第20話 風呂場

 入学式が行われた日の宵の口。乙葉はその手に着替えを持って、実家の二階にある自室から下りてきていた。これから入浴に向かうのだが、その表情は少々硬い。これでもマシになってきた方なのだが、この時間だけは、どうしても思うところがある様子だった。


 普段着に身を包んでいる時は、何かに没頭していれば、今の性別を一時的にでも忘れることができる。反面、その全てを脱いでしまうと、否が応でも目の前に現実を突き付けられるのだ。だが、風呂に入らない訳にもいかないため、毎日なるべく手短に済ませていた。


「……自分の身体なんだから、慣れるしかないんだろうけど……」

 そうは言いつつも、全身を洗う時は、ほとんど目を閉じている。そのまま手探りでほぼ全ての作業を終えると、洗面所に戻って、すぐさま身体をバスタオルに包んでいた。


 目の前の鏡に映っているのは、長くなってしまった自分の髪の毛。まだ濡れたままの状態であるため、ドライヤーを使い、前よりも長い時間を掛けて一気に乾かす。次いで、すぐに部屋着へ着替えると、ほっとした様子で洗面所から出ていた。


 その直後——

「お……もう出たのか」

 廊下に実父の顔を発見する。どうやら、そろそろ出てくる頃合いだと察知し、やってきたようだ。乙葉はそう理解してから、素直な言葉を口にしていた。


「……うん。いい湯加減だったよ」

「それは上々。お父さんも、すぐに入るとしようか」

 劉玄も自身の着替えを持っており、入れ替わりで風呂場に向かう。そのまま小部屋のドアを閉めようとしていると、そこで乙葉が思わず口を開いていた。


「でも……やっぱり、なんか気まずいよ」

「ん?」

「風呂は……一家の主である父さんが最初だって、昔から決まってたからね。なんか変な感じだよ」


 この殊勝な発言に、一方の劉玄が明言する。

「……それは仕方がない。年頃の娘は、お父さんのあとに入るのを嫌がるからな」

「いや、そんな余計な気を遣わなくてもいいんだけど?」

 乙葉が即座に本心を告げると、実父は必要以上に驚いていた。


「え? いいの?」

「いいって。本当は娘じゃないんだし。全力で知ってるでしょ?」

「えー……?」

「……なんで残念そうなんだ……」


 乙葉は意味が分からずに困惑している。そんな様子は劉玄も確認していたが、気にしないでさらに告げていた。

「それはそうだとしても……今の一家の大黒柱は乙葉だからな。お前が最初に入るのが筋だ。全ては……お父さんの不甲斐なさが招いた結果だしな」

「それでも……父さんも仕事で疲れてるだろうし……」


 娘のこの言動に——

「……うう……乙葉ー……」

 急に、劉玄が感涙。

「⁉」

 乙葉がそれを見てドン引きする中、実父はなおも感動に打ち震えていた。


「……お父さんは……こんな素晴らしい娘を持って幸せだ……心の方は、入浴前にもう温まったようだよ……」

「……こっちは一気に冷めたよ」

「それは大変だ。湯冷めしないうちに、しっかりと暖かくしなさい。今は子供を産むこともできる大事な身体なんだからな」

「いいから、さっさと入れ」


 一方の娘はそう言いながら、劉玄を洗面所に押し込んでドアを閉める。

「……まったく」

 次いで、すぐに二階の自室へ戻ろうとしていた。


 すると——

「……姉ちゃん」

 と、ここで急に実弟が現れ、声を掛けてくる。

「うん? 拓? どうしたんだ?」

「……あー……なんていうか……」

 ただ、一方の拓次は何故かそこで視線を泳がせると、何かを翻意していた。

「……いや、いい。やっぱり、やめとく」


 が——

「——待て」

「!」

 と、乙葉が強引に引き留める。

「……何? 何かあったの?」

 どうしても気になって追及していると、拓次は小さな苦笑をしながら重い口を開けていた。


「……知らない方がいいと思うけど……」

「?」

「もし……真実を知りたいのなら、家の裏に回ってみるといいよ……」

「裏?」

 乙葉が首を傾げる中、実弟はすぐにこの場から立ち去る。

「……じゃ、あとの判断は任せるから」


「……なんなんだ?」

 一方の姉はそう呟いてから改めて二階へ向かおうとしていたが、その足はどうしても前に進まなかった。


「……あんな風に言われたら、気になって仕方がないじゃん……」

 時間はそれほど掛からないだろう。そんな判断もあり、とりあえず実弟の指示した場所へと足を運んでみることにしていた。


 ただ、そもそも何についての言及だったのかが分からない。そのため、玄関から外に出ると、まずは自宅の周囲を一周しようとしていた。


 すると、ちょうど風呂場の外に差し掛かった時、聞き覚えのある声が耳に届く。

「——あー……極楽だ——」

「うん? 父さん?」


 乙葉が小声でそんな反応をした直後——

 ここで、その存在に全く気づいていない実父が口を滑らせていた。

「——乙葉が入ったあとの湯の中……まるで、愛娘の黄金水に浸かっているかのような気分だ——」


 これを耳にして——

「——ッ⁉」

 乙葉は完全に沈黙。そんな裏手の様子にはなおも気づかないまま、風呂場の劉玄はさらに放言を続けていた。


「——やっぱり、このままずっと愛娘の方がいいよなー……水城浦家の方には、そう言っておこうかなー……よし……そうするか——」


 この失言を最後まで聞かないまま——

 乙葉は、その双眸に漆黒の闇を宿していた。次いで、ほぼ直感だけで給湯器から連なる配水管の弁の位置を特定。同時に、そこへ発動可能な念動力の全てを注ぎ込んでいた。


 それから数分が経過し——風呂場の湯船が地獄の釜となる。入浴中の劉玄はそれでも娘の残り香にしがみつこうとしていたが、やがて絶叫と共に浴室から飛び出すことになっていた。


 その後——

「うん……?」

 自室に戻っていた乙葉はしばらくして冷静になると、ふと疑念が脳裏を過る。


「そういえば……なんで拓の奴、父さんが風呂場でいつも妄言を吐いてることなんて知ってるんだ?」

 その点を気にしていたが、どうしても解答には辿り着けない様子だ。また、重大な懸念でもないため、すぐにどうでもよくなっていた。



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