第6話 それでも
彼にとって家は帰る場所では無く、逃げ場のない牢獄であった。
しかし、その地獄も終わりを迎える。
固く閉ざされた牢獄の扉は開かれ、一筋の光が差し込む。
悪いことの後には良いことが起こるとはよく言うが、まさにそれからの人生は優しさに包まれた道のりと呼べるものだった。
支えてくれる大人たちとの出会い、新しく自分を受け入れてくれる環境。
そして、年の離れた友人。
その人との出会いは、自分の心の底に眠る『トラウマ』と化した大人のイメージを一変させた。
初めて大人と口論をした。大人っぽくないその人は、何故だか自分と似たものを感じた。
大人と子供。相反する二人。
その出会いは奇妙で、歪な関わり方だったのかもしれない。
それでも、その出会いは間違いなく良い影響を生み出し、一歩を踏み出す勇気をくれた。
彼にとって、今の環境は充実足りえるものであった。
過去のトラウマを、忘れてしまう程に。
本を読むことが好きだった。年不相応な言葉遣いになってしまったのは、本の読み過ぎが原因かもしれない。
その本の中に、こんな言葉がある。
【
幸福と不幸は、表裏一体である。
「久しぶりだなァ。こんなところにいたのか」
良いことの後には、悪いことが来る。
〇
「それじゃあ改めて、カンパーイッ!」
乾杯の音頭と共に、グラスがぶつかる音が響く。
ハレルヤでの活動を終えた桜田が合流したことによって、飲み会の雰囲気はさらに勢いを増していく。
喧騒に包まれた飲み屋の空気、酒と共に話は弾んでいく。
「今日は随分と上機嫌だなぁ、桜田」
「え、そうか?」
友人から突然言われた言葉に、思わず桜田は面食らう。
自分としてはそんなつもりはないのだが。
無意識のうちに滲み出ていたのだろうか。
「ハレルヤでバイト始めるって聞いた時は、マジかよって思ったけど。意外と何とかなるもんだな」
「そうそう! なんか桜田の雰囲気も少し変わったよね!」
「そうかぁ? あんま実感湧かねえなぁ」
桜田からすれば、何かが変化したという実感は一切ない。
自分が変わったのだとすれば、それは環境による不可抗力だろう。自分の意志で変わったのではなく、変えられたと言っても過言ではない。
その時、桜田はふと思った。
人の成長は環境によって左右されるのだとしたら。
自分が変われた要因は。
「ひょっとして、桜田の子供嫌いも治ったんじゃないか?」
「いやいや、俺は――」
桜田が答えようとしたその時。
ポケットの中に入っていた携帯が小刻みに震えだす。
こんな時間に電話が来るなんて、一体誰だ?
そう思いながら画面を見るが、名前は書かれておらず電話番号のみが映し出されている。
「すまん、電話だわ。ちょっと出てくる」
「あいよ~」
桜田は携帯を握りしめながら居酒屋の外に出る。冷たい夜風が、酔いで火照った身体にちょうどよい。
桜田は何の気なしに、携帯を耳に当てて通話に出る。
「はい、もしもし」
「もしもし、桜田さんのお電話であっていますかッ!?」
電話先から聞こえてくる、若い男性。
間違いない、児童館ハレルヤに勤める職員の声だ。
だがその声に余裕は無く、どこか切羽詰まった様子がうかがえる。
「はい、桜田ですけど。どうかしましたか?」
「すいません桜田さんッ! 峯山君と一緒にいませんか? 彼の父親が近くまで来ているそうなのですが、まだ家に帰っていないみたいで……」
「……は?」
職員の言葉に、思わず思考が停止する。
峯山が、無口君が家に帰っていない?
予想だにしなかった状況に言葉が喉を詰まらせる。
「な、なんで。しかも父親って、あの……」
「桜田君。落ち着いて聞いて欲しい」
電話先の声が変わる。
落ち着いた口調。館長の里見が桜田に呼びかける。
しかし、いつもの緩い口調はそこに無く、微かな緊張感が含まれた堅い声が響く。
「峯山君のお母さんから連絡が入った。父親が、今から会いに行くという連絡をよこしたらしい。黒井さんが家に向かった時には、既に姿は無かったそうだ」
「なんで、そんなこと」
父親が会いに来る。一見すれば何もおかしくない状況の筈。
しかし、桜田は聞いてしまっていた。父親が一体どんな男だったのか。峯山に対して、どんな行為に及んだか。
酔いはすっかり醒め、冷や汗が流れる。
「そうだ、峯山は!? 家に帰っていないって……」
「児童館から家に帰るという連絡を送ってから、30分ほど帰ってきていないそうだ。寄り道をしない子だから、まさかとは思うが……」
「ッ!」
嫌な予感が胸中に膨れ上がる。
最後に見た、楽しそうな峯山の笑顔。
ようやく、ようやくなのだ。
峯山が勇気を持って一歩踏み出して、成長しようとしている。
そんな時に、こんな時にまさか……。
桜田は無意識のうちに、携帯を強く握りしめる。
「とりあえず、近辺を捜索してみるそうだ。僕らもこちらの予定が終わり次第向かう事にするよ。桜田君は用事を優先してくれて構わない。何かわかったら連絡を――」
「里見さん。峯山君の住所を教えてください」
里見の言葉を遮り、桜田が強く静かに呟く。
その言葉を聞いた里見は、桜田の意図を即座に理解する。
「いいのかい? 君はただのアルバイトだ。無理をする必要は」
「お願いします」
「……分かった。住所を送っておくよ。あまり無理はしないように、分かったかい?」
「ありがとうございます」
「ありがとうは、こっちのセリフだよ」
そういって里見は通話を切った。
携帯を耳から離し、少しの間じっと画面を見つめる。何かを逡巡するかのように。
そして桜田は急いで居酒屋の中へと戻っていく。
「すまん! 外の自転車貸してくれないか?」
「おいおい、急にどうした?」
「……子供を探しに行かなきゃ」
桜田の言葉に、友人は思わず目を丸くする。
「お前、正気か?」
「どうしたんだよ桜田。らしくないじゃん」
「そうそう! 子供嫌いの桜田はどこ行ったんだよぉ」
やいのやいの、騒ぎ立てる悪友たち。
「せっかく飲み会盛り上がって来たんだしさ、子供くらいほっといても良くね?」
「わざわざ桜田が行く必要ねえって!」
「そういうのはさ、もっと子供好きな奴に任せときゃいいんだよ」
口々に飛び交う、制止の言葉。端々から伝わってくる、困惑の感情。
友人たちは、桜田の以前と異なる様子に戸惑い、そしてその姿を求めていた。
結局のところ、子供好きとはなんだろうか。子供嫌いとはなんだろうか。
自分の子供ならいざ知らず、多くの場合目にするのは他人の子供である。
自分と全く関係のない子供。そんな存在に対して、無償の愛を向けられるだろうか。
多くの場合、それは不可能の筈だ。無償の愛を向ける事が出来るのは、自分の血を分けた肉親がほとんどであり、それ以外で無償の愛を向けることが出来るのは、限られた奇跡的な関係のみ。
しかしそれでも。血がつながっていようとも、自分の子供を愛さない家庭も存在する。
血の繋がりでさえ、子供好きの証明とはならないのだ。
「確かに、俺は子供が嫌いだよ」
桜田はポツリ、と小さく呟く。
今まで幾度となく言われてきて、自分自身そうだと思って生きてきた。
子供は何を考えているか分からないし、意味も無く騒ぎ立ててムカつくことだってある。
それでも。
『君は優しいね』
里見の言葉を思い出す。
『これからも峯山君のことよろしく頼むよ』
黒井の言葉を思い出す。
そして――
『……少しはあなたのおかげでもありますよ』
峯山の言葉を、あの笑顔を思い出す。
子供のことが嫌いだとか、好きだとか。
そんなことどうだっていい。
「でも、子供が傷つくのを見るのはもっと嫌いだ」
桜田がハッキリと断言する。
その言葉に、友人たちは面食らう。あの桜田から、まさかこんな言葉が飛び出るとは。
唖然とした友人たち。しかしその真剣な表情に、ようやく理解する。
桜田は、変わったのだという事に。
「……何があったかは、話してくれないんだな」
「……すまん」
児童の情報を漏らす訳にはいかない。桜田が頭を下げて謝る。
その様子を見た友人は、やがてため息を一つこぼすと、ポケットから鍵を取り出す。
「ま、なんかわかんねーけどよ」
そして鍵を握りしめた拳を、桜田の胸に叩きつける。
「頑張れよ」
「ッ! ……おうッ!」
桜田は鍵を受け取り、居酒屋の外へと向かう。
背中に浴びせられるのは、友人たちの激励。
まるで背中を押されている感覚を覚えた桜田は、ふと思い出す。
『大丈夫』
あの時、峯山にかけてあげた言葉。
もう一度、言ってやらなくちゃ。
お前はもう、大丈夫だから。
「よっしゃァ、行くか!」
抱き続けた疑問に終止符を。
決意を胸に、想いを心に秘めながら。
桜田、発進。
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