第50話 先輩の過去

 一年生達のその日の部活動は、結局いつも通りの基礎で終了していた。その後、先輩方のほとんどが先に着替えを終え、弓道場をあとにする。美束の姿もいつの間にか道場内にはなく、それに気づいた乙葉と京華は、ようやく緊張感を解いていた。


 次いで、一年生達は日課の後片付けに移る。乙葉と京華の今日の役割は、屋内の掃除当番だった。二人でモップを持ち出して、隅から隅まで奇麗に清掃をする。そして、射場の端で一旦ゴミを集めていると、まだ控室に残っていた文奈が不意に顔を出していた。


「お疲れ様。さっきは……災難だったね」

 どうやら、先程の外での一件には気づいていたらしい。同情の視線を二人に向けていると、一方の乙葉が明確に断言していた。

「いえ……あれは全部京華が悪いんです。気にしないでください」


 だが、非難の矛先を向けられた当の本人には、反省の色が全く見えない。

「俺は、お前の胸が無駄に魅力的なことが一番の原因だと思うけどなー」

「まだ言うか……」

 乙葉がジト目を向けていたが、京華は完全に惚けている様子だ。そんないつものやり取りに、文奈は小さな苦笑をしてから続けていた。


「……まぁ、日高さんは誰にでもあんな感じだから。前にも言ったけど、ちゃんと真面目に部活動さえやっていれば、これ以上の雷が落ちることはないはずだよ」

 すると、ここで乙葉が急に二人の関係性を気にする。


「部長は日高先輩のこと、よく知っているんですか?」

「……うーん、どうかな。中学は違ったし、同じクラスになったこともないから、そこまでは……」

 文奈が適当に呟いていると、今度は京華がふと何かを思い出していた。


「あ、そういえば」

『?』

「この部にいる二年生の……稲場先輩でしたっけ? あの人……日高先輩と付き合ってるんですよね?」


 ただ、この唐突な確認に——

「——!」

 乙葉が驚いた様子で顔を向けている。だが、文奈は何も気づかず、どこか気まずそうな表情で小さく頷いていた。


「……まぁ、それでおおよそ合ってるかな」

「おおよそ?」

「二人とも、あんまり公にはしたくないみたいでね。傍から見ていれば、丸分かりではあるんだけど……」


 この感想に、京華も小さく頷いている。だが、一方の乙葉はキツネにつままれたような顔をしていた。

「……そう……だったんだ……」

「うん? お前……もしかして、気づいてなかったのか?」


 隣からのこの指摘に——

「——う……!」

 乙葉が目を泳がせている。それを見た京華は一気に顔を綻ばせると、その邪な感情を隠そうともせず、徐々に接近しようとしていた。


「……なるほど。乙女センサーが壊れてるのかもしれないな。よし……ここは俺が一肌脱いで、女子の感性を思い出させてやろう」

 同時に、またもやその両手にいやらしい動きを加えている。それを見て、乙葉も対抗するように自分の掌を向けていた。


「京華……! 性懲りもなく!」

「合宿では、結局全身のチェックができなかったからな。これは、その代わりだ!」

「そもそも、そんなことは頼んでない!」


 そのまま虚空でお互いの両手を組み、力比べをするように押し引きを繰り返している。神聖な場での、この有様。美束がここにいれば、これを見て果たしてどう思うのだろうか。文奈はそんなことを考えながら、小さく苦笑するしかなかった。


 その直後のことだ。

「——やっぱり……バレていますよね……?」

 と、屋内に控え目な声が届く。

『——!』

 三人が驚いて矢道の方に視線を向けると、先程の話にも出て来た辰興が、弓道場の軒下からひょっこりと顔を出していた。


「……すいません……外で弦の調整をしていて……聞いていました……」

 次いで、作業が終わった自分の弓を携えながら、恐縮した様子で屋内に入ってくる。それを見て、文奈は率直な感想を口にしていた。


「稲場君……中でやればいいのに……」

「……すいません。もう掃除が始まっていたので……邪魔になるかと」

「あなたらしいといえば、そうだけど……」


 文奈はそこまで呟くと、ここでふと思い出す。

「あ、それよりも……プライバシーだったよね。ごめんね……」

 先程の踏み込んだ発言を謝罪していたが、一方の辰興は特に気にしていない様子だった。


「いえ……別に、いいんです。皆が見て見ぬフリをしてくれていることが確認できて良かったです」

「……そう言ってくれると助かるよ」

 文奈が安堵しながら呟いていると、辰興がここで乙葉と京華にも視線を向ける。


「それから……」

『——!』

 二人が少々動揺していると、一方の辰興は年下にも恐縮した様子で、小さく頭を下げていた。


「……さっきは、美束が強く当たってごめんね。悪気はないんだよ」

 この謝意に、乙葉はどう反応していいのか困惑している。ただ、一方の京華は相手の本心を理解したのか、いきなり切り込んでいた。


「……稲場先輩。日高先輩のこと、ほんとに好きなんですね」

「——!」

 隣の乙葉が思わず目を丸くする中、当の本人は照れながら頬を掻く。


「……まぁ……否定はしないよ……」

「おー……!」

「……ちょっと……踏み込み過ぎだよ」

「うん? 別に嫌がってないぞ、先輩」

「え……」


 二人が揃って向き直ると、注目されている辰興は視線を逸らしながら、小声で何やら呟いていた。

「……もう、長い付き合いだからね。でも、改めて指摘をされると、色んな感情が……その……なんというか……」


 さらに照れた様子で顔を伏せていると、ここで京華がその雰囲気を変える。

「じゃあ……一つ聞いてもいいですか?」

「ん?」

『?』

 他の二人も注目する中、京華は何気に尋ねていた。

「日高先輩が、あそこまで熱心に部活に打ち込んでいる理由。先輩はそれも、よく知ってるんですか?」


 この内容に——

「——!」

 乙葉が思わず口を挟もうとして、すぐに中断する。それは——確かに、自分自身も知りたいことだったからだ。そのまま沈黙していると、辰興が重い口を開けていた。


「……美束は……昔は、もっと病弱でね」

「日高先輩が……?」

 京華の確認に、辰興が小さく頷く。


「うん……出先なんかで倒れることが、よくあったんだ。ただ、ある日、そこで助けてもらった人が、たまたま弓道の師範でね」

『!』

「そこから、弓の道に興味を持つようになったんだよ。次の日には、もうその人のところに入門していてね。そこで精神を整えるようになってからは、見違えるように心身ともに健やかになったんだ」


「……そんなことがあったんだ……」

 この反応は、文奈だ。他の二人と共に、熱心に聞き入っている。すると、辰興はさらに続きを語っていた。

「だから……美束にとっては、弓道は恩人でもあるんだ。だから……それを侮辱するような人間には、どうしても我慢がならないんだよ」


 ただ、この最後の言及に——

「——ッ……⁉」

 乙葉の顔色が一気に変わる。だが、辰興がそれに気づいた様子は全くなかった。


「まぁ……こんなところだよ」

「そうですか……」

 と、京華が何気に反応していたが、ここでふと隣の様子に気づく。


「……うん? 乙葉?」

『?』

 他の二年生二人も注目を移すと、そこには俯いて動かない乙葉の姿が。一方の京華はそのただ事ではない様子に、思わず顔をしかめていた。


「……おい、どうした? 顔が真っ青だぞ……?」

「……え……?」

「もしかして、先日の合宿で倒れた時のことが尾を引いてるのか?」

「——いや……! そういう……訳じゃないよ……」


 乙葉が顔を上げながら、慌てて否定している。だが、その顔色が悪いことには変化がないため、京華の憂慮は消えなかった。


「いや、でも……」

「……大丈夫……大丈夫だから……」

 と、乙葉は呪文のように繰り返すと、重い足取りで移動をする。そのまま屋内清掃の続きを無言で始めたため、京華の方も慌てて同様にしていた。



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