第7話 大人と子供
この日は、峯山にとって大きな分岐点であった。
自分の感情を全てさらけ出したこと。勇気を出して、一歩踏み出したこと。
その選択はまさに、大いなる前進と呼べるものであった。
過去のトラウマを乗り越え、未来に向かって歩み始めた日。
この時、峯山は浮かれていた。
「おいおい、こんなところにいたのか」
人生の分岐点。過去のトラウマが立ちふさがるまでは。
「とう、さん……」
峯山の瞳が激しく揺れる。
心臓が軋みを上げ、動悸が激しく鳴り響く。
どうして。
なんで。
此処にいるはずないのに。
疑問は頭の中に浮かんでは消え、思考は歪みを増してく。
ハァハァと動悸が荒くなり、呼吸さえ上手くできない。
過去のトラウマが鮮明に思い出される。
怒号が響き渡る部屋。浴びせられる罵声と暴力。
心臓の鼓動と反するように背筋はどんどんと冷たくなり、手足の感覚もおぼろげだ。
峯山は心のどこかで願っていたのだ。
このまま思い出すことなく、忘れていくことを。
「随分と探したが、ようやく会えたな」
「とうさん、なんで」
じりじりと後ろに下がっていく峯山を追い詰めるように。一歩、また一歩と距離を詰める男。
落ち着いた言葉遣いをしているが、自分には分かる。
この男がどうしようもなく、理性を欠いているという事が。
「お前らが俺の元から去って随分と経った。その間の俺は随分と酷いもんだったよ」
日が沈みかけた夕焼けの空の下。充血した真っ赤な目が怪しげに鈍く輝く。
「家族から強制的に隔離され、近所からは冷たい目で見られる。挙句の果てには危険人物扱いで監視される日々。こんな理不尽なことがあるか……!?」
徐々に荒くなる語気。
平静を取り繕う事を忘れ、本来の性分が露わになっていた。
自分に非が無いと思い込み、被害者であると信じ込む。狂気的なまでの自己保身の塊。
あの頃と変わらない、酷く醜い獣のような姿。
その姿が、焦げ付いた記憶の片隅を蘇らせる。
最悪の日々を、地獄のような光景を。
「あ、あ……」
峯山は言葉を発することを忘れ、ただ呆然と立っていた。
過去のトラウマが蘇り、あの時の恐怖を彷彿とさせる。
自分が初めて暴力を振るわれた、あの不条理の化身。それと同じ光景が目の前に広がっている。
「大体、あの黒井って男含め全員気に食わねえ。俺はただ、悪いところを正そうとしただけだ! そうだよ、あれは教育だったんだ! それを知らない奴らが偉そうに、俺らの家族の在り方に首突っ込んで来るんじゃねえよォ!」
人じゃないナニカがじりじり迫ってくる。
峯山は恐怖を振り払うように、固まった身体を無理やりに動かし反対側へと走り出す。
今来た道を戻れば、ハレルヤに戻れるはず。
そこで大人に助けを求めれば大丈夫。
黒井さんに里見さん。
そして、桜田。
きっと彼らが何とかしてくれる。だってそうだろ。
せっかく毎日が楽しくなってきたのに。
大人の事を、少しずつ好きになれそうだったのに。
こんなの、あまりにも残酷すぎる。
「だ……、誰か、たすけ……ッ!」
恐怖で震えた声を絞り出しながら、それでも誰かに助けを求める。
あの時のように。
当時の周りの大人は助けてくれなかったけれど、今ならきっと、誰かが助けてくれる。
だから、お願い、誰か……。
「おい、何処へ行くんだ?」
大人というものは理不尽で、子供の身でそれに抗う事は難しい。
峯山の全身全霊の走りは、大人にとって少し頑張れば追いつける程度の物にすぎない。
腕を掴まれ、そのままグイッと引っ張られる。あまりの力強さに倒れ込んでしまった峯山が顔を上げると、そこには自分を見下ろす“大人”の姿があった。
「父さんはな、お前のことが好きなんだよ」
言葉とは裏腹に、嗜虐的な笑みを浮かばせた父親は見下した視線で言葉を放つ。
「だからこそ、分からせてあげないと。大人に歯向かったらどうなるのか、な」
嗚呼、ようやくわかった気がする。
峯山は一人、静かに納得していた。
どうして大人が苦手だったのか。
それは、自分達子供のことを『下』として認識しているからだ。
大人は子供よりも圧倒的に力を持っている。だから無意識的に、何かあれば押さえつけられると思っている。
子供が好きという言葉は、大半の場合良い意味でつかわれているだろう。現に、子供好きな人は良い印象を持たれることが多い。
しかし、中には悪意を持って好意を向ける場合もある。それがもはや好意なのか、判別することは難しいだろう。
何故ならそういった人物にとって子供というのは、自分の意見を押し通しやすい弱者に見えているのだから。
自分より格下の、反抗できない小さな存在。
だから好きなのだ。
これがごく少数の事例であることは分かっている。それでも、可能性はゼロではない。今もどこかで苦しんでいる子供がいるかもしれない。
悔しい。
自分の力で何も出来ないことが。
この子供という身が。
ただ涙を流して耐える事しか出来ない、こんな状況が。
「さて、お仕置きの時間だぞォ」
ゆっくりと伸ばされる腕を見つめながら、峯山は静かに願う。
子供のことが好きじゃなくてもいい。
いっそのこと嫌いでもいい。
それでも、子供というちっぽけな存在を、命がけで守ってくれる。
そんな大人がいるのなら。
「助けて……」
「任せとけ」
キキ―ッ、ガシャンッという音と共に、聴き馴染みのある声が頭上から聞こえてくる。
峯山が
激しい音が鳴った方角へ視線を向けると、勢いよく駆けてきたのか、自転車の車輪がカラカラと音を鳴らして倒れている。
桜田の額には、うっすらと汗が
「……誰だ、お前は」
父親の怪訝な表情。剣呑とした雰囲気を醸し出しながら、突然現れた人物に尋ねる。
「申し遅れました。俺は――」
桜田は睨みつけるような視線を意に介さず、堂々とした態度で告げる。
「子供を助ける、ただの大人です」
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