第49話 日々の鍛錬

 弓道部に入った新入部員達は、まずゴム弓で基礎的な射形を学ぶ。それが終わると利き手に弓掛ゆがけを装着して、各々の腕力に見合った弓を選ぶ段取りになっていた。その後は、個々で購入した矢も本格的に使用することになる。だが、すぐ射場に立つ訳ではなかった。


 部活動の時間が始まると、一年生達は協力して弓道場から外に巻きわらを運び出す。そして、近距離からその的に向かって矢を放ち、さらに基礎的な練習を重ねることになっていた。


 新入部員達がそんな地味な修練を繰り返す中、奥の弓道場では上級生達が放った矢が的に命中する快音が響いている。それを外で耳にしていた京華は、何やら全身がうずうずし始めていた。


 一回だけではあったのだが——

 先日の美束との勝負で、京華は自分の放った矢が的中する音を、自身のその耳で聞いている。あの時の快感。それが脳裏を過っていた。


 結果が捏造なのは乙葉だけの秘密であるため、今も自分の功績だと思い込んでいる。初心者特有のまぐれかもしれないとも思っていたが、それでも自分の射による感動は忘れ難いものだった。


 故に、また射場に立ちたいという気持ちが徐々に強くなっている。だが、二人はアルバイトでいない時も多いため、他の一年生よりも圧倒的に練習量が少なかった。そういった理由もあり、その時期はまだ当分先だと告げられている。それを思い出した京華は、溜息しか出なかった。


「……あー……これ……今日も延々と繰り返すのか……」

 この愚痴に、隣で自身の射形を確認していた乙葉がなだめる。

「仕方がないよ。私達、まだ基礎がちゃんと身についていないからね。これを繰り返すことで、身体が直接覚えるんだと思うよ」


 すると、京華が急にその意識を少しだけ移していた。邪な感情を抱きながら。

「乙葉の胸だったら、延々と繰り返し揉んでられるんだけどなー……」

「な……⁉」


 当の本人が言葉を失う中——

『——⁉』

 同じ場所にいた一年生——特に、男子部員が激しく動揺している。それを見て、乙葉は顔を真っ赤にしながら抗議していた。


「こ、こんなとこで誤解を招くような発言をしない! 皆……冗談だからね!」

「そうだった。延々と揉んだことはなかったよな。何度か鷲掴みにしたことはあるけど」

『⁉』

「だから……! 変な想像を掻き立てるようなことも言わない!」


 乙葉が周囲の注目を浴びて、羞恥心に身を震わせている。すると、ここで京華が急に真剣な面持ちになっていた。

「でもなー、これ見ろよ」

「……?」

「そろそろ、手の皮も痛くなってきたんだよな。弓掛をしてる方は、まだいいんだけど」


 そう言いながら、弓を握っていた方の手を目の前に差し出してくる。その親指と人差し指の付け根の間が、赤く腫れ上がっている状態だ。それを見た乙葉は先程までの感情を思わず失念し、眉根を寄せていた。

「うわ……痛そう……」


 だが、一方の京華が元の木阿弥にする。

「こんなんじゃ、お前の柔らかさがよく分からないだろ?」

「……うん。もう、そこから離れようか。真面目にやってる人達に迷惑だよ」

 乙葉がジト目になりながら頬を引きつらせていると、親友はやや動揺してから話を元に戻していた。


「てゆーか……こんな状態だと、バイトにも影響が出そうじゃないか?」

「!」

「特に、皿洗いの時とか。滑って割ったら、あの店長でも怒りそうだぞ」

「それは……否定できないけど……」


 一方の乙葉も、小さく頷いている。だが、そういった些細な問題は、どんな部活動に携わっていても避けられない事態だ。その対処法も色々と考えてみたが、なかなかいい案は思いつかなかった。


 京華も同じような思考を辿ってから、ありのままの本音を垂れ流しにする。

「もっとこう……楽に慣れて、ついでに上達するいい方法って、どこかにないもんかねー」


 すると——

「——黙って聞いていれば……」

 と、急に弓道場の出入り口から、苛立った声が。


 それに反応して——

『——ッ⁉』

 その場の一年生全員が振り向くと、そこには想像通りの人物が立っていた。

「余計な雑念ばかり……あなた、本当に弓の道の本質が分かってるの?」

 美束のこの剣幕に、一方の京華は決まり悪い様子で佇むのみ。


「……先輩……」

「バイトへの影響が気になる? だったら、いつでも辞めていいからね。こっちは何も困らないから」

「……続けることは……許可してくれたんですよね?」

 京華が思わずその点を確認していると、一方の美束は急に声のトーンを低くしていた。

「……苦虫を嚙み潰しながら、だけどね」


 その様子を見て——

『——!』

 一年生達が息を呑んでいる。妙な緊張感がその場を一気に支配していると、それを嫌ったのか、美束が全員を見渡しながら指示を出していた。


「……とにかく、一朝一夕で身につくことなんて、どこにもないんだから。分かったのなら、さっさと続き! 半幽霊部員だからといって、手加減はしないから! ほら! 他の皆も手を休めない!」


 この一喝に——

『——ッ!』

 新入部員達は一斉に練習を再開。その後、美束は個々に短い指導を行うと、自身の鍛錬のために道場内へと戻っていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る