第10話 目覚め
「何を、言ってるんだ」
桜田はツトムを背中に庇いながら、震える身体を抑えて極めて冷静に話しかける。
この男の言っている事はめちゃくちゃだ。支離滅裂だ。
自分で息子を傷つけておきながら、傍にいて欲しいだと?
それが叶わないなら、共に死んで欲しい?
ふざけるな。
桜田は恐怖を怒りで塗りつぶし、感情のままに吠える。
「お前のせいだろうがッ! ツトム君の成長を、子供の成長を妨げたのは他でもない、お前自身だッ! それを今になって、何言ってんだッ!」
怒りに身を任せて叫ぶ桜田。
しかし、男は呆然とした表情で全く聞いている素振りが無い。
震える。
先程まではまだ会話が可能だった。だが、今は違う。会話の通じない獣になってしまった男は、いつ噛みついてきてもおかしくない狂犬そのもの。
しかもこちらには。桜田はちらりと後ろへと目を向ける。
そこには驚きと恐怖のあまり、目を見開いて固まっているツトムの姿が。
男はツトムを狙っている。それを自分が止められるだろうか。
震えが、止まらない。
「ツトム君、逃げろ」
「そんなッ!? 出来ませんッ!」
桜田の言葉を一瞬で否定するツトム。
口調ははっきりと、この場から動かないという意志を感じる。しかし、その体は震えていて。
桜田はツトムの手を離し、頭を撫でる。それは、ツトムにとって久しぶりの大人との接触。頭を撫でられたのは、いつぶりだろうか。
じわっと、心の奥が温まっていく。
それはまるで、昔父親に撫でられた時のような、そんな感覚がした。
「ツトム……、ツトムゥゥゥッッ!!!」
「いいから走れ!」
今にも暴れ出しそうな男の様子を見て、桜田はやや乱暴に突き放す。
その表情に余裕は無く、緊張が見て取れる。
そしてようやく気が付いた。自分がここにいても、何の役にも立たないという事に。
ツトムは悔しそうに唇をかみしめながら、後ろに向かって足を踏み出す。
「助けを呼んできます! だから、お願いしますよっ」
ツトムの言葉に、後ろを振り返らずに親指だけを立てる桜田。
お願いします、というのはどういう意味か。桜田の無事か、それとも。
ツトムの後ろ姿がどんどん遠ざかっていくのを見た男は、目の前に立ちふさがる邪魔者を消そうとする。
「どけェェェェッッ!!」
男が死に物狂いで振り回すナイフを、桜田は近くに転がっていた自転車を持ち上げて受け止める。
先程までの泥臭い、拳の喧嘩とは訳が違う。一つでもミスったら死ぬ、命懸けの攻防。
緊張感で呼吸が荒くなる。恐怖で背筋が凍り付く。
ただ自分に出来ることを一生懸命やるためにに、必死に脳裏によぎる恐怖をかき消し腹の底から叫ぶ。
「うおおぉォォォォッッ!!」
自転車でそのまま抑え込み、思いっきり後ろに吹き飛ばす。男は体勢を崩しよろめくが、右手からナイフは離さない。
そして再び、ナイフを振りかぶって襲い掛かる。
「ツトムを、ツトムを返せェェェッッ!」
「ふざ、けんじゃねえ」
自転車を盾にして防ぎながら、桜田は口を開く。
それは怒り、そして少しの憐れみ。
「ならどうして愛してやれなかった……! 何で暴力なんか振るった……! そんなに大切なら、もっと他に接し方だってあっただろッ!」
それはツトムと接してきた桜田だからこそ、怒りを隠すことが出来なかった。
ツトムが今まで背負ってきた悲しみや苛立ち、それは少しの努力で回避できるはずだった。そうすれば、心の傷も負わなくて済んだかもしれない。明るい家庭で、家族仲良く暮らせていたかもしれない。
それを終わらせたのは、自分だろ。
桜田がそう思った時、男の表情に気が付いた。
涙を流し、泣いている。
「なに、泣いてんだよ」
「俺は分からない」
それは初めての会話。
理性的な、本心から放つ感情の発露。
「会社をクビになったあの日から、自分は何をすればいいのか分からなくなった。訳が分からず、ただいつものように酒を飲んだ」
それは知っている。
そしてそこから日常的に暴力を振るうようになったこと。
事件が明るみになるまでの間、地獄のような空間で生活していたこと。
ツトムの心に、消えない傷を負わせたこと。
「だからってそれが許されると――」
「分からないんだ。自分が何をやったのか」
その言葉にピタリと口が止まる。
なんだそれは?
「気が付いた時にはツトムが倒れていて、妻が泣いて。自分の拳の皮が破けていたから、あぁ自分がやったのかと気付いて」
男はもはや、桜田の存在を忘れて独白を始める。
それは懺悔のような、言い訳を述べるだけの時間。
ただそれが、彼にとっての真実であると桜田はなんとなく理解した。
「自分がやったことを忘れたくて、お酒を飲んだ。これは悪い夢だと思った。だから忘れれば、また楽しかったあの時に、家族三人仲良かったあの時に戻れると思った」
それは強烈な現実逃避。
ただ自分がしてしまった事に蓋をして、事実に目を背けて、その結果がこれか。
桜田は怒りを通り越して、悲しみを胸に抱く。
そして、強い決意と共に口を開く。
「アホか」
桜田の言葉に、呆然と下を向いていた男の顔が前を向く。
視線がぶつかる。その力強い眼差しに、男の瞳が揺れる。
「どんだけ言い訳並べようが、お前はやっちゃいけないことをしたんだ。それで罪を償うならまだしも、未だにベラベラ御託並べて現実逃避とか、いい加減にしろよ」
桜田の言葉はそのどれもが正しかった。
しかし男にとって、その正しさが何よりも辛かった。
人間にとって何が一番辛いのかと聞かれれば、それは混じりけの無い正論だ。しかも自分が間違っていると少しでも自覚があるなら尚更のこと。
男は目に見えて狼狽える。視線は定まらず、左右上下にせわしなく動く。
「俺は……、俺は……」
「目を覚ませ! お前に少しでも申し訳ないって気持ちが残ってるならッ!」
桜田の言葉に、男は頭を抱えて呻き声をあげる。
ようやく落ち着いたか。そう思い、自転車を持ち上げていた腕の力を緩めてしまう。
しかし。
「おれはァァァァァッッ!!」
「なっ!?」
男は我を忘れて、自転車ごと桜田を突き飛ばす。
油断していた桜田はその衝撃で自転車を離してしまい、ガシャンという音を立てて後方に転がる。
無防備な桜田に、男は叫びながらナイフを振り上げる。
銀色が鈍く輝く。
それでも桜田は、最後まで声をかける。
「ツトム君も本当は信じていたんだ! お前が正常に戻ることを!」
ナイフが振り下ろされる。
時間がゆっくり流れるような気がした。
嗚呼、死ぬってこういう気分なのか。不思議と冷静な頭でそう考えながら、それでも心の底から声を出す。
教えなきゃ。
この過ちを正すために。
悪夢から、目覚めさせるために。
「そうじゃなきゃ――」
刃が迫る。
桜田は恐怖のあまり目を瞑りながら、最後の事実を放つ。
「お前の苗字を名乗ったりなんかしないッ!」
静寂。
訪れるはずの痛みや、死の実感が湧いてこない。桜田は恐る恐る瞼を開ける。
そして眼前に迫るナイフを視認する。
「うわッ」
慌てて後ろに避けるが、そこで気づく。ナイフはピタリと固まって、微動だにしていないということに。
男は顔を伏せたまま、石像のように動かない。
桜田が声をかけようとしたその時、後方から複数の足音と、桜田の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「桜田君ッ!」
「里見さん……」
見知った顔が近づいてくる様子を見て、緊張感がほどけていく。
そのあまりの安心感に、腰を抜かして床に座り込む。どっと疲れが押し寄せてくるようだ。
そして里見の後ろから、複数の黒い影が抜け出して駆け寄ってくる。そのうちの一人は知っている。黒いスーツ、黒井さんだ。
「18時17分!
「手首縛れ! こいつナイフ持ってるぞ!」
どうやら警察と思われる男達が、目の前で男を捕縛する作業を呆然と眺める。
終わった、のか。
いまだに信じられない様子で床に座り込む桜田の元に、小さな影が飛び込んでくる。
「桜田さん!」
「おわっ!」
ツトムは桜田に抱き着き、顔を覗き込む。
どうやら刃物で切られたような目立った外傷は見当たらない。
ホッと一息。ため息をついたツトムは、桜田に言葉をかける。
「終わりましたね」
「あ、あぁ」
怒涛の展開で理解が追い付いていない桜田。
その耳に、ふと声が聞こえる。
声主の方向に視線を向ければ、そこには手首を縛られた状態で涙を流す、哀れな男の姿があった。
「ごめん……。ごめん……」
男は涙を流し、誰に対してか分からない謝罪を吐いていた。
桜田はその光景を眺め、そのままツトムへと視線を向ける。ツトムはただ呆然と、しかし何処か悲しげな表情を浮かべていた。
そして桜田は、心の中で呟いた。
目が覚めたんだな、と。
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