第8話 子供嫌いの桜田君
「桜田、さん」
峯山は目を見開き、信じられないといった様子で目の前の光景を眺めていた。
父親の前に立ちはだかる、その見慣れた背中。
何故だろうか。
いつもは頼りなさげな身体が、今はとても大きく見えた。
桜田が振り返り、優しい笑みを浮かべ峯山を見つめる。
いつもと同じ、締まりのない顔。
それなのに。その顔を見た瞬間、胸の内が安堵感で包まれていく。
「おい」
冷たく凍えた言葉が耳に突き刺さる。
それと同時に、心の中に広がっていた暖かな気持ちが急速に冷めていく。
桜田がゆっくりと正面へ向き直り、声の主を静かに見据える。
「お前が誰だか知らないが、これは家族同士の問題だ。部外者は首を突っ込んでくるな」
男は憤怒に表情を滲ませながら淡々と言葉を紡ぐ。
日は既に地平線に沈み、辺りは暗闇に包まれる。電柱の微かな光に照らされた路上の上にて対峙する二つの影。
桜田は表情を一切変えることなく、男に向かって問い返す。
「あなた、峯山君のお父さんですよね?」
「それがなんだ」
「……子供に向かって暴力を振るおうとしましたね?」
「はっ」
男は桜田の質問を鼻で笑い、そして嘲るような表情で答えた。
「だから?」
ピクリと桜田のこめかみが反応する。
「何も、感じないんですか……?」
「あのな、お前も大人ならわかれよ。世の中綺麗ごとだけじゃすまないって事を。言って駄目なら直接分からせるしか無ぇだろ?」
男は堂々と宣言する。
その表情に一片の躊躇いの色は無い。この男は心の底から本気で思っているのだ。
自分は悪くないと。この行動は必要なものであると。
「あなたはッ、彼の気持ちが分からないのか!? 大人に暴力を振るわれることの恐怖が、心に刻まれた傷の深さが……ッ!?」
桜田は先程までの無表情な様子から一転、感情のままに叫ぶ。声を枯らしてしまいそうな程にその心は熱く迸っていた。
今の桜田の姿を見て、もはや誰が子供嫌いだと思うだろうか。
子供を背に庇い、自転車を全速力で漕いだ時にかいたであろう汗に濡れたその姿。
ハレルヤでアルバイトをするまでは理解することが出来なかった子供という存在。そんな子供に対して、ここまで感情的になることが出来るなんて誰が予想できただろうか。
「分からねえよ。ガキの考えてることなんてわかった試しが無い。お前だって心当たりあるだろ? さっきまで機嫌よく笑ってた奴が、急に涙を流して喚き散らしやがる。そんな奴の気持ちなんて、理解出来る訳が無い」
その言葉を聞いて、桜田は喉が詰まってしまう。
言い返してやろうと思った。だがしかし、それと同時に納得してしまった。
なぜならそれは、以前まで自分が思っていたことだったから。
「意思疎通が出来ない奴が人間だと? はっ! 馬鹿言ってんじゃねえよ。ガキってのは要するに人間の幼体、すなわち進化前だろ? だったら正しい人間になれるように大人が教育してやらねえといけねぇだろ!」
男の放つ言葉が、刃となって桜田に突き刺さる。
この鋭く危険な思想は、過去の自分の写し鏡だ。
子供に対して理解の及ばなかった、未知の存在を忌み嫌っていたあの時。一歩間違えれば、その発言をしていたのは自分だったかもしれない。桜田はその事実に気づいてしまった。
声が喉に引っ掛かり、次の言葉が出てこない。
反論しなければならないのに。言い返すために、守るためにここまで来たのに。
「実際の所さ、世の中を見渡してみろよ。教育や育児において暴力を振るわれたことの無い子供なんていねえよ。それが明るみに出たらやれ虐待だ何だと言われる。これはあまりにも理不尽じゃねえか?」
桜田が言い返してこないのをいいことに、男は調子づいて持論を語り出す。
その発言はあまりにも極論が過ぎるもので――
「……だからといって、それが暴力を許容していい理由にはならないッ!」
先程まで喉に詰まって出てこなかった言葉が、水のように流れ出る。
今まで言い返すことが出来なかった分、鬼の首を取ったように、語気を強めて言葉を返す。
返して、しまった。
「だったら、どうしろってんだッ!」
「かはッ!」
その発言が癪に触ったのか、男は言葉と同時に右足を振り抜いて蹴り上げる。
つま先が桜田の鳩尾に突き刺さり、思わず呻き声を上げる。
「桜田さん!?」
峯山の悲鳴交じりの声が桜田の耳元に届く。
大丈夫だ、心配するな。そう伝えてあげたかった。しかし、桜田はそちらの方に向き直ることは出来なかった。
なぜなら男が続けざまに拳を振り抜いてきたからである。
「ぐ……ッ!」
「ガキは一人じゃ何も出来ねぇんだから――」
男は顔を歪め、憎悪を煮詰めたかのような表情で嗤う。
「せいぜい大人の言う事だけ聞いてればいいんだよォッ!」
鈍い音と共に視界が白く染まる。眼前でチカチカと閃光が弾け、遅れて痛みが走る。
嗚呼、殴られたのか。
そう認識するも既に遅く、桜田は膝から崩れ落ちる。膝をつき俯く桜田の顔から赤い雫が零れる。
朦朧とした思考の中で、鼻筋からぬるりと熱い血が流れているのを感じた。桜田はそれが鼻血であると理解する。
「―――、――――ッ! ―――――――……」
頭上から声が降り注ぐ。
しかし、聞こえてくる音は言語としての形を保っておらず、不快な雑音として耳に届く。
視界が徐々に暗くなり、やがて音も遠くに聞こえるようになってきた。
(もう、このまま寝てしまいたい)
朦朧とした意識の中で、そんな欲望が湧き上がる。
そうだ、このまま瞼を閉じてしまえば楽になれる。この痛みも、耳障りな音も、何も感じなくなる。
そういえば、自分はこんなところで一体何をしていたんだ。先程まで自分は友人と飲んでいたはずなのに、何故こんな所にいるんだろうか。自分は一体、何がしたかったのか。
疑問が頭の中を駆け巡り、渦の様に廻り出す。そのまま意識は渦潮に呑まれていき――
「やめろぉぉぉぉぉぉぉッ!」
沈みかけた意識が覚醒する。
バッとその声の主へと視線を向ける。
そこには、先程まで後ろで震えていた峯山の姿があった。
「……何をやってるんだ? 父親に向かってその態度は何だ?」
男が冷ややかな視線を峯山へと向ける。その顔には感情が抜け落ちたような、ゾッとする表情が浮かんでいた。
峯山は震えた声で答える。
「もう、これ以上やめてください。お願いします。いう事聞きます。ぶたれても泣いたり叫んだりしません。だから……」
「俺は何をやっているのかと聞いてるんだ」
ビクッと峯山の肩が跳ねる。
男は苛立ちを含んだ声色で淡々と話し続ける。
「俺は今そこの奴に用があるんだ。邪魔をするな、どけ」
語気を強めた男の言葉は、一つ一つが刃となって脅しの道具へと変わる。
有無を言わせないその言葉、その表情に峯山は恐怖で足が震えてしまう。カチカチと歯を鳴らし、ガクガクと膝を震わすその姿はとても勇敢とは言えない。
しかし、それでも峯山は真っすぐ視線を逸らさずに答える。
「嫌だ」
その言葉に、男だけでなく桜田も驚きを隠せないでいた。
先程まであれほど恐怖に支配され、動くことすらできなかったのに。今もその姿は恐怖に包まれているというのに、どうして。
男は呆然とした様子で口を開けていたが、一転して顔を怒りに歪め怒鳴り散らす。
「誰に向かって口をきいてるんだお前はァッ! 俺は父親で、大人で、お前はただの子供だろうがッ!? 口答えするんじゃねえぞクソガキがァッ!」
これまでとは比にならない程の悪意が吹き荒れる。煮詰められた憎悪の塊が形を成して現れたかのような、醜悪な怒りの化身。
その咆哮はあまりにもおぞましく、峯山の震えはさらに大きくなっていく。後ろで聞いている桜田すらも、その場から動けなくなるほどの恐怖がそこにはあった。
それでも――
「僕はッ!」
峯山が叫ぶ。
その声は涙に濡れながら、力の限り、感情が溢れんばかりに思いの丈をぶつけていく。
「僕は大人が嫌いだ! あなたが僕のような子供のことが分からないのと同じように、僕も大人が分からない! 何もできないとすぐに怒るし、しつけと言って痛いことをしてくるし、そのくせ子供以上に自分勝手な時があるし……」
峯山の口から、今まで貯めてきた鬱憤が湯水のように湧いて流れ出る。止まらない言葉の洪水は、今まで我慢して言う事の出来なかった本当の想いだった。
「他の大人だって、助けてほしい時に手を差し伸べようともしてくれない! 大人が声をかけてくるのは、いつも全てのことが終わってからだ。あたかも心配していたかのように、『大丈夫だったかい?』『怖かったね』って」
「峯山君……」
怒りか、悲しみか。ボロボロと涙を落としながら話す峯山の背中は、まだ幼い子供のそれだった。
ドクン。桜田の胸に、何か熱いモノが脈打ち始める。
「大人は信用できない生き物。そう思ってた」
そう言って峯山は後ろを振り返る。桜田と峯山の視線が重なり合う。瞳の中に映るのは、桜田の姿。
「でもいろんな人に出会って、話して、怒って、笑って。ようやく気づくことが出来た」
峯山は目を細めて思いっきり無邪気に笑う。目尻から涙が一筋零れ落ちる。
「大人もそんなに悪くないってね!」
涙に濡れた峯山の瞳を見つめた桜田は、その奥に成長の影を見た。初めて出会ったあの日から、色んな姿を見てきた。無口で生意気なあの頃から、初めてまともに話した日に怒った姿、やんちゃな子供と仲直りする様子。
嗚呼、子どもという生き物はこんなにも、成長するのが早いのか。
ドクン、ドクン。心臓がうるさい。
「なるほど、分かった。お前の気持ちはよォく理解できた」
その光景を黙って眺めていた男がようやく口を開く。先程までの怒りはどこへやら。その口調はどことなく優しく、表情には微笑みすら浮かべていた。
「とうさん……」
「お前が変わることが出来たのは、そこにいる男の影響なんだな。そうかそうか……」
男は峯山の肩を優しく叩き、そしてグッと強く握る。
「このガキがァッ!」
「ぐあッ……!?」
「峯山君!?」
男は峯山の腹に反対の拳を強くめり込ませる。鳩尾に突き刺さった拳が鈍い音を鳴らし、峯山はうめき声を上げて倒れ込む。
「お前に悪い影響を与えたのはあいつなんだろう?」
そう云い放った男の眼は、もはや人間のそれでは無い。今まで見下してきた子供に真正面から否定され、あまりの屈辱に理性的なふりをしているだけのただの獣である。
血走った眼付で峯山を見下した男は、フッと視線を逸らし、桜田の方へと視線を向ける。
その眼を見た桜田は、思わずゾッと背筋が凍る。
殺される。そう直感的に感じた。
「待ってろツトム。大丈夫だ。こいつをお前の前から消して、また教育し直してやる」
恐怖が身体中を蟲のように駆けずり回る。此処から逃げなければならないと、直観的にそう感じた。しかし恐怖に支配された身体と反対に、頭は驚くほど冷静に働いていた。そして気付く。
今この男が放った“ツトム”という名前。これは、峯山君の下の名前……?
そこでふと、桜田は気付く。
そうだ。思えば、自分は今まで峯山君の下の名前を知らなかった。いや、知る気が無かったというべきか。
そこまで考え、思わず自分の滑稽さに笑ってしまいそうになる。これだけ首を突っ込んでおきながら、最も基礎的な事を知らずにいたとは。思えば初めからそうだった。名前も性格も知らず、一番最初に気付いたことは虐待の痕だった。
あの日からだ。
子供嫌いだった自分が、初めて自分の意志で関わることを決めたのだ。
「やめ、ろ……」
峯山が一歩踏み出した男の足首を掴む。
そうだ。峯山君のこの姿が、子供の成長の凄さを教えてくれた。
「チッ! いいからお前は――」
男はゆっくりともう片方の足を持ち上げ、峯山の頭上に振り下ろそうとしている。
峯山君のように、自分も変わらなければ。嫌いだったはずの子供から、多くのことを学んできたじゃないか。
もう何も知らなかった頃の自分じゃいられない。ここで動かなければ、立ち上がらなければ。
「大人しくしてろッ!」
峯山君が話してた、傍観してるだけの子供好きと同じだろうがッッッ!!
男の足が、峯山の頭に向かって振り下ろされる。峯山は痛みに耐えるために、ぎゅっと強く目を瞑る。男が峯山の頭を踏み潰そうとする、その直前。
ガンッッ!
今までのどの音よりも鈍い音が頭上から聞こえてくる。
恐る恐る目を開くとそこには、男の顔を思いっ切り拳で振り抜いた桜田の姿があった。
「があァァッ!?」
顔を力の限り殴られた男は堪らず悲鳴と共に吹き飛んでいく。鼻血をまき散らしながらゴロゴロと二転した後、何が起こったのか分からない呆然とした表情で辺りを見渡す。
そして拳を振り抜いた体制の桜田を見つけ、怒りで真紅に顔を染め喚き散らす。
「な、何をしとるんだ貴様ァッ!? こ、これは傷害事件だ! 絶対に訴えてやるからな!? 俺の教育の邪魔をしやが――」
「そんなに教育に自信があるなら勝負しましょうよ」
桜田は男の言葉を遮り、挑発的な笑みを浮かべて口を開く。
「な、何を……」
「虐待親父
桜田は先程振り抜いた拳を眼前に突き出し、視線を泳がせる男に向けて告げる。
「負けたら二度と教育語んじゃねえぞ?」
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