第9話 愛
「ふ、ざけんじゃねえぞ……。この、クソガキがァッ!」
男は顔を真っ赤に染めて怒鳴り声をあげる。頭に血が上ったせいで、鼻血の勢いはさらに強まってしまう。
ボタボタと落ちる赤い雫に目もくれず、男は狂気的な目つきで桜田を睨みつける。
その表情は怒りと憎しみに覆われており、理性的な姿はどこにも見られない。
「ふざけてんのはどっちだよ」
しかし、怒っているのは男だけではない。
「こんだけ子供が勇気出して、真正面からぶつかってきてるのに。アンタは何も感じないのかよ?」
桜田は努めて冷静に語りかける。
怒り露わの男とは対照的に、桜田の表情はまるで顔から感情が削ぎ落ちたかのような無表情であった。
それが峯山にはまるで、必死に感情を抑え込んでいるようにも見えた。
「はァ? 何言ってんだてめぇは。感じたって言ってんだろうが」
男は鼻から垂れる血を隠そうともしない姿で、下卑た笑みを浮かべる。
「クソ生意気で、むかつくってよォッ!」
「……そうか」
言葉を発するや否や、男は先程やられた分を返してやろうとそのまま助走をつけて桜田へと殴りかかろうとする。
その言葉を聴いた桜田は諦めたように目を閉じる。
固く握った拳を振りかぶり、桜田の顔面に向かって思いっきり打ち付ける。
危ない。峯山がそう声をかけようとした時には遅く、ゴッという鈍い音と共に桜田がのけぞる。
「ハハッ、大人を甘く見るからこうなるん――」
「嗚呼、確かに」
確かな手ごたえを感じていた男は、声が返ってきたことに慌てて桜田の表情を見る。男の瞳に、口の端から血を垂れ流しながらも歯をくいしばって耐える桜田の姿が飛び込む。
強く睨み返してくるその瞳は、強い決意に溢れているように見えた。
男の背筋が、ゾワリと震える。
「子供ってのは面倒な生き物だ。俺だって嫌いだし、極力関わりたくないって思ってる。それでも……」
桜田は、全身全霊で腕を振りかぶっていた。
これは不味い。そう強く思った男は今すぐその場から離れようとする。
しかし、男はそこでハッと気づく。
左腕で強く胸ぐらを掴み、決して逃がすまいと握りしめられた拳を。そして、自分が誘い込まれたという事実を。
こいつはわざと顔面に拳を喰らって、待っていたんだ。逃げ場のない、絶対に当てることのできる距離まで。
何故。
どうしてそんなことが出来る?
誰だって痛いのは嫌なはずだ。
だから他者に責任を押し付けて、誰かにストレスをぶつけて。そうやって自分が快適に生きる為に誰かを利用する。
それが正しい生き方だ。間違ってるなんて言わせない、絶対に。
それなのにどうして。
なんでこいつは、こんなボロボロになってまで誰かの為に動くんだ。
こいつは一体、なんなんだ……!?
「俺は、子供を悲しませるようなカスには死んでもならねェ……ッ!!」
轟ッ、という風を切る音と共に、見えない速度で拳は男の顔面へと叩きこまれる。
男が痛みに悶えるよりも先に、強い衝撃が響き渡る。桜田の拳に、固い何かが折れる感触がした。
「ごはァッ!?」
呻き声を漏らしながら吹き飛んでいく男。男の視界の片隅に、白い何かが舞い散るのが見えた。
ああ、これは歯だ。そう認識すると同時に、男の意識はフッと暗闇に包まれる。
桜田は拳を掲げて、満足げに呟く。
「筋肉こそが正義」
それを見た峯山は、先程までの緊張状態を忘れて思わず突っ込んだ。
「本物の馬鹿だ……」
峯山の脳裏に、初めて桜田と会話した時の内容が浮かび上がる。
頭に筋肉しか詰まってなさそうな、たんさいぼう。あの時は苛立ち半分で発した言葉だったが、あながち間違いでは無かった。
どうやらこの人は、マジモンの筋肉馬鹿だったらしい。
峯山はそう思い、一人くすっと笑う。
それに気づいた桜田は、少し不思議そうな、呆れた表情を浮かべて話しかける。
「なんだ、峯山君。そんなボロボロの状態でよく笑えるな」
「あなたに言われたくはないですよ」
振り返ってみれば、言い合いをする二人の姿はともにボロボロで。そんな状態で互いに庇い合っていたのかと、驚きつつも笑いがこみあげてくる。
「は、ははっ。何だ、二人揃ってズタボロじゃんか」
「ふっ。顔を思いっきり殴られた桜田さんの方が、酷い顔してますよ」
「ハハハッ!」
「ククッ」
桜田と峯山は、互いに顔を見合わせて笑い出す。
緊張から解放されて、互いの素を見せ合って、ようやく理解できた。二人は、環境こそ違うが互いに似ている者同士だった。
大人と子供。好きと嫌い。不信感。そして、意地っ張り。
違うようで似ている二人は、この瞬間確かに分かり合えたのだ。
「さ、帰ろうか。お母さんや里見さん、黒井さんも、みんな峯山君を探してるよ」
「そうですね。じゃあその前に一つ」
「ん?」
そろそろ帰ろうと、桜田が伸ばした手を前にして峯山が口を開く。
「僕の名前は、ツトムです。そう、呼んでもらえませんか?」
「……そうだね」
峯山という名前は、父親と同じ苗字だ。
もしかしたらそれは、一種の呪縛だったのだろう。そして同時に、最後の繋がりでもあったのだ。
峯山という名前ではなく、ツトムと呼んで欲しい。それはつまり、親からの自立。過去を払拭して前に進むという希望の現れなのかもしれない。
「じゃあ行こうか。ツトム君」
「ッ、はい!」
元気よく声を上げ、ツトムは桜田の手を握る。
小さな手と、大きな手。今はまだ、大人と子供の関係かもしれない。
それでもいつか、子供は成長して大人になる。だからこれは、大人と子供の握手ではない。
大人と、これから大人になる者の握手だ。
「まずは里見さんとかに状況説明しないとなあ」
「いったん戻って、応援とか呼びましょう」
二人は手を繋いで歩く。
暗かった路地裏から、街灯が灯る世界へ。
闇から光。一人では怖くても、誰かと一緒なら。
きっと――
「待てよ……」
感情が迸る。
その言葉は、憎しみという生易しいものでは無く。もっと醜悪な何かが煮詰まったような、そんな心が滲んで聞こえた。
桜田とツトムは思わずバッと振り返る。
そこにはふらふらの状態で立ち上がり、獣のような眼光で睨みつける男の姿があった。
そしてその男の右手には。
銀色に鈍く光るナイフが握られていた。
「一人にしないでくれよ……」
男の言葉には、怒りを感じられない。
あるのは深い悲しみと、絶望。そして、吐き気を催す程の執着心。
それは先程までよりも遥かに人間臭く、醜くも父親の顔をしていた。
「お前がいなくなったら、俺は一人ぼっちなんだ。頼む、俺の傍にいてくれ……」
桜田は、今まで感じたことの無い恐怖を抱いていた。
冷や汗が止まらない。背筋の震えが収まらない。
この男が発する感情は、怒りや憎しみから生まれたものじゃない。
「それが叶わないなら」
この感情は。
「父さんと一緒に、死んでくれ」
愛だ。
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