第5話 兆し

 にとって、家は帰るべき場所では無かった。


「俺の言うことが聞けねえのかァ!?」

「そうじゃないの! ただ私は、もう少し落ち着いてほしいって……」

「うるせえッ! 俺が今までお前らを養ってきたんだ! もっと俺を敬えよォッ!?」


 罵倒と暴力が飛び交う、荒れた日常。

 実の父親と母親が巻き起こす醜い争い。もちろん完全に母親が悪いとは思っていない。一方的に攻撃するのは、いつも父親の方からだった。

 父親はまるで嵐の様で、どうにもならない災害みたいだった。


「どうして俺が……」


 父親が小言でブツブツと呟いている。

 以前は父親もこんな様子では無かったと、母親が話してくれたことを思い出す。ブラック企業に勤めながらも、家族のために汗水たらして必死で働いていたらしい。

 精神的苦痛を和らげるために、父親が縋ったもの。

 それがお酒であった。


「もうやめてあなた……。飲み過ぎよぉ!」

「黙れッ! 俺に指図するんじゃねェッ!」


 母親の制止を振りほどき、自らの欲望に手を伸ばす。今の男にとって、お酒が唯一の生き甲斐であった。それが依存であると分かっていながら、決して止めることは無い。


 それがたとえ、会社から解雇された後であろうとも。


「ああ、イライラする」


 それでも母親は堪えていた。もともとは優しい人間だという事を知っているが故の情なのか。自分が耐えれば良いと思っていた。

 その矛先が、子供に向くまでは。


「おい、何こっち見てるんだ」


 部屋の隅で小さく佇んでいる、子供の視線に目を向ける。

 普段であれば子供に手を挙げることは無かった。それは父親としての最後のプライドか。悪態をつくだけにとどまっていたのだ。

 しかし、酒に酔った男の機嫌は今までになく悪かった。


「――ちょっとこっち来いッ!」


 その日から、地獄はさらに深まった。

 にとって、家は帰るべき場所では無かった。 


 彼にとって家とは、逃げ場のない牢獄であった。




 〇




「――い。――だ。――桜田!」

「っ! お、おお。悪いボーっとしてた」

「ったく。しっかりしてくれよ」


 大学の食堂。

 様々な生徒が思い思いに食事を楽しむその場所で、桜田は悪友たちといつものように話を交わしていた。


「だからさ、今日の夜で大丈夫かって話だよ。飲み会」

「あ、ああ全然大丈夫。なんとか行けるわ」

「よっしゃあ決まりっ! いやぁ、久しぶりだなぁ!」


 桜田の大学はもうすぐ夏休み。長期休みに入る前の景気づけという名目で、久しぶりの飲み会を決行しようとしていた。

 周りの友人たちは喜び騒いでいる。もちろん桜田も、同じく久しぶりの飲み会を楽しみにしていた。

 しかし。


「お酒、か」


 ポツリと、桜田が小さく呟く。


「それじゃあ俺たちは先に行って始めてるから、バイト終わったら急いで来いよ!」

「おけ、任せとけって」


 大学の授業が終わっていないにもかかわらず、浮かれ気味の友人を眺めながら笑顔を浮かべる。

 しかし桜田のその笑顔には、一抹の影が落ちていた。






「今日は少し早めに上がりますね」

「はいはーい。じゃあその分今日もよろしくね~」


 放課後、桜田はいつも通りハレルヤに来ると、挨拶を交わしてそのまま仕事に向かう。

 扉を開けて廊下に出ると、黒いスーツの男性とバッタリ鉢合わせた。


「あ、黒井さん」

「お、桜田君。その節はどうもありがとうね」


 無口君こと峯山の一件を担当している、黒井さんがそこに立っていた。


「いえ、こちらこそ色々教えていただいて。まだ少し整理がついていないんですけど」

「いやいや! こちらの方こそ、桜田君は峯山君と接することが多いだろうからという理由で、すまないね。最近、峯山君の口から桜田君の話をよく聞くよ」

「いや、多分それ悪い意味ですよね?」


 桜田はボリボリと頭を掻く。どうあがいても桜田の話が多い理由は、むかつく大人だからだろう。

 自分の関わり方は、大人として正しいのだろうか?

 間違ってるんだろうなぁ。

 常にそう思いながら、桜田は最近よく峯山と関わっていた。


 前回の図書室での大騒動から、約が経過していた。


「ハハハ、それだけ興味を示しているってことだよ。あんなに感情豊かな峯山君は初めて見るからね」


 黒井は柔和な微笑みを浮かべている。

 桜田はその言葉を聞いて、またむず痒い気持ちになる。自分の行動に自信が無いからこそ、その発言に疑いかかってしまう心が存在していた。


「まあ何はともあれ、これからも峯山君のことよろしく頼むよ」

「はは、頑張ります」


 よろしく頼む。その言葉を聞いた桜田は、苦笑しながらその場を立ち去る。

 自分に何が出来るのか、そう思いながら。




「よーお峰山君」

「どうも」


 他の子供たちの遊び相手として、運動室でヘロヘロになった後、図書室に向かうとそこに峯山がいた。

 いつも通り子供たちと関わらず、一人で本を読むその姿を見る。桜田は既に気付いていた。本当は、他の子供たちと遊んでみたいと思っている事に。


「運動室で遊ばなくていいの? 別に無理にとは言わないけどさ」

「……大丈夫です」


 そういいながら峯山は口元を本で隠してしまう。

 なんだかんだあの日から常に関わってきた桜田からしてみれば、「それで誤魔化しているつもりか?」と言いたくなる。

 あまりにも分かりやすい。


「まぁいいや。……実は、峯山君に聞きたいことがあって」

「なんですか急に改まって。別にいいですよ」

「……お父さんのこと」

「ッ!」


 峯山の本をめくる手が止まる。顔はみるみるうちに険しくなっていく。


「……どこでそれを」

「すまん。里見さんに教えてもらったんだ」

「そう、ですか」


 桜田の言葉を聞いた峯山は、合点がいったとばかりに目を閉じる。

 その様子からは、聞かれて困るといったような嫌悪感は感じられなかった。


「勝手に色々聞いちゃってごめんな」

「別にいいですよ。いつまでも隠し通せるとは思ってませんでしたし」

「そっか……」


 二人の間に長い沈黙が流れる。

 聞きたい事は色々あった。傷は大丈夫なのか。生活はどんな感じなのか。学校は行っているのかどうか。

 疑問は際限なく湧き出て、尽きることは無い。

 それでも、真っ先に口をついて出てきた言葉は。


「お父さんの、大人のこと。峯山君は、どう思ってる?」

「どう思ってる、ですか」


 思いもしなかった質問に驚きつつ、峯山は思考を巡らせ、ポツリと呟き始める。


「大人なんて嫌いでした」


 第一声。強い口調で語りだす。


「別に初めから嫌いだった訳じゃないです。記憶は曖昧だけど、優しかった父の姿も少しは覚えてるし、お酒を飲むのも嫌じゃなかった」


 桜田は頷きながら耳を傾ける。


「でも気が付いた時には父は荒れ始め、母に暴力を振るうようになりました。その矛先はやがて自分に向くようになって」


 峯山の声に、悲壮感が滲む。


「近隣の大人に助けを求めたけれど、以前の父親を知る人はみんな、少し疲れているだけだと取り合ってくれなかった。結局手を差し伸べてくれたのは、問題が明るみになってからでした」


 桜田は思考する。自分が近隣に住んでいたら、自分は手を差し伸べることが出来ただろうか。


「その時思ったんです。嗚呼、って」

「そっか」


 峯山の話を聴いた桜田は、何の言葉も出てこない自分に腹が立った。

 今まで自分が過ごしてきた環境を振り返り、何の言葉も説得力を持たないと悟った。



「でも」



 峯山が視線が桜田に向く。その眼には、先程の悲壮感など感じられない。


「一人で育ててくれる母、手を差し伸べてくれた黒井さん、温かく受け入れてくれた里見さん。そんな大人もいるんだなって、最近少しは思うようになったんです」


 その時の、峯山の微笑みは。

 桜田が呆然とする。

 その笑顔は、思わず心が震えてしまうような、様々な思いが含まれた笑顔だった。


「すごいな、峯山君は」

「……少しはあなたのおかげでもありますよ」


 万感の思いで桜田は口を開く。それに対して峯山が小さく呟く。

 その言葉を、桜田は聞き逃さなかった。


「え、なんだって?」

「さーて! じゃあせっかくだし、体育室にでも行ってみようかな!」


 峯山は逃げるように本を片付けると、颯爽と体育室へと駆けだした。

 その姿を追いかけるように桜田が向かうと、体育室の前で立ち止まる峯山の背中。


 だから桜田は、峯山の背中をそっと押し出す。


「大丈夫」

「っ! ……はいっ!」


 体育室の中に勇気を出して足を踏み入れる。

 その様子に気が付いた一人の子供が、峯山に話しかける。

 それは、初日に峯山を突き飛ばした悪ガキであった。


「あ、お前……」

「う……」


 見つめ合ったまま動かない二人。

 桜田は、さすがにこれは不味いかと間に入ろうとしたその時。


「あの時はごめん!」

「え?」


 悪ガキが、頭を下げて峯山に謝った。

 その様子に、峯山と同じく桜田も呆然としてしまう。


「もういちど謝ろうと思って……」

「う、ううん。大丈夫! 自分の方こそ無視してごめん」


 峯山も謝罪する。二人の間にもはや険悪さは感じ取れず、清々しい顔つきが見て取れる。


「僕は峯山です。遊びに入れてくれない?」

「いいよ! おれは川崎かわざき、よろしく!」


 二人はあっという間に仲良くなり、揃って遊びに戻っていく。

 その様子を後ろから見ていた桜田は、驚きながらも思わず笑い出してしまう。


「ハハッ! すげえな、子供の成長って」


 桜田は今、二人の子供の成長を目の当たりにした。

 先程聞いた峯山の話。そして今の光景。

 もしかしたら子供というのは、自分の想像以上に凄い部分があるのかもしれない。


「成長するのは子供たちだけでは無いよ」


 その言葉に振り返ると、そこには館長の里見が立っていた。


「里見さん……」

「桜田君もね、同じように変化してきてるさ。今の笑顔、いつもの作り笑顔じゃなくて自然に出てきただろう?」

「あっ」


 里見の言葉に思わず口元に手を当てる。口角が上を向いている。無意識のうちに笑っていた。


「子供嫌い、とはもう言えなくなってきたかもね」

「そう、ですかね。まだよく分からないです」


 その言葉は偽りのない本心だ。

 しかし言葉とは裏腹に、笑顔が落ちることは無い。桜田の心は以前よりも、清々しい気持ちに満ち溢れていた。


 子供の成長。その光景を目の当たりにした。

 峯山の話。それでも一歩足を踏み出す背中を見た。

 自分の気持ちは分からない。

 だがしかし、何かが変わろうとしている。それも良い方向に。


 桜田はそんな予兆を感じずにはいられなかった。







「すいません桜田さんッ! 峯山君と一緒にいませんか? 彼の父親が近くまで来ているそうなのですが、まだ家に帰っていないみたいで……」


 切羽詰まるように鳴り響く携帯電話から、その言葉を聞くまでは。

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