「困っているんでしょう」
ああ、この妖精はすべてを理解している。オレは直観した。ならば迷うことはない。ただ困りごとを相談すればいいはずだ。
「みんなとやり直したい」、直球を投げてみた。
「無理ね」、すぐ打ち返された。
「なにかいい方法ないかな」
「吹部やめちゃうのが一番簡単」
「やめたくない」
「だったら謝れば」
「それもしたくない」
「駄々っ子ね」
「うん」
そのとおり。オレは意地を張って先に進むことができない駄々っ子だ。それでもトランペットは手放したくない頑固者だ。つくづく自分がイヤになる。
「考えてもみてよ。満月の夜空に星は輝かない。でしょ? まぶしい月があると、周囲の星はかすんで見えなくなるの。吹部のメンバーはひとりひとりが小さな星だから。みんなが整然と並ぶことで美しい星座を形づくれることを知っている。なのに満月がオラオラいいながら昇ってきた途端に、なにもかもがぶち壊しになるでしょう」
「やっぱりオレはやめるしかないんだな」
妖精がいっていることは、要するにオレがいるとみんなが迷惑だってことだろう。
「違うってば。みんな分かってるのよ、キミが満月だってことは。だから無視はするけど排除するまでのことはしない。夜空の月だって、半月にも三日月にもなれるでしょう。月さえムダにまぶしくなければ、周りの星々もきれいに輝けると思うんだけどなぁ」
「ムダか、オレの頑張りは」
「ムダよ。キミは星にだってなれるのにそれを試そうともしない。ほかのパートが満月でいたいとき、キミは星になって密やかに輝けばいいの。それが音楽、それがアンサンブル」
妖精がいいたいことはよく分かる。ただ一緒に演奏する仲間を失ってしまったのだ、オレは。自分のした過ちで。
「それにオレは取り返しのつかないことをした」、松尾先輩の顔を思い出す。
「そうね。一生自分のしたことを後悔しながら生きていくのよ」
「つらい」、後戻りできないことに涙がにじむ。
「先輩はもっとつらい。でも、あんたにはそれがあるじゃない。黄金の祭具で音楽を紡ぎつづけたらいいじゃないの。いつか先輩も許してくれるでしょ」
そういってニンフはケラケラと笑った。「ラ」の笑い声がゴンドラの中に響く。
「そんな笑わなくてもいいじゃん」
オレは耳まで真っ赤になった。観覧車が昇っていくときのあの高揚感がウソのように気恥ずかしいものに思えてきた。いや、クールダウンした今、叫びだしたいほど狂おしい気持ちすらある。
オレが涙ぐんでいる間もゴンドラは回り、時計でいえば三時の位置となった。
「終わっちゃうね。またあんたは世俗に還るのよ」
オレはだまっていた。少女のいう通りだから。
「もう一周乗って行くって方法もあるけど?」
「いや、いい。何回乗っても同じことさ。観覧車は同じところを巡って、また同じところへ戻るだけだろ」、それに聖母の横顔ももう見られない。
「観覧車はね同じ場所へ戻るようでいて、実はねそうじゃない。ゴンドラに足を踏み入れたキミと、降りたときのキミは違うの。一周回る時間だけ、キミは歳をとったでしょ。その間にキミが変わる選択肢も、そのまま変わらない選択肢もある。どちらがいいか、キミが選ぶことよ」
「わかんないや」
どちらを選べばいいのかわからなかった。できることなら、このままいつまでも逃げ続けていたい。
「ふぅん」
少女はつまらなそうにそっぽを向き、はだしの足を組みかえてブラブラと振った。
「オレ、何かまずいこと言った?」
観覧車の終点間際になって彼女の機嫌をそこねたくなかった。
「なぁんにも。ちょっと意外だなって思っただけ」
天使に「ラ」の笑顔が戻った。妖精の変わらぬ笑みにオレはホッとした一方で、まだ子どもだって思われたことも本能的に理解した。オレは焦った、このままお別れするのは嫌だった。
「ねえ、もう行っちゃうのか」
「そうね。時が来たから」
「最後にひとつおねがいがあるんだけど」
「おねがい?」
「その……キスをしたい。お別れの」
「キス? いいけど」
少女は目をぱちくりして、あっけらかんと答えた。
「いいの?」
「うん。どこにする? キス」
「え……」
口と口以外のキスを想定していなかったオレは、意表をつかれて固まる。風に吹かれたゴンドラが揺れて目まいがした。
「答えが見つかるまで、キスはおあずけだなぁ」
可憐な少女は値踏みするような、いたずらっぽい横目でオレを見つめた。
「……」
オレは言葉を失う。最後まで翻弄されっぱなしだ。
「じゃあね」
妖精の少女は小さく手を振り、透明なゴンドラの窓を、そこに何も存在しないかのようにスルリと通り抜けた。妖精と幽霊は親類だものなあ、オレは素直に納得する。
空中に浮かんだ少女はもう一度手を振ると、水泳のターンのようにくるりと前転し、見えない空気の壁をハダシの両足でトンと蹴った。両手を体の脇に添え、
妖精は実体を持っていたのだろうか。彼女がいなくなった弾みでゴンドラは大きく揺れた。オレは大波のような揺れに身をまかせたまま、まだ固まっていた。
あの世俗的な父母が待つ家庭に戻らなければならない。
天に選ばれし者たるオレだって腹がへる。腹がへったら家でメシを食わねばなるまい。トランペットケースの止め金をパチンと音を立てて閉じた。
調子の外れたポップコーン売りのオルガンが、天空の音をかき消してゆく。
間近になった地上に目を移すと、ゲートの係員がオレを手招きしている。
何やら楽しからぬ、お小言がありそうだ。
オレに触るでないぞ下賤民。
われこそは高貴なる青き血をひく……いや、もういい。
オレは唇を前歯で噛む。ザクリと歯が肉を噛む感触がして、口の中に血の味が広がった。切れた唇を手の甲でこすると、薄く帯状に赤い血の跡が残った。
――オレの血は赤。
もう成りきりで心が昂ぶるトシではない。
ゴンドラの扉が開くと、オレは大きく一歩、足を踏みだした。
完
天空の音 ~Chu Ni Habatake~ 柴田 恭太朗 @sofia_2020
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