第35話 招かれざる客

 あくまでも限定的な短い時間だったが、いきなり店の全てを任された乙葉と京華。普通に考えて、バイト初日の新人が陥る状況ではない。それでも後者は楽観的な様子だったが、前者はその限りではなかった。


 厨房の奥で——

「……うー……想定外のことが起きたらどうしよう……」

 乙葉が蹲って頭を抱えている。

「店長はああ言っていたけど……やっぱり、色々と想定しておいた方がいいよね……」

 そう呟くと、おもむろに立ち上がってから、周囲をキョロキョロと見回し始めていた。

「……地震が起きた場合は……火事になった場合は——あ! そういえば、非常口ってどこだっけ……⁉」


 何やら大げさな想像をしながら、なおも慌てていると——

「——いや落ち着け」

 そこで、京華のチョップが頭上に入る。

「——!」

 乙葉が頭頂部を気にしながら振り向くと、京華が呆れた様子で一連の言動に苦言を呈していた。


「たかが三十分程度の話で、そこまで話が膨らむかよ。完全に妄想だぞ」

「そうはいっても……」

 それでも乙葉が何やら口をモゴモゴさせていると、ここで京華が不意に何かを思い出す。

「うん? そういえば、あの風紀委員も妄想癖があったよな。もしかして、妄想を膨らます奴は、胸も膨らみやすいのか?」

「な……⁉」


 乙葉がその果てしない暴論に絶句していると、一方の京華が目の前で両手をニギニギさせ始めていた。

「……一度、検証してみる必要があるかもしれないな。中に詰まっているのが、空気でないかどうかを」

「京華……顔も頭の中も完全にオッサンだよ……」

「……でも、緊張は解れたようだな」


 この指摘に——

「——!」

 乙葉も、ようやく自身の心理状態に気づく。どうやら、自分のコントロール方法はこの親友の方がよく知っているようだ。そのことを理解して思わず苦笑していると、京華が朗らかな笑顔を見せていた。


「よし。残りの時間は、その表情でいこうか」

 と——

 その発言があった直後のことだった。


 急に店の扉が開き——

「——チーっす!」

 客と思しき人物が入店した気配が。

『?』

 ただ、そのあまりにも軽薄な様子に、乙葉と京華は思わず見合っていた。


 すると、レジの方から声が続く。

「お客さんですよー! あれー? この店は、お出迎えもないんすかー?」

 何やら不遜な物言いだったが、この呼び掛けに対応しない訳にもいかない。二人は揃ってレジに向かうが、京華の後方に続いた乙葉はその客の身なりを見て、思わず小声で呟いてしまっていた。


「……う……わ……」

 明らかに、その客はチンピラのような風体の男だったからだ。歳は二十前後だろうか。なんにせよ、その若い客は二人の姿を発見して相好を崩していた。

「お! 店員さん、いるじゃーん。しかも、どっちも可愛い子!」

「⁉」

 その言動に乙葉がなおも困惑する中、客の男が急に迫ってくる。特に、乙葉の方へ向かって。


「ねぇ、ねぇ! こんな辺鄙なとこで働いてないで、今から俺と一緒に遊ばなーい? 楽しいとこ、連れてってあげるよー」

「……あの、お客様……そういうのは——」

 と、あからさまに拒否の姿勢を取っていたのだが、そこで男は強引に乙葉の腕を掴んでいた。


「——いいからさー! どっか行こうよ……! ちょっと、そこまでさぁ……!」

「——⁉」

 と——

 さらに力ずくで乙葉の身体を引き寄せようとした刹那のことだ。


 急に——

『——⁉』

 京華がその腕を振り払って間に入ると、いきなり女優顔負けの演技をし始める。

「……お客様。他のお客様のご迷惑になります。ご注文以外のご用件でしたら、私が外の方で承りますので。どうぞ、そちらへ」


 ただ、その唐突な行為に——

「——京華⁉」

 乙葉が慌てるが、一方の親友はここで小声になって告げていた。

「……こういう奴の対処は、お前じゃ無理だ。俺に任せておけ」

「でも……!」

 と、乙葉が反論しようとするが、状況は待ってくれない。


「……ふーん。こっちの娘が相手をしてくれるのか。それも……悪くねーな」

「⁉」

 男の興味が移っていることに乙葉が驚く中、一方の京華は営業スマイルを崩さずに、なおも同じ対応をしていた。

「……あら。お目が高い方ですね。それはともかく、お外の方に参りましょうか」

 そして、宣言通りにその男を連れて、店外に出てしまう。


 一方の乙葉も慌ててそれに追随しようとしていたが——

「——!」

 京華に視線だけで制され、あとに続くことができなかった。


 そのまま一瞬だけ硬直していたが——

「——呆けてる……場合じゃない……!」

 すぐさま行動に移らなければならない。まずは店長に連絡をする必要があったが、エプロンのポケットから自分のスマホを取り出したところで逡巡していた。


 例え緊急連絡を入れたとしても、マリーがすぐに戻ってくるとは限らないのだ。その間に——京華がどうなるか分からない。つい先日までは喧嘩上等の男子だったが、今はそうではないのだ。


「……いや、やっぱりダメだ! 一人にする訳には——」

 と——

 慌てて外に出ようとした時だった。


 いきなり——

「——店員さーん!」

 それまで一時間以上も居座り続けていた一人の客が、急に声を掛けてくる。

「——⁉」

 乙葉がそちらへ弾かれたように顔を向けると、その若い男性客は何やら困った様子で手招きをしていた。


「ちょっと、いいっすか? 聞きたいことがあるんすけどー?」

 このタイミングの悪さに——

「……ッ!」

 乙葉は躊躇したが、そちらも無視はできない。現在、この店舗は二人に任されているのだから。

「……すぐに……行きます……!」

 急いでそちらのテーブルに向かうと、一刻も早く何らかの問題を解決しようとしていた。



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