第34話 収まらない動揺

 頭の中が色々とゴチャゴチャになっていたが——

 とにかく、乙葉は京華と共に下校すると、勤労初日の職場へと無事に辿り着いていた。急いで来たため、時間は充分に間に合っている。二人は店舗の裏手に自転車を停めると、すぐさま裏口から中へと入っていた。


 次いで、店長と簡単なあいさつを交わしたあと、今まで物置として使用されていた更衣室に移動。そこで京華と共に着替えを始める。この喫茶店には特に指定の制服もないようで、就業中の服装は学園のブラウスにエプロン姿でいいという話だった。


 その途中——

 乙葉は状況が落ち着いたからか、徐々に雰囲気を変える。ブレザーを脱いで店のエプロンを持ったところで、不意にその手を止めていた。


 脳裏を過っているのは——数十分前の光景だ。

 こちらの都合しか考えていなかったため、先輩の努力を汚い手段で踏みにじってしまった。その良心の呵責が、再び一気に押し寄せてきているのだ。表情は完全に暗鬱としており、明らかにこれから接客業に携わる者の顔ではなかった。


 それに気づいた京華が——

「——おーとは」

 急に、背後から抱きつく。


 それだけなら良かったのだが——

「——ッ⁉」

 同時に、胸を鷲掴みにしていたため、乙葉は一気に顔を真っ赤にしていた。


「な——なななな……にゅをわ……ッ⁉」

 完全に呂律が回っていない。動揺が極まっている状態だ。それを見て、一方の京華は離れながら呆れた様子で告げていた。


「なんて顔してるんだ? これから営業だぞ? お前らしくないな」

「……人の気も知らないで……」

 乙葉が視線を逸らしながら、思わずそう吐き捨てている。その言葉は京華の耳にも届いていたが、よく分からないことには特に反応しなかった。


 その代わり——口からは、いつもの戯言がこぼれる。

「あ、さっき、そのエプロンを見て固まってたが……もしかして、裸エプロンでもやろうとしてたのか?」

「な……⁉」


 乙葉が言葉を失っていると、京華は目の前で邪な顔をしていた。

「うーん……いいね!」

「やる訳ないだろ! このお店の主要客であるご老人がショック死したらどうする気だ!」


 この即座の切り返しに——

 一方の京華は、からかい半分で指摘をする。

「……乙葉ちゃん。言葉遣い」


 普段とは真逆のこの状態に——

「——ッ⁉」

 当の乙葉がさらに絶句していると、京華はその反応を見て、ようやく真面目な様子になっていた。


「……ま、何があったのか知らないが、乙葉にもそういう日はあるよな。気分が優れないようなら、しばらくは俺に任せて休んでいてもいいぞ」

 だが、乙葉にはその好意を素直に受け入れる気は毛頭ない。

「……そういう訳にはいかないよ。京華が何するか分かんないし」


 思わず憎まれ口を叩いていると、ここで親友がニンマリとしていた。

「お、その調子だ。いつもの乙葉だ。考え過ぎはよくないぞ。世の中に、なんとかならないことはないからな。詳しいことは、よく知らないが」


 その言動で——

「——!」

 乙葉も、ようやく気づく。自身の不甲斐なさを。これでは、どちらが先導者なのか分からない。すぐに自省をして思考を切り替えると、最後に大きく息を吐いていた。


「……なんかもう、バカバカしくなってきた。全部……後日に回そう……か」

 そんな様子を確認して、京華が満足そうにしている。一方の乙葉は親友との一連のやり取りを改めて脳裏で繰り返すと、この前向き姿勢だけは見習わないといけないと切に感じていた。


 ふと——

「——二人とも。ちょっといいかしら?」

 急に、更衣室の扉が開く。

『?』

 このタイミングでのマリーの登場に、二人が同時にキョトンとしていると、店長がいきなり意外な発言をしていた。


「今、このお店にクレームの電話が入ってね。ちょっとだけ、ここを空けないといけなくなったのよ」

「クレーム……ですか」

 乙葉のこの確認に、マリーは小さく頷く。


「そうなのよ。私には全く身に覚えがないんだけどね……」

『?』

「とにかく、二人はまだメニューも覚えてないでしょ? だけど、こればかりは私が対応しないといけないのよ。だから、ちょっとだけお留守番してもらってもいいかしら?」


 この指示に、一方の乙葉は不安が隠せない。

「それって……大丈夫なんですか?」

 無論、二人はまだド新人だ。とても任せられるような立場ではなかったが、マリーは大きく頷くだけだった。


「大丈夫よ。今、店内には若いお客さんが一人だけいるけど、もう一時間ぐらい追加の注文もないから。それに、新しいお客さんや新しい注文が入っても、待たせておいていいわよ。多分、三十分も掛からないと思うから。それでも待てないような客だったら、うちにはいらないから」


「え……それって……いいんですか?」

 乙葉の再度の確認にも、店長の方針に変化はない。

「いいの、いいの。これがうちのスタイルだから。チェーン店にはできない芸当よね」

 どうやら、本心のようだ。それを理解して、乙葉もようやく納得していた。


「……分かりました。責任をもって対応しておきます」

「そんなに肩肘張らないの。じゃあ、ちょっとの間、よろしくね」

 そう言い残して、マリーは一時的に外出する。その後ろ姿を、乙葉は京華と共に見送っていた。


 ただ——

 その頼もしい姿が見えなくなったことで、乙葉の心境はそこで一変。急にソワソワし始めたため、それを見た京華が小さな溜息と共に、相手の背を叩いていた。



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