第36話 迫る悪意
乙葉がそのテーブルに駆け付けた直後のことだった。
「何か……ありましたか⁉」
この問い掛けに、ずっと同じ場所に陣取っているというその男性客は、ここで意外な指摘をしてくる。
「何かって……これ、見て分かりません?」
その誘導に従って、乙葉が相手の指差す先に視線を向けると——
「——ッ⁉」
そこで、思わず絶句していた。この店の名物パフェ。その中に、いつの間にか害虫が混入しているのだ。それも、一匹ではなかった。
男性客が続ける。
「この店……客にこんなもの食わせる気なんですかね? どうかしてません?」
無論、その抗議はもっともだ。だが、それは普通に飲食をしていれば、もっと前の段階で分かるはずのことだった。
「いや……! もう一時間以上、注文も何もしてないって……!」
と、乙葉がひどく困惑している。
すると——
「ええ? なんすか? もしかして、客のいうこと、信じられないんすか? ひどいなー。俺、傷ついちゃったなー」
その男性客はそう言うと、急に席を立ち、じりじりと近寄ってくる。
「……傷ついちゃったんで……慰謝料払ってもらえません?」
「⁉」
一方の乙葉は愕然としながら、徐々に後退。だが、男の方もすぐに距離を詰めてきていた。
「あ、払えないんならー。別のものでもいいっすよー。例えば……」
「な……⁉ 近寄らないで……⁉」
「……くくく……!」
その下品な笑みを見て——
乙葉はここで、ようやく確信する。
「まさか……! こいつ……さっきの奴とグル……⁉」
だが、一方の男はその指摘には一切反応せず、なおも迫って来ていた。
「ん? なんっすかー? その反抗的な目は? もっと傷ついちゃったなー、俺」
その悪意を目の当たりにして——
「——!」
乙葉は意を決する。先刻の弓道場の一件で、本当は封印しようと思っていた。だが、このような輩に使うのなら躊躇もない。乙葉は自身の密かなる力を信じて、その掌を相手の胴体に向けていた。
「……そういう……つもりなら……!」
念動力を使用するのは——胃か腸の辺り。晶乃からは少し聞いただけだったが、その応用方法はもうおおよそ分かる。ただ、さすがにその対象が心臓では、練習もなしは怖すぎた。
これで——大人しくなってくれれば。
が——
「——え……?」
肝心の念動力が——なんの応答もしない。想定外の結果に思考が停止していると、その不可思議な反応を相手の男が嘲笑っていた。
「……何しようと——してんのかな?」
「なんで……発動しないの……⁉」
「何言ってるのか分かんないけどさー」
そこで——
「——ッ⁉」
乙葉は、背中に強い衝撃を受ける。それまでずっと後退していたのだが、ついに店舗の内壁まで追いやられてしまったのだ。その事実に愕然としていると、一方の男は瞳に宿っている暗い感情を強めていた。
「……さすがに、ちょっと無礼じゃん。お客様に対して」
その直後——
「——!」
乙葉は、数日前の自室での出来事を思い出す。
「まさか……さっきので打ち止め……⁉」
念動力の持続時間。よく考えれば、そういった条件があっても不思議ではなかった。今日は先程の弓道場で必要以上の集中をしている。そのため、ガス欠に陥っているようだ。時間がある時にもっと確認しておけば良かったが、もう後の祭りだった。
これでは——抵抗の手段がない。
いや——
力ずくで押し返すという方法はあった。だが、果たして今の腕力でそれが可能なのか。やってみないと分からないが、不利なのは目に見えていた。
すると——
「……お。よく見れば……いい形のおっぱいじゃん」
急に、男の興味がやや下へと移る。
「——⁉」
乙葉がその欲望に身の毛がよだつ思いをしていると、一方の男はここで一気にその瞳の色を変えていた。
「そうだなー……そいつで——払ってもらうとするか!」
ただ、その宣言とは裏腹に——
「——ッ⁉」
いきなり、乙葉の首に両手を向けてくる。
フェイントに引っ掛かった少女は、完全に首を絞められていた。慌てて、こちらも両手をそこに向ける。だが、どんなに力を込めても、男の拘束はびくともしなかった。
「く……ひひひ……ッ!」
やがて——
「……ッ……⁉」
乙葉の意識が朦朧としてくる。
それと同時に——
一気に、諦めの境地になってしまっていた。
急に、そこまで心情が反転したのは——先刻の弓道場での失態があったからだ。
これは——罰ではないのか。
人の努力を踏みにじった者への罰。
そう理解することが、最も合理的だと思ってしまっていた。
そのため、徐々に抵抗の力が緩んでくる。それに合わせて、男の方も腕一本で乙葉の首を押さえつけるようになっていた。
そして、自由になったもう片方の手は——
「……さーて……そろそろ、こっちの方を味合せてもらおうか……!」
その欲望の先へと向かう。
それでも——もう、乙葉には抵抗する気が全く失せていた。
が——
次の刹那だった。
「——ん——ッ⁉」
と——
徐々に、男の顔面から血の気が引いていく。
「え……?」
一方の乙葉がその反応にキョトンとする中——
「——ぐ……ごがぁ……ッ⁉」
男は急に手を放すと、その場に崩れ落ちていた。股間を押さえながら。
すると——
その背後に、見覚えのある女子の姿が出現。片足を上げた状態で、その場に静止していた。
無論——
「——京華……⁉」
そこにいたのは、よく見知った親友だ。どうやら、背後からの不意打ちで急所に一撃を入れたらしい。そのまま足を下ろすと、男に蔑んだ視線を向けていた。
「なーにしようとしてんのかな、こいつは?」
唐突な登場だったが、乙葉はとにかく慌ててそちらに駆け寄る。そのまま一緒に暴漢との距離を取っていると、ここで京華が男に暴言を放っていた。
「これを揉んでいいのは……この俺だけだ! ふざけてんじゃねーぞ!」
「な……⁉」
乙葉が絶句していたが、一方の京華は気にせずその無事を確認する。
「間一髪だったみたいだな。とにかく、何もされてないよな?」
その問い掛け自体にも、乙葉は色々と思うところがあったが、とりあえず無言で頷く。それよりも、外はどうなったのか。
「そっちの方は……⁉」
「うん? 外に連れ出した奴のことか? あいつも隙を突いて玉を潰してやったから、しばらくは起き上がれないぞ。ちょっと前に思い出しておいて良かったよ。この一撃の痛みを」
「⁉」
乙葉が完全に言葉を失っている。すると、一方の京華が今立っている場所から何かを思い出し、一瞬で黒幕の正体に気づいていた。
「あ! 前に、ここから例の三人組の姿を見たが……そうか! こいつら、もしかしてあいつらの差し金か? だとすると、この店に入ったクレームっていうのも……」
「あ……! そういうこと……!」
一方の乙葉も、ようやくその真実に辿り着く。まだ、憶測の段階でしかなかったが。なんにせよ、今はここから脱出する方が先決だった。いつ男達が回復するか分からないのだ。
「——とにかく……! 急いで——」
と、親友を促そうとしていたが——
「——てめぇら……ッ!」
そこで、店舗の出入り口に、最初の男が姿を見せる。どうやら、この間の悪いタイミングで復活したようだ。その直後、店内で蹲っていたもう一人がなんとか立ち上がり、そちらに合流していた。
それを見て——
『——ッ!』
乙葉と京華は慌てて退路を探す。だが、今の立ち位置が悪かった。ここから厨房を通って非常口に向かう前に、男二人にその進路を塞がれてしまいそうだ。また、この店舗の窓は構造上、少しだけしか開かないため、そこからの脱出も不可能だった。
完全に袋小路の状態に陥っている。その事実には男達も気づいているようで、目を血走らせながらそれぞれが口走っていた。
「……ふざけやがって……! 女だと思って油断した……!」
「俺もだ……! こうなったら……ッ!」
次いで、じりじりと二人に迫ってくる。
それを見て——
『——ッ……⁉』
乙葉も京華もすぐには対応策が思いつかず、徐々に後退しようとしていた。退路はないと分かっていながらも。
だが——
『……あ』
と、何故かそこで、乙葉と京華から一気に緊張感が失せていた。
その要因は——
『……え?』
男達が何かの気配を察知して、振り向いたその背後にある。
「——改めて、クレーマーに確認の電話を入れてみたら……出た女子の反応が妙だったんで、何か嫌な予感がして戻ってみれば——」
見間違えでなければ——
『——ッ⁉』
男達は——確かに、そこに巨神兵の姿を見ていた。
「——この私の店で……狼藉を働くクズ野郎共には……ッ! 本物の地獄を見せてあげないとねええー……ッ!」
『——ひ——』
という悲鳴を上げる間もなく——
男達は襟首を掴まれると、一瞬で外に連れ出される。その一連の様子を呆然と見ていた乙葉と京華は、他人事のようにそれぞれ呟くだけだった。
「……あー……なんていうか……終わったな」
「……うん……そう……だね……」
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